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逸る気持ちと不安を抑えて、功(こう)は待った。掲示板に自身の番号が張り出されるのを。周囲も同じような学生や親子連れで満ちていた。勿論、ネット上でも閲覧は出来る。しかし、巧は自分の道程を、そして、その成果を直接目に焼き付けたかった。
「お、来たぞ!。」
誰からとも無く声があがり、腕章を着けた係の者が折りたたまれた大きな模造紙を持って現れた。そして、脚立を設置すると、数人がかりで徐に模造紙を広げて、それを丁寧に掲示板に貼り付けた。
「おー!。」
「やったーっ!。」
「来たーっ!。」
歓喜の声と同時に、低く唸りながら嗚咽する声。正に悲喜交々な光景だった。集団より少し後ろの方に陣取っていた巧は、まだ番号が確認出来なかった。数分後、ようやく番号の確認を終えた前列の人達が移動すると、巧は歩みを前に進めた。そして、
「よし・・。」
そう頷きながら、ゆっくりと視線を掲示板に向けた。
「一一九二、一一九二・・。」
彼は呟きながら、自身の番号を探した。
「一一八九、一一九〇、一一九一・・、」
「ゴクン・・。」
生唾を飲む音がした。そして、
「一一九二・・、」
其処に、彼の受験番号はしっかりと表示されていた。
「・・・ったあああっ!。」
彼はガッツポーズをしながら、クレシェンドに雄叫びを上げた。すると、
「合格されましたか?。」
と、巧の両脇から、大学の体育会系部員と思われる連中が彼の元に駆け寄ってきた。
「あ、はい!。」
「御目出度う御座いまーす!。」
部員達はそういうと、彼を取り囲むようにして持ち上げた。そして、
「ワーッショイ!。」
「ワーッショイ!。」
「ワーッショイ!。」
と、力の限り、巧の体を空高く放り投げて胴上げをした。初めは巧も驚いたが、二回、三回と宙を舞っているうちに、彼の心も頂天に達した。長年の努力が実り、ようやく最難関の大学に合格したのだから。人生の絶頂を、この場で、こんな風に迎えるのもいいだろうと、巧は宙を舞いながらそう思った。と、その時、
「ドタッ!。ゴキッ!。」
胴上げに疲れた部員たちが、それぞれ少し休もうと、力を抜いた。そして、それが不運にも、部員のほぼ全てが同じタイミングで行ったものだから、巧は頭を下にして真っ逆さまに地面に叩き付けられたのだった。
「おい、しっかりしろ!。」
部員達は巧を起こそうとしたが、彼の首はあらぬ方向に曲がり、息をしていなかった。
「救急車っ!。」
掲示板の前は、合格発表を見る一団とは異なる人垣が出来、人生の絶頂から奈落の底に突き落とされた若者が一人、哀れにもサイレンと共に運ばれていった。
「・・・ん?。」
とある街の路地裏で、一人の若者が目覚めた。
「何だ?、此処・・。」
ひんやりとした濡れた石畳が、彼の頬を冷ました。彼は自身の状況を確認しながら、ゆっくりと起き上がろうとした。と、その時、
「また、こんな所で、誰か寝てやがる。おら、起きろ!。」
臀部を足蹴にする感触で、彼は無理矢理に起こされた。
「しょうが無えなあ・・。こんな所に寝られてちゃ、邪魔だ。ほら、どいたどいた!。」
足蹴にした男性は、座り込む若者を向こうの方へ追いやろうとした。しかし、
「ん?。オマエ、この辺りの者じゃ無えな。」
と、男性は若者の顔を不思議そうに見つめた。そして、
「オマエ、名は何てーんだ?。」
と、何気にたずねた。
「・・・コウ、です。」
「コウ?。変な名だな。どっから来た?。」
「えっと、確か、掲示板の前辺りから・・、」
「掲示板?。何だそりゃ?。」
「えっと、数字が張り出されている大きな板です。」
「数字?。あれか?、計算とかに使う、あの文字みたいなヤツか?。」
男性は不思議なことをいいだした。数字をそんな風に語る者など、コウは生まれてこの方、一度も会ったことが無かった。
「まあ、いい。ところでオマエ、飯食ったんか?。」
男性は若者の身なりや様子を見て、このまま放置しても、どうせ他の所でまたいき倒れるだろうと、そう思った。
「いえ。合格発表の後は、何も・・。」
「ゴウカクハッピョウ?。何だそりゃ。まあいい。こっち来て入れ。」
そういうと、男性は大きな木戸を開けて、若者を部屋の中へと誘った。すると、
「此処は・・。」
若者は辺りを見回した。どうやら其処は、酒場らしかった。昔、絵本か何かで見たことのある、古い異国の雰囲気が、其処彼処に漂っていた。石が敷き詰められた床にレンガが積み上げられた壁。そして、木のカウンターの上には酒樽らしきものが並んでいた。厨房の方では、薪を燃やして調理をしているらしく、パチパチと弾ける音と共に、肉や野菜が煮込まれているであろう大鍋からは、円やかで食欲をそそる香りが立ちこめていた。
「さ、此処に座れ。」
男性はそういうと、カウンターの一番端の席に若者を座らせた。そして、
「これで顔拭け。」
と、ポケットからハンカチを取り出して、彼に手渡した。
「あ、すみません。」
若者が恐縮してると、
「ほれ、食いもんだ。」
と、中年の女性が鍋からよそった食べ物を木の器に入れて、彼の前に差し出した。そして、木の匙を手渡された若者は、
「うっ、うっ・・。」
と、噎び泣いた。
彼は食べ物の匂いと、店内の温かさで、少しずつ記憶を取り戻したのだった。
「ほら、泣いてないで、まずは食えって。腹が満たされりゃ、気持ちも落ち着くから。な。」
男性は優しく声を掛けた。
「すいません・・。」
若者はそういいながら、かき込むように温かい食べ物を口いっぱいに頬張った。それは、野菜と肉を塩だけで煮込んだであろう、極めてシンプルな食べ物だった。しかし、
「う、美味いです・・。」
そういいながら、あっという間に器の中身を平らげた。
「ほら、もっと食いな。」
男性は女性に命じて、二杯目を運ばせた。若者は、それもあっという間に平らげた。そして、ようやく気持ちが落ち着いた若者は、ホットした様子で木の椅子に座ったまま、少し微睡んだ。
「で、兄ちゃんよ。オマエ、どっから来たんだ?。」
男性の問いに、若者はどう答えようかと迷った。確かに自分は、ついさっきまで掲示板の前で胴上げをされていた。そして、恐らくは偶然の不幸が重なって、その最中に頭部を強打し、首もねじ曲がってしまったのだろう。そして気付けば、自身がこんな見慣れない世界にやって来た。
「転生・・かあ。」
「転生?。」
呟くようにいった若者の言葉を、傍らにいた男性は繰り返した。
「あ、いや、何でも無いです。ボクはコウといいます。食事を、どうも有り難う御座いました。」
コウはお礼をいうと、この世界の勝手が解らないながらも、
「あの、お礼に何かお手伝い出来ることはありませんか?。」
と、男性に申し出た。コウは転生などというものを信じてはいなかったが、現に今、瞬時にして自分は死と同時に新たな生を与えられた。その感覚は実に生々しかった。そして、後戻り出来ないであろうことも察知しつつ、それならば、この世界で前向きに生きていくしか無いと、そう考えたのだった。
「そんな気なんて遣わなくていいから、ま、ゆっくり休んでけ・・といいたいところだが、もうすぐ昼飯時だ。客がくるから、じゃあ兄ちゃん、ちょっと手伝ってくれるか?。」
そういうと、男性はコウに仕事を手伝うように頼んだ。それは、いきずりの若者に少しでも仕事を与えて、気力を取り戻させようという、男性の気遣いだった。コウは自身が食べた食器を厨房へ持っていくと、くみ置き水を節約しながら、藁を束ねて出来たタワしで器を洗った。すると、
「よう、親父、飯だ。」
「よう、こっちも飯だ。」
と、大きな木戸を潜って、次々に客達が現れた。
「はい、いらっしゃーい!。」
男性と中年女性は夫婦らしかった。そして、其処にコウも加わって、三人で食事を作ったり、給仕をしたりと、あっという間に店内は大忙しになった。と、其処へ、
「キャハハ。」
「キャハハ。」
と、厨房の間を、小さな子供達が楽しそうに駆け回って遊びだした。
「こら!、オマエら!。遊んでないで、店手伝え!。」
「はーい。」
「はーい。」
男性に叱られると、子供達は結構素直に従った。そして、出来た料理を客達の前に給仕しては、
「お、有り難うよ。これ、駄賃な。」
と、客から少しずつ小遣い稼ぎをしたのだった。
「ありがとー。」
「ありがとー。」
子供達は客達から駄賃を受け取ると、それを男性にこっそり手渡した。
「ご苦労さん。」
その動きは実に手慣れていて、このような店では、子供も貴重な労働力なのだろうと、コウは瞬時に理解した。そして、ようやく客の入りが一段落したところで、
「さて、オレ達もぼちぼち、飯にするかー。」
「わーい。」
「わーい。」
男性の言葉に、子供達は喜びながら、自分たちの器を用意して、女性に食べ物をよそってもらうと、それをテーブルまで運んだ。そして、四人が揃うと、彼らは静かに胸の前に手を組んで、祈りを始めた。その様子を、コウはカウンターの片隅から静かに眺めていた。
「じゃ、いただきます。」
「いただきます。」
「いただきまーす。」
「いただきまーす。」
男性と女性はゆっくりと、そして、子供達は大急ぎで食事を食べ始めた。その光景を見ながら、彼は急にこの世界に来ることになってしまったこと、そして、自身がこの世界では孤独な存在なんだという思いを一気に感じて、寂寥の念に駆られた。すると、
「あの、お兄さんも、よかったらこっちへ来なさいな。」
女性がコウの様子を察してか、みんなの食卓へと誘った。
「いえ、ボクはさっき頂きましたから・・。」
コウは二杯も食事を頂いたのに、これ以上は申し訳無いと、そう思ったが、
「そんなもん、少し働きゃ、じき腹は減るって。それでも腹一杯なら、これでも食えや。」
男性はコウに固いパンを切って手渡した。そして、樽から少し葡萄酒らしきものを注いで、
「ほれ、これも飲め。」
と、カップを差し出した。コウは有り難い気持ちで胸がいっぱいになり、
「すみません。」
と、そういいながら、涙が溢れそうになるのを堪えて、パンを囓った。少し黒ずんだ、ライ麦だけで作られたであろう素朴で固いパンの味は、彼の心を一気にこの世界に引き寄せていった。
お腹いっぱいになったコウは、目の前の家族を前に、次第に心が和んでいった。無骨に見えた男性も、子供達がはしゃぎながら食事を食べる様子を、目を細めて眺めていた。そんな様子を、女性は包み込むような微笑みを浮かべて眺めていた。それからコウは、店の様子に目を遣った。かつていた自分の世界とはことなり、昔に聞いた中世の童話に出て来そうな佇まいで、いわゆるインフラといったものは整ってはいない、そんな様子がすぐに窺えた。そして何より、目の前の家族は実に楽しそうに時を過ごしているが、その殆どが喋る言葉でのみ、コミュニケーションが成立していることだった。
「やはり無い・・か。」
コウは、店内にお品書きは愚か、文字すら見当たらないことに気付いていた。そして、子供達も学校にはいかずに店を手伝っている点も気になっていた。
「あの・・、」
「ん?、どした?。」
「この世界・・、いや、この辺りの子供達は、学校には通っていないのですか?。」
「学校?。」
さっきまで一家団欒を楽しんでいた男性だったが、コウの質問に、急に顔が曇った。
「さあなあ。そういうのは、貴族だの、資産家の子息だの、金のある連中がいく所だ。オレ達には関係無え。」
男性はそういうと、女性と子供達に食べた物を片付けるように顎で促した。コウは、聞いてはマズいことを聞いてしまったと思いつつ、さらに質問した。
「じゃあ、この辺りの子供達は、学校には?。」
「ああ、いったこと無えよ。オレも、あの子らも。」
自身がこの世界に来たこと、そして何より、この家族に恩義を感じていること。それらがコウの心の中で、何かを突き動かした。
「じゃあ、あの、もしよかったら、ボクが勉強を教えましょうか?。」
コウは勉強漬けで、ようやく合格を手にしたのも束の間、この世界に意図せず転生させられた。しかしこれも何らかの運命に導かれてのことと、そう思わずにはいられなかった。例え断られても、根気強く説得すれば、この男性も解ってくれる。コウはそう考えた。すると、
「ほう。ということは、兄ちゃん、読み書きや計算が出来るんか?。」
男性はキョトンとした顔でたずねた。
「ええ、勿論!。」
「ほー!、そいつはいい!。そんな人間に会ったのは、税の取り立てに来る役人か、僧侶以外じゃ初めてだ!。あの子らも、読み書きが出来るとなりゃ、こんな苦労しなくても済む。是非頼むよ、兄ちゃん!。」
男性の言葉が、さらにこの世界の様子を暗に物語っていた。そして、歓喜に満ちた眼で、男性はコウに懇願した。
「解りました。じゃあ、書くものを・・、」
といいかけて、コウは言葉を飲み込んだ。恐らく、学ぶということが一般に普及していないであろうこの世界では、文房具などといったものも、揃ってはいないだろうと、コウは考えた。ところが、
「まさかとは思ったが、そんなこともあろうかと・・、」
男性はそういいながら席を立つと、カウンターの下から紙の束とペンとインク壷、そして、小さい黒板と白墨を持ち出した。
「こいつは以前、とあるお屋敷に庭の手入れにいったときに、其処の奥方がお礼にくれたものだ。子供達にってな。だがよ、折角もらっても、どう使っていいか解らなかったから、仕舞っといたんだ。」
それは、決して上質なものではなかったが、二人の幼い子供達が学びを始めるには十分な量の文房具だった。それを見て、コウの眼に光が宿った。
「この世界で、ボクが出来る、いや、役に立つことがある・・。」
息も絶え絶えに、いき倒れ寸前だったコウは、この世界で何かがやれる、いや、何かを変えることが出来る、そんな予感がしてならなかった。
「おーい、ちょっとこっち来な。」
男性は子供達を再び呼び寄せると、机に座らせた。
「いいか。このお兄ちゃんがな、オマエ達に勉強を教えてくれるそうだ!。」
「勉強?。何、それ?。」
子供達は男性が何かいいものをくれるのかと思っていたが、アテが外れてキョトンとしていた。すると、コウは小さな黒板を二人の前に立てると、
「あのね、キミ達、喋れるし、言葉も知ってるよね?。」
コウは優しく子供達にたずねた。
「うん。」
「うん。しゃべれる。」
「じゃあ、その言葉には、文字があるのを、知ってる?。例えば、エー、ビー、シーって言葉には、こんな形があるんだって・・。」
そういいながら、コウは白墨でアルファベットを書き始めた。それを見た子供達は、最初、何が行われているのか分からない様子だったが、コウが言葉に合わせて文字を書き続けると、二人の目は次第に輝いていった。
「ほえー!。」
「わー!。」
驚く子供達の前に、コウは紙とペン、そして、二人の真ん中にインク壷を置くと、
「いいかい?。こうやって、字は書くんだよ。」
そういいながら、ペン先にインクを付けて、紙の上にお手本の字を書いて見せた。
「わー!、字だ!。」
「字だ!、字だ!。」
二人はそれを見て大はしゃぎだった。すると、
「あんまり騒ぐと、インクが零れちゃうよ。ゆっくり、丁寧に書いてみてごらん。」
コウがそう促すと、二人はコウの真似をして、ゆっくりとアルファベットを書き始めた。初めはペン先の強弱によってインクが紙に滲む様子を興味津々で眺めていたが、次第にコウが示してくれたのと同じ形の文字が書けるようになると、
「そうそう。その調子。上手いぞー。」
とコウが褒める度に、二人は照れ笑いしながらも、真剣に文字の練習を続けた。そして、親たちも傍らで見守っていたが、
「一緒にやってみますか?。」
とコウが声を掛けると、二人も少し恥ずかしそうに文字を書き始めた。
「ほら、見て!。ボクもう、こんなに書けるよー!。」
「アタシもー!。」
やはり子供達の方が、学ぶ速度は速かった。アルファベットの基本を書き終えると、今度は数字の説明を始めた。
「数は知ってるね?。」
「うん。」
「うん。」
コウは指を一本ずつ立てていき、
「コレが一、コレが二・・、」
そんな具合に、指の数に合わせて黒板に数字を読みながら書いていった。それを見ながら、子供達も、
「いち、にー、さん・・、」
と声に出して読み上げながら、数字を書いていった。
「よし、上手いぞー。その調子。」
コウは少し大袈裟なぐらいに二人を褒めながら勉強を教えた。しかしそれは、ワザとでは無く、全く学びがゼロだった状態の子供達が、まるで乾いた大地に水が染み込むが如く吸収していくことが、コウにとっての存在意義として感じられたからだった。
「うん、このままいけば、四則計算や、その先の・・、」
と考えたしたところで、
「あれ?、その先って、一体、何だっけ?。」
と、コウはかつて小学校の低学年で学んだ計算以上のことを、全く思い出せなかった。
「おかしいなあ・・。割り算は三年生で習ったぞ。その次に習ったのは・・、」
と、いくら思い出そうとしても、全く浮かんでこなかった。
「何でだよ!。オレは大学にまで受かったんだぞ。それだけの知識があれば、この世界にも学んだことを普及させることだって出来るのに・・。」
焦った。脇の下から嫌な汗が噴いてきた。
「ねえ、もう数字覚えたよー!。次は?。」
学ぶことの楽しさを知った子供達は、目をキラキラ輝かせながら、コウにせがんだ。
「う、うん。よーし、じゃあ、次は・・、」
コウは今目の前にいる子供や親達にとっては十分な量のことは思い出したが、その次に何かをせがまれても、もう脳内にストックは無かった。どうやら、前世に高尚なる知識を、ほぼ全て置き忘れてきたらしかった。
「これだけじゃ、全然不十分だ。ちきしょう、困ったな・・。」
この世界の文明化から察するに、前世と同程度のことまでは学ばなくてもいいかも知れない。しかし、今自分が持っている、いや、殆ど持ち合わせていない知識量では、世界を変えるどころか、困難に向かって未来を切り開くためのツールとしてはほど遠いと、コウは直感した。と、その時、
「ん?、待てよ・・。学ぼうとする意欲は、どうやら残っているようだな。」
と、自身の頭が、前にいる子供達と同様、学びに飢えていることに気付いた。そして、その不足を補うためには労を厭わない自身の姿勢だけは、辛うじて思い出すことが出来た。
「よしっ!。」
コウは思わず大声で頷いた。
「え?、何が?。」
驚いた子供達がたずねた。
「あ、いや、こっちの話。キミ達、今日はよく出来たぞー。じゃ、今日の分はここまで。」
コウはそういって、子供達の頭を撫でた。すると、
「えー、もうお終い?。もっと教えてよー!。」
子供達は実に知的欲求に満ちていた。しかし、
「はは。いいかい?。勉強というのは、やればやるほど、頭が良くなる。でもね、あんまり一気にやり過ぎると、頭が疲れてパンクしちゃうぞ。」
そういって、コウはワザと恐ろしい顔をして見せた。
「えー。」
それを聞いて、子供達は初勉強の興奮が一気に冷めたようだった。親達には子供だましは通じなかったが、子供よりは先に集中力が落ちていたようで、
「うん、お兄ちゃんのいう通り、この辺でよしとこう。」
と、そういいながら、子供達の頭を撫でた。コウは机の上に広げた文房具を仕舞うと、
「さ、休憩だ。遊びにいっておいで。」
と、子供達を外へ誘った。それを見届けると、自身は引き続き店の手伝いをしようと、厨房へ入ろうとした。すると、
「ああ、兄ちゃん。いや、せ、先生って呼んだ方がいいのかな?。ともかく、今日は有り難うよ。この調子で学べば、売上の勘定や税金も、人任せにせずに済みそうだ。」
と、男性も子供達と同様、年を経ても学びに触れたことの喜びを、満面の笑みで表した。
「あの・・、ところで、この町にも、図書館はありますか?。」
と、コウは男性にたずねた。
「図書館?。あの、本がいっぱい収めてある、あの図書館か?。」
「あ、はい、そうです。」
男性は、少し困ったような表情を見せた。
「うーん、あるにはあるが、オレ達のような者は、近付かねーな。」
コウはこの世界の知に対する期待度が少なからず存在していることは、たった今見た通りだったが、それを阻む何かが重く横たわっているような、そんな気がした。コウは男性に断って、図書館にいってみることにした。木戸を潜り、表通りを進んでいくと、次第に街の様相は一変した。狭い軒を並べた商圏は、やがて、立派な屋敷が立ち並ぶ地域になっていった。道行く人々の格好も、随分と小綺麗で、ドーム型の日傘を差すご婦人の姿もあった。
「ふーん、此処でも地域の差は存在するのか・・。」
コウはかつていた世界と変わらぬ差が厳然とあることを感じつつ、街の図書館らしき建物の前までやって来た。
「うわーっ、デッカいなあ・・。」
聳え立つ荘厳な建造物の前で、コウは息を呑んだ。漆喰で塗り固められた巨大な白壁には、明かり取りの大きなガラス窓が幾つも嵌められていた。コウはろくに思い出せなかった、かつて学んだ簡単な算数の公式も、此処で書物を開けば、何かを思い出す手掛かりにナルだろうと、そう考えたのだった。早速、正面玄関から入ろうと、階段を上ったその時、
「おい、其処の下郎!。止まれ!。」
と、誰かが大声でコウを呼び止めた。その声に気付いた人々も、一斉にコウの方を見た。
「おい、オマエ。こんな所に一体、何の用だ?。」
白い上着を着た男性が居丈高にたずねた。
「え?、本を読もうと思って・・。」
「何?、本だと?。オマエのような見窄らしい者がか?。」
それを聞いて、男性は周囲を見ながら冷笑した。コウは怪訝そうな表情をしながら、
「いけませんか?。此処は図書館でしょ?。みんなが本を読んでもいい場所なはず。違いますか?。」
と、男性を真っ直ぐに見て、そういった。
「ほほー。そういうからには、オマエ、字は読めるんだろうな?。」
男性は相変わらず、非礼な物いいでコウに迫った。
「はい。拙いですが。でも、人は学ぶ機会を得なければ、知識は向上しません。ですので、ボクは此処へ来ました。」
コウも一歩も譲らなかった。人垣の中に対峙する二人。そんな小競り合いを続けていると、図書館の守衛が駆けつけてきて、
「あの、此処での騒ぎは困ります。どうか、ご静粛に。」
と、男性に対して丁寧に語った。そして、コウの方を振り返ると、
「ドンッ!。」
とコウの肩を突き飛ばして、
「此処はオマエのような者が来る所では無い。去れ!。」
と、コウの知的欲求を拒否した。コウは思わず蹌踉めいたが、守衛を睨み返しながら、
「そういう法律が、この世界、いや、この地域にはあるのですか?。」
と、胸を張りながら聞き返した。守衛は戸惑った。確かに此処でも、図書館は公共の施設らしかった。しかし、不文律で、そういう所を利用してもいい者と、そうで無い者とが理不尽にも分けられていたようだった。と、其処へ、
「あら、何の騒ぎ?。」
と、一人の女性が騒ぎを聞きつけてやって来た。
「あ、マダム。何でもありません。」
守衛は女性を気遣って、余計なことを伝えないよう努めたが、
「ボクが本を読もうとしたら、この人達に止められたんです。」
コウは敢えて強い口調で、ありのままを延べた。
「あら、そうですの?。何故?。」
女性は守衛に詰め寄った。困った顔の守衛は、傍らにいた白い上着の男性の方を見た。しかし、彼ももまた、女性の問いに困惑の表情を浮かべていた。
「此処は、みんなが利用出来る場所、でしたわよね?。」
彼女は敢えて守衛にたずねた。
「え、ええ・・。」
「では、ワタクシがこの方を中にお連れしても、一向に構いませんわよね?。」
そういうと、彼女はコウの腕をそっと掴んで、
「さ、参りましょ。」
と、涼しげな顔で、二人して図書館へ入っていった。あまりのことに、コウもキョトンとした表情になった。そして、
「あ、すいません。」
コウは、自身を助けてくれた女性に礼をいった。
「いいえ。みんなが利用出来るはずの場所。当然ですわ。」
そういいながら、彼女はニコッと微笑んだ。そして、その右肘には、折りたたまれた日傘が掛けられていた。
「あの、失礼ですが、アナタ、この辺りの方では・・、」
彼女はコウの様子を見ながら、そうたずねた。
「あ、はい。他所から来ました。」
「どちらから?。」
「あの、えーっと、ずっと遠くからです。」
コウは答えに窮したが、そう答えるより他、無かった。そして、コウは再び彼女に礼をいうと、静かに図書室に入っていった。
「うわーっ。」
其処には、壁一面に天井まで幾段もの蔵書が並べられていた。早速、算数に関する書棚の辺りへ来ると、コウは一冊を取り出そうとした。すると、
「ン、ンン。」
と、小さく咳払いをしながら、何人かの者がコウを一瞥した。そんな格好で、此処へ来て貴重な書物に触れるなという、抗議の咳払いだった。しかし、コウは気にせず、その本を持って、空いている机の所まで運んでいくと、早速本を開いた。
其処にはかつて学んだであろう、様々な図形と、その面積を求める数式が並んでいた。
「うーん、見覚えがあるような、無いような・・。」
前いた世界では、あれだけ必死に勉強して、ほぼ全ての公式を頭に叩き込んだはずなのにと、コウは頭を抱えた。そして、ページを捲るごとに図形も式も複雑になっていった。コウは必死にかつての記憶を思い出そうとしたが、
「くそー!、駄目だ。思い出せない・・。」
と、さらに落胆の色を濃くした。しかし、
「待てよ・・。オレがかつて勉強を始めた時、最初から問題が解けたか?。いや、違う。少しずつ新しい式を習って、それを繰り返し繰り返し練習した。そして、次の所に進んでも、同じ作業を繰り返すことで、少しずつ問題が解けるようになった。」
コウは自身が決して優等生では無かったことを思い出した。そして、そのまま無駄に学校の授業時間を過ごすことに勿体無さを感じ、家に帰って必死で復習したり、解らない所があれば、翌日先生にたずねたりして学んだことを思い出した。
「うん、そうだ。やはり、学ぶことに近道は無い。」
コウの眼に小さな炎が灯った。彼は本に書かれた図や式を必死で覚えようとした。筆記具が無かったので、諳んじては覚え、そして、ページを捲っては、また諳んじて覚えた。彼のブツブツ唸るような音に、周囲は眉間に皺を寄せて迷惑そうにしたが、コウは眼中になかった。そして、そろそろ日も傾き掛けた頃、司書がやって来て、明かり取りの窓の両脇にあるカーテンの帯を解き始めた。
「んー、時間が足りないな・・。」
コウは間もなく追い出されるであろうことを知ると、読んでいた本を閉じて、受付の所まで持っていった。それを借りて帰って、続きを学ぼうと、そう考えたのだった。ところが、
「申し訳ありませんが、この本はお貸しすることが出来ません。」
と、係の者が淡々と告げた。
「え?、何故です?。此処は図書館だし、本を貸し出すのは普通のことでしょ?。」
コウは食い下がった。しかし、係の者は困惑の表情で、同じ言葉を繰り返すだけだった。仕方無く、コウはその本を受付のカウンターに置いたまま、図書館を後にした。
「まあ、借りて帰っても、この世界じゃ電気も無いし、夜学は難しいかな・・。」
そういいながら、今度は筆記具を持参して、可能な限り書き写して帰ろうと、コウはそう考えた。そして、来た道をトボトボとあるいていると、
「あの・・、」
と、後ろからコウを呼び止める声がした。聞き覚えのある声に振り返ると、
「この本、借りたかったんでしょ?。」
と、コウが図書館に入るのを助けてくれた、あの女性だった。
「あ、はい・・。でも、何故?。」
コウは彼女に感謝しつつも、何故にここまでしてくれるのか、不思議に思った。すると、
「兎に角、これを・・。」
彼女はそういうと、コウがさっきまで読み耽っていた分厚い本を、彼に手渡した。
「あ、すいません。こんな重たいものを。」
「ふー。ホント、重かったわ。それより、歩きながら話しましょ。」
彼女は辺りを見回すと、コウにいち早くこの場から移動するように促した。
「この国は、身分の差と貧富の差が固定化された世界なの。そして、その状況は長年変わることは無かった。勿論、そのような状況を快く思って無い人達もいます。でも、長年に渡って分断された階層間の溝を埋めるべき方法を、誰も見出せずにいる。それが現実なんです。」
彼女は眉間に皺を寄せながら、この世界の別の側面について語った。コウは自身がかつていた世界でも、昔に同じようなことがあったことを思い出した。
「なるほど・・。そういう状況も、身分の差も、教育さえ受けることが出来れば、何とか変えられるのに・・。」
コウは、そういいながら、手渡された本に目を遣った。すると、
「ところで、アナタ、文字が読めるのね?。」
彼女は今更ながらに、コウを驚きの眼で見つめた。
「大変失礼なんですが、そんな格好をしていたので、てっきり本なんか読めないと思ったの。偏見だとは解っていますが・・。」
彼女の疑問に、コウは自身の素性について語ろうかと、一瞬悩んだ。二度も助けてもらった恩もあった。しかし、自身が転生してきたなんて、信じてもらう方が無理だろうと、結局は自身の前世については触れなかった。
「あの、ところで、何故この国では、貧しい人々に教育を行わないんですか?。やはり、費用がかかるからですかね?。」
コウは、彼女が自身の学びに賛同してくれている理由が知りたかった。
「いえ、政府や資産家達は、民衆から徴収したり搾取した、潤沢な資金を持ち合わせています。と同時に、彼らは自分達が民衆に対して行ってきたことも、十二分に知っています。だからこそ、民衆に知恵を付けさせたくないのです。」
「知恵を付けさせたくない?。」
「そうです。」
彼女の話では、知識とは、特権階級の者だけが備えることを許される、そんな口ぶりだった。
少し人目を気にしながら、彼女は身の上話を始めた。
「ワタシの死んだ主人が、とても教育熱心な人だったんです。そして、この国から常に貧困層が無くならないのを危惧して、私財をなげうって貧しい層にも教育を施そうと、そういう活動を始めたんです。ですが・・、」
そういいかけて、彼女は言葉を詰まらせた。
「ですが?。」
「権力者や富裕層は、貧困層が知恵を付けることで、反抗の眼が自分たちに向くのを恐れたんです。そして、主人の活動を阻止しようとする連中の嫌がらせは日増しにエスカレートしていきました。そんなある日、訃報が届いたんです・・。」
彼女は俯きながらも、眼の奥底に炎のような光を宿しつつ、そういった。
「あれだけ元気だった主人が、突然死ぬはずは無い。これはきっと、何らかの策略によってなされたものだと。確かに主人は先走りすぎたかも知れない。時代が彼の考えに追いついていなかったのかも知れない。でも、知識を、特権階級の手の中にだけ持たせることは、やはり理不尽。アタシも主人と同じ考えです。」
コウは彼女の話を聞いて、何故自分に対して親切にしてくれたのかを、ようやく理解した。そして、彼女に感謝の意を伝えると同時に優しい眼差しで、
「そうだったんですね。本来はというか、知恵を求めて学ぼうとすることは、ある意味、人間の本質であり、最も重要なことだと、ボクもそう思います。だから、みんなが学ぶ機会を平等に得られるのが理想なのも十分頷けます。ですが・・、」
そういいかけて、コウの言葉が戸切れた。彼女は不思議そうにコウの顔を覗き込んだ。
「アナタ、他所の知で何かを見てきたのね?。」
彼女は直感的に思ったことを、コウにぶつけた。コウは受験勉強で学んできた貴重な知識は前世に置き忘れてきたが、かつての世界で起きていた様々な問題については、断片的に鋭く脳裏に焼き付いていた。そして、こんなにもみんなが学びを渇望している世界がある一方で、学校にいくことに疲れた子供や、教師を困らせようと騒ぎ立てて授業を妨害しようとする子供、そして何より、当たり前のように公教育が施されている飽食の時代に、さらに追い打ちを掛けるように企業が地域ごとに教室を乱立させるという教育の供給過多の現実を、フラッシュバックのように思い出していた。それ故、もしこの世界で、教育の普及が軌道に乗り、地域や国が豊かになったとしても、いき着く所はやはり、コウがかつていた世界と同様の着地点になってしまうのかと、そう危惧した。しかし、
「・・確かに、ボクはこの世界とは異なるものを、見て来ました。ですが、未来は必ずしも同じ所に帰結するとは限らない。そして今、この地域の子供達は、いや、子供だけでは無く、親達も学びの機会を渇望している。しかし、それがままならないが故に、同じ社会階層に縛られて、そこから抜け出せないままでいる。アナタのご主人がやったように、そして、アナタがお考えのように、やはりそれは変わらなければならないものだと、ボクも思います。そして、それにはやはり、不断の努力も必要ですが、何より、強かさが必要だと、ボクは思うんです。」
「強かさ?。」
さっきまで炎にもにた輝きを放っていた彼女の目が、急に好奇心に満ちた明るい光の灯った眼差しに変わった。
「はい。ボクはかつて様々なことを学びましたが、訳あって、その殆どを忘れてしまったんです。そして、再びそれらを思い出すべく、今日こうして図書館にやって来ました。何者かも解らない、いき倒れのボクを優しく迎え入れてくれた家族の人達と触れ合う内に、ボクはこの世界には学びが乏しいことを知りました。ならば、そんな人達に学びを伝えるのが、ボクに出来る彼らに対するお礼です。そして恐らくは、ボクはこの地で、そのようにすべく、遣わされたのだろうと、今はそう感じています。」
彼は微笑みながら、彼女を見てそう答えた。そして、
「それは、とある店の片隅で行われた、小さな小さな学びの場です。ですが、それこそが学びの原型であり、光明だと、ボクは感じました。つまり、大がかりに学校を作ろうとしたり、人を集めようとすれば、必ず人目に付く。故に、それを快く思わない連中の的になってしまう。ならば、人目に付かず、密やかに、しかし、確実に学びを行い続けることで、それを途絶えさせようとする者達の思惑の裏を掻くことが出来る。そして何より、」
コウはそういうと、目を輝かせながら、
「ボクはこの世界で、まだ知られていない。」
と、自身の身の上が、この世界で役に立つことを確信したのだった。
「なるほど。そんな手があったなんて・・。解りました。アナタは暫く図書館に通うおつもりのようですが、今日みたいな騒ぎがあって以降は、それも難しくなるでしょう。なら、明日からはアタシの屋敷にいらっしゃい。必要な書物は、事前にアタシが借りておきますわ。」
コウは彼女の申し出に目を輝かせた。そして、丁寧に礼を述べると、二人はその場で別れた。店に戻ると、
「おかえりー!。」
「おかえりー!。」
と、子供達が出迎えた。
「ただいまー。」
コウは駆け寄ってきた子供達の頭を撫でた。すると、彼らの後ろにも二、三人の子供達がいた。コウは子供達の遊び仲間かと思っていたが、
「先生、実は、うちの子供達が外で先生のことを話しちまったらしいんだ。そしたら、自分たちも勉強したいって、ついて来ちまってな・・。」
と、男性の言葉を聞いて、なるほどと思ったコウは、後ろにいる子供達のもとへ歩み寄ると、彼らの目線に合わせてしゃがむと、
「キミ達も勉強したいの?。」
とたずねた。すると、子供達はにこやかな表情で、
「うん。」
と元気に頷いた。それを見た男性が、
「どうだろう、先生。この子達の親も、そのことを願ってるはずなんだ。ワシらと同じようにな。だから、場所は此処を提供するから、みんなに勉強を教えてやってはくれないか?。」
そういいながら、真剣な表情でコウを見つめた。全く学びの環境の無かった子供達に勉強を教えるのは、コウにとっては難しくは無いことだった。しかし、今からでは電気の無いこの世界では、夜は暗すぎた。オマケに、筆記用具や紙さえままならなかった。人目に付かないように学ばせるには、夜の方が良いのだがと、コウが思案していると、
「ガチャッ。」
と木戸の開く音がしたかと思うと、
「こんばんわ。」
「こんばんわ。」
と、数名の大人達が店の中へやって来た。そして、
「ランプと油を持って来たよ。」
「こっちは紙と書くものよ。」
と、それぞれに大きな箱に入ったランプや紙の束やペンを持って来た。大人達はコウを見つめた。そして、
「うん。これならば、夜でも勉強が出来ます!。」
コウは輝いた表情で、大人達にそう伝えた。
「やったー!。」
「やったー!。」
子供達は互いに手を叩き合って、大喜びした。大人達も明るい表情になって、互いに手を取り合った。
「ボクはコウといいます。どうぞよろしく。」
そういいながら、コウは大人達が夜の勉強に必要な物を持って来てくれたことに感謝しつつ、握手を交わした。
「よし。じゃあ勉強を始めようか!。」
「はーい。」
「はーい。」
「はーい。」
子供達は、店のテーブルの一角に陣取ると、ペンと紙を貰って、勉強が始まるのを、今か今かと待った。大人達はランプの用意をすると、それに火を灯して、テーブルの上に並べた。
「わーっ!。」
手元が明るく照らされると、子供達は歓喜した。コウは黒板と白墨を持って来ると、ランプを一つ受け取って、黒板の上辺りに吊した。そして、白墨でアルファベットを書きながら、一文字ずつ声に出して読んだ。
「さて、ボクがやったように、みんなもこれを真似して髪に書きながら、読んでみてごらん。」
と、子供達に向かってにこやかに説明した。店の子達はもう練習していたので、スムースに書けたが、後から来た子達は、まだペンの使い方も不慣れだった。コウは一人ずつの側に寄りながら、ペンの持ち方や字の書き方を丁寧に指導して回った。
「こうやってみてごらん。」
「わー!、字が書ける!。」
初めての学びに、子供達は大喜びした。こんなに喜ばしくて有意義なことが、何故平等に行えないのか。そして、かつてコウがいた世界では、何故このような機会が蔑ろにされてしまったのかと、複雑な気持ちがよぎった。しかし、
「エービーシー、デーイーエフ。へー、声ってみんな、字に出来るんだ!。」
「すごーい!。」
「ボクもう、ゼットまで書けたよー!。」
と、ただただ学ぶことの喜びを知った子供達を見て、コウの迷いは、すぐさま消し飛んだ。
「ボクは、此処で、この世界で、子供達に学びを伝えればいいんだ・・。」
体の真ん中辺りで、何か熱く、強いものを感じたコウは、ひたすらに子供達に寄り添いながら、教えることを続けた。すると、
「さ、温かいものが出来たよ。」
と、店主と大人達は、夜食を用意してくれていた。真剣に学んだ子供達も、流石にちょっと疲れたらしく、
「やったー。いただきまーす。」
と、大人達が作ってくれたパンと温かいスープに舌鼓を打った。コウも大人達に礼をいうと、それらを頂いた。それぞれの人達の色んな思いが、温かさとなって、コウの身に染み渡っていった。
「あの、先生。今日はどうも、有り難う御座います。きっと、他のみんなも、同じように子供達が学ぶことを望んでいるはずです。ですので、これからも宜しくお願いします。」
と、大人達はコウに深々と頭を下げて懇願した。
「いえいえ、礼をいうのはボクの方です。見ず知らずのボクを助けてくれて、オマケに学びの場まで作ってもらって、こんな嬉しいことはありません。」
コウは恐縮しながら、礼をいった。すると、
「でも、先生。やってくれるのは有り難いが、気をつけないとな。」
と、この国ではみなが平等に教育を受けられる訳では無いことを、あらためて伝えた。
その後も、コウの噂を聞きつけた親達が、次々に店にやって来ては、子供に勉強を教えてくれるよう懇願して来た。すると、店主はそれぞれの家に食べ物の配達にいくようなフリをコウにさせて、到着した家々に数人ずつ待っている子供達に勉強を教えた。それが
終わると、また次の配達と見せかけて、別の家々で勉強を教えた。一箇所に大勢を集めて学校の体を成してしまっては、すぐさま人目に付いてしまう。そうなれば、あの夫人のご主人のようなことにもなりかねない。コウは慎重に行動した。そして、午前中は夫人の館へいくと、図書館から借りて用意してくれてある書物を読み漁り、必要な箇所を徹底的に紙に書き写した。
「精が出ますわね。」
お茶を運んできた夫人が、ティーカップを傍らに置きながら、そういった。
「随分と、忘れてしまいましたからね。もう一度読みながら、覚え直さないと・・。」
コウは少し手を止めて、夫人が注いでくれた熱い紅茶を口に含んだ。優しく、芳醇な茶葉の香りが口いっぱいに広がって、コウの疲れを癒やしてくれた。急にこの世界に来る羽目になって、来た途端からバタバタした毎日だったが、みんなの協力と、何より学びを求める人達の要望に応じることが出来る自身を、コウは言葉には代えがたいぐらい有り難い事だと感じていた。そして、こんな風にコウを気遣って、お茶や食べ物を差し出してくれる人々に、コウは益々報いようと、そう思った。
「ところで、子供達の学び具合は、いかがですか?。」
「うーん、そうですね。毎日、巡回しながら少しずつなので、一気にとはいきませんが、出来る子は幾何学の初歩程度の問題なら、解けるようになりましたね。」
「そのような子は、何人ぐらい?。」
「そうですね・・、四、五人ぐらいですかね。」
「四、五人かあ。」
出来る生徒の数に拘る夫人が、コウは気になった。
「アナタ、この国には、アカデメイアという教育機関があるのをご存じ?。」
「アカデメイア・・ですか?。」
「ええ。各地域で学んだ子供達の中から、毎年、優秀な生徒を其処に送り出すことが出来れば、以後は自分たちの地域で教育を施すことが許されるんです。ですが、それは既に学校が存在する富裕層の地域ばかりですが・・。」
亡くなったご主人は、そのアカデメイアに子供をいかせるべく、学校を建設しようと東奔西走する最中、不慮の死を遂げたのだった。社会階層を変えられたくないという、保守の富裕層が成した理不尽な仕打ち。こんなことが続くうちは、社会の構造など変えられるはずが無い。
「なるほど・・。今勉強を教えている子供達の中から、其処にいくことの出来る子供を輩出すれば、この地域で公に教育を施すことが許される訳ですね?。」
「ええ。」
コウは口元に手を添えて、少し考えた。そして、
「で、そのアカデメイアにいくためには、どれ程のことを学ぶ必要があるんですか?。」
とたずねた。
「此処に、毎年発表される募集要項の写しがありますわ。」
そういうと、夫人は自身が書き写してきた必要事項が書かれた紙をコウに見せた。
「うーん、なるほど。」
唸りながら頷くコウの横顔を、夫人はしげしげと眺めた。そして、
「その、アカデメイアの入学試験というのは、いつです?。」
と、夫人を見ながらたずねた。
「今から半年後です。」
コウは瞬時に、残された日数から逆算して、毎日どれ程の量の勉強を行うことで、その試験日までに間に合うかを割り出した。
「半年かあ・・。それなら、何とかなりそうです。」
「ホントに?。」
「ええ。ただし、それは厳しい道です。この世界には電気もネットも無いし。」
「電気?、ネット?。」
コウはうっかり、元いた世界にあった、文明の利器のことを口にした。
「あ、いや、こっちの話。それより何より、その試験に受かって、以後、学校建設の道が付けられるかどうか、一発勝負です。もし駄目なら、富裕層の邪魔が入って、以後、勉強の道が立たれてしまうかも知れない。」
「ええ。では、よく出来る子を集めて、重点的に指導をした方が・・、」
夫人はそういいかけたとき、
「それは正直、良くないです。」
と、コウは諫めた。
「どうして?。」
「恐らく、アカデメイアに進むことが出来た子供達も、以後は上の階層に属して、今の社会構造を維持すべく、そのことにのみ貢献するようになってしまうでしょう。それではやはり、今の構造は変えられない。優秀な子も、そうで無い子も、共に学ぶことが出来る、そんな環境があるからこそ、みんなの学びに対する気持ちも高まります。学びは、みんなに対して開かれたものでなければならない。そして、みんなが平等に知識を得ることや機会に触れることで、社会全体の知識は高まります。」
コウは、元いた世界の問題点について、夫人に端的に語った。この世界では、まだそのような教育の場での諸問題を広い視野で見通すことの出来る人間は僅かもいないようだった。原始的で粗野な欲望が、社会の発展を邪魔することも吝(やぶさ)かでは無い。コウは冷静沈着に、事を進めるよう夫人に伝えた。
来る日も来る日も、コウは夫人が図書館から借りてきてくれた本を彼女の館で読み漁り、学んだ知識を街の子供達の所に回りながら、勉強を施した。さも配達や、ちょっとした何かの修理に伺ったと入った感じで、決して家庭教師の巡回をしているのがバレないように。初めこそ、自身が折角身に付けた知識を、転生と同時に失ってしまったことに対して運命を呪う感慨もあったが、今はそんなことは、どうでもよかった。元いた世界で自身が一流の大学を目指すべく学んでいたこと、そして、合格はしたものの、楽しいキャンパスライフを謳歌すること無く、この世界にやって来たことについても、今となっては良かったと、そう考えていた。
「虚栄心を満たすための学びなど、真の学びでは無い。しかし、此処には、この世界には、真の学びがある。」
コウの心の中に灯った、知的好奇心を満たしたいという炎は、決して消えることは無かった、それどころか、子供達と触れ合うにつれ、薪をくべられたように燃え盛った。
「コウ先生、この答、見て下さい。」
とある子供達が集う家で教えていた時、アカデメイアを狙う子供が、数学の添削をコウに願い出た。
「うん。どれどれ・・。」
コウは、子供が丁寧に書き上げた答案を一行ずつ確かめた。
「よし。よくできた!。」
そういうと、コウは今度は語学の問題を小さな黒板に書いて、それを解くよう指示した。
「センセー。オレのも見てよ!。」
隣にいた幼い子供が、自分の書いた単語が合っているかどうかを、コウにたずねた。
「うん。よく書けてるぞ。じゃ、続きもやってみてごらん。」
コウは、全ての子供に分け隔て無く勉強を教えた。アカデメイアを目指す子供が一人でもいることで、周囲の子供達は相当刺激を受けているようだった。コウの狙いはドンピシャだった。ひとしきり勉強を教えると、コウはいく先々で食事を振る舞われた。教え、学び、コウも子供達も勉強後は腹ぺこだったので、出された料理はいつも美味しく、そして、有り難く頂いた。
毎日が大変ではあったが、それだけに充実した日々でもあった。そんなある日、夫人の館から店へ戻る途中、コウは一人の男性に声を掛けられた。
「アナタがコウですね?。」
「あ、はい。」
身なりのいい紳士は、見知らぬ顔だったが、コウのことをよく知っているようだった。
「ワタシはこの町の審議官をしている者です。最近、この町の子供達が、夜の盛り場に出歩かなくなったりと、随分治安もよくなりました。それはきっと、誰かが子供達に何らかの知恵を授けているから・・ですかな。」
言葉こそ最もだったが、審議官の表情は優れなかった。勿体ぶったいい方を快く思わなかったコウは、
「あの、先を急ぎますので、用があるなら単刀直入にいって下さい。」
と、彼と話す時間が如何に無駄かを、語気を強めて表した。
「解りました。では手短にいいましょう。アナタのその腕を、我々の元で発揮してもらいたい。我々は、有望な子供達に学校で教育を行っております。その担い手の一人に、アナタも是非。勿論、礼はたんまり弾みます。」
審議官は、富裕層の子供達に、コウのスキルを活かして欲しいと、そう願い出た。すると、
「折角ですが、其処までご存じなら、ボクがそのような所に決していかないこともお解りかと思います。ですので、これにて失礼・・。」
コウは、審議官の横槍を躱した。
「いいのですか?。こんな貧しい街から、アカデメイアにいける子供なんぞ、決して出ませんぞ。」
審議官は不敵な笑みを浮かべながら、まるでコウの身に不幸でも降りかかるような口ぶりで、そう伝えた。しかし、コウはにっこりと微笑みながら、
「アナタは地位のある方のようですが、何も学んではおられない。ボクはフラリとこの世界にやって来た、しがない流れ者です。最早、運命の悪戯を呪う気持ちもありませんし、この地で何が起きようとも、気にしません。此処には、真の学びを求める人達がいる。それさえ解れば十分です。ボクがいなくなった押しても、撒かれた知の種は、必ず芽吹くでしょう。では御免。」
コウは、何ら臆すること無く、その場を立ち去った。その後も、コウは慌ただしく子供達に勉強を施した。そして、いよいよアカデメイアの入学試験が行われるというその日、突然の不幸が訪れた。夫人の館を出た直後、コウが暴漢に襲われたのだった。外の騒ぎに気付いた夫人は、慌てて飛び出してきた。其処には犯人達の姿は無く、路上には血まみれになって倒れたコウの姿があった。
「コウ!。しっかり・・。」
夫人は悲痛な叫びと共に、倒れているコウを抱きかかえて起こそうとした。しかし、コウの体には力は入っていなかった。辛うじて右手だけが動かせたコウは、親指を突き立てながら、にっこりと微笑んだ。
「この地に、学校は出来ますよ。夫人。」
そして、通りには夫人の噎び泣く声が響き渡った。
翌年、この地に学校建設の許可が下りたが、街の者達は、敢えて校舎は建てなかった。そして、其処には小さな活版印刷の工房を作り、子供達はこれまで通り、それぞれの場所で学びを続けた。そして時折、工房から届く教材を受け取っては、互いに教え合い、共に学んだ。工房の脇には、小さなモニュメントが建てられていた。そして其処には、
「賢者コウの知の在処。」
と、記されていた。毎年、アカデメイアの試験シーズンになると、受験生達は挙ってこの地を訪れ、モニュメントに触れて後、試験に向かうという習わしが広まったのだった。
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