6人が本棚に入れています
本棚に追加
「ここは…」
気がつくと、私は電車の中に居た。動いては…いないようだ。しかし、電車に乗った覚えなどまるで無い。外は明るいけれど、駅名はどこにも見当たらない。朝…?目覚める前の記憶が曖昧だ。とりあえず、外に出てみれば何かがわかるかもしれない。
そうして電車を降りようとしたのだが、どの扉も閉まっている。開閉のボタンはあるが、いくら押しても目の前の扉はすんとして開こうとしない。もしや、終電と始発の間?電車の稼働していない時間帯なのだろうか。寝てしまって、気づかれないまま置き去りなんてことは…いやいやまさか。終電後に点検してるだろうし。…ないよね?
ただ、不思議と理性だけはある。こんな状況でそんなに焦っていないのは、ここがなんだか夢の中の空間ととても似てるからだ。同じ、ぼんやりとした暖かい感覚がある。まあ、夢だろうと現実だろうとじっとしてても始まらない。車両を移動しつつ人を探してみる方がいいだろう。
しん…と、そんな音が聞こえてきそうなほどに閑散とした、誰もいない電車。見た事のない車内。いつも通勤で使ってる電車とは別の電車のようだが、一体ここはどこだろうか。通勤…そう、通勤中だったような気がする。目覚める前、私は通勤中だったような気がする。電車はいつもと違うんだけど、あんまり覚えていないんだけど、でも、通勤中だったような…。
しかし、だとしたら変なのは今の時間帯だ。見る限り朝だが、目覚めて朝ということは、通勤時間はそれより前の朝だから、物凄く長い時間寝ていたことになる。流石に非現実的じゃない?寝過ごしたにしても、丸一日寝ていて気づかれず起こされないなんてことは。それに、私には今荷物が無い。会社に行くならば書類やら筆記用具やら財布やらが入った鞄が必要なのに、それが無い。スマートフォンすらも。
なら本当に、なぜこんなところにいるのだろうか。普段私は通勤以外で電車を利用することは少ない。利用するにしても、乗る際にはカードがいるんだから、それを入れてる財布も、アプリが入ってるスマホも無しで、そもそも乗る事すら出来るはずは無いのに。鞄ごと盗まれた!?有り得る話だけど、盗まれたこと自体を気にしている場合でも無い。今はとりあえず、ここがどこで、私は何故ここにいるのか。そのことが何より重要だ。夢だとこと片付けてしまってもいいのだけど。
しかし、都会産まれ都会育ちの私は普段人がとうもろこしの実のように幅狭く大量に敷き詰められている姿しか見たことがないから、スカスカの車両なんて初めてだ。いや、スカスカというか、無人。電車の中って、こんなに広かったんだ。こんなに広くて、人が居ないなら…。
私はおもむろに身を床に倒す。誰が踏んだか分からない床だと躊躇はあったが、これまた不思議なことに、電車の床、それだけでなく車内全体が、まるで汚れてなかったのだ。傷一つ無い、新品同様の車両。汚される訳ないだろう、と自慢げにまで見えるその車内の地面に近づくたびに、躊躇いは無くなっていく。
寝転んだまま、手と足を円形に回す。平泳ぎだ。変な話だけど、いつも通勤で電車に乗る度に狭い狭いと息苦しかったから、これが誰も居なかったら思いっきり自由にしてやりたいと思っていたんだ。そして、思いっきりの自由を表現した結果がこれだ。大人としてどうかと思うが、私もかなり溜まってたんだなぁ、清々しくてしょうがない。
「ふふっ」
「!?」
笑い声が聞こえた、誰かいる!?どうしよう、笑ったってことは見られたってことだよね、社会人が電車の車両内で平泳ぎをしてる姿を…。
「だっ、誰かいるんですか!?」
返事はしなかったけれど、笑い声がしたってことは誰かいるのは間違いないんだ。あああやだやだ。見られたと思うと急に恥ずかしさが込み上げてきて死にたくなってきた。
「こっちですよ」
声がしたのは前の車両。顔を上げると、車両のつなぎ目の部分に男性が立っていた。私は慌てて体を起こし、汚くないと言っていたのに矛盾するように、パンッパンッと服を払った。それから、男性の方を見て…いや、見れないなこれ。今人と顔を合わせるなんて到底無理だな。顔は逸らしながら、立つことすら居心地悪く感じたので、正座しながら体だけ男性の方に向けて話した。
「ひっ…人が、いたんですね」
「なんか…ごめんなさい」
「いえ、謝らないでください。あなたは何も悪くないですし、あと、謝られると余計に惨めな気持ちになるので…」
そうだよね、見てたよね。謝ったってことは見てたってことだよね。笑ってたもんね。顔が、シュウマイのようにじっくりと熱を帯びていくのがわかる。それこそ、蒸気でも吹き出してきそうな。うわぁ、顔真っ赤なんだろうな、今。
「あっ、とりあえず、立ちましょう。こっちの席で話しましょう」
「すみません…」
男性に手を差し伸べられ、まごまごしながらも立つことができた。対照的に、申し訳なさで心はより一層縮こまった気分だけど。
男性に連れられるまま、四人席に腰掛ける。そこで初めてまじまじと男性の容姿を見た。年齢は私とそう変わらないくらいだろうか。でも、身長はかなり差があるな、座高からでも分かるくらい。それと、私と同じようにスーツを着ている。この人も通勤中なのかな。
「あの、ここってどこなんですか。いや、電車の中っていうのはわかるんですけど、あまりに人が居ないなっていうか。それで私もあんな事してた訳ですし…」
「ま、まあ、さっきのことは忘れましょう。それで、ここがどこかと聞かれましたけど…僕も、わかんないんですよね…」
そう言う男性の話し方はなんだかはっきりしてなくて、顔は寂しげに見えた。
「なぜ、こんなところに居るんでしょう。夢の中…にしては少し意識がはっきりしすぎてるような気はするんです。でも、不思議な感じ。夢の中の世界にいるような感覚だけはあるんです」
「わかるのは、ここが普通の空間じゃないってことくらいですね。僕もそんな気分してますし。麻衣さんは、ここに来る前の記憶は…記憶はありますか?」
「それが、あんまり覚えてないんですよね。通勤中だったような気はするんですが、だとしたら鞄やらスマホやらの荷物を何一つ持ってないのが変だなって…」
「そうですか…」
ん?私、名前言ったっけ?ほんとに不思議な感じ。意識ははっきりしてるのに、でもぼんやりしてるような感覚が同時にあって、自分が話したことも曖昧になってるのかも。そういえば、私の方はまだ聞いてなかったな。
「あの、お名前は…」
「ん、名前?ああ、名前ね。まだ、言ってないんでしたっけ。明です、杉本明。杉本明と言います」
「杉本さんですね。それで、杉本さんの方は…」
「あ、あの」
「はい?」
「変な話なんですけど、杉本さんじゃなく、明さんって呼んでくれませんか?」
「え?は、はあ…。では、明さんで…」
突然どうしたのだろう。なにか苗字にコンプレックスでもあるのかな。それとも、ただ単に変な人なのか…。どちらにせよ、深く問い詰めたりはしないけども。
「それで、明さんはここに来る前の記憶はあるんですか?」
「…」
明さんは何も言わなかった。沈黙ってことは、覚えてないって解釈をするべきなんだろうか。でも彼、また寂しそうな顔をしてるんだよな。私は一度、大きく息を吐く。
「ふぅー。 明さん、言いたくないことがあるなら、言わなくても大丈夫です。初対面ですし、話し難い事があるのは当然。ただ、今の明さんの気がかりはきっと大切なもののはず。ゆっくりでもいいですから、話してくれませんか?」
少し催促のようになってしまっただろうか、もう少し言い方を考えるべきだったかもしれない。その不安と裏腹に、彼は落ち着いた安らかな表情を浮かべていた。
「…ありがとうございます。脱出…の手がかりにはならないと思いますが」
「なんでもいいんです。ミステリ小説なんかでは、ささいな気づきが大事な鍵を握ってたりしますから」
しばらくの沈黙、でも不思議と長くは感じない。こんな状況なのに、焦ることなくむしろいくらでも待てるような、そんな気分。その沈黙も、彼の声によってようやく破られた。
「…さっきの呼び方の話に繋がるんですが、僕は新婚で奥さんがいました。似ている…。似ている……似て…いるんです。そう、麻衣さんと…似て」
「私と似ている?それは、顔の話ですか?」
「そうですね、顔もですし、雰囲気も、何から何まで」
「はあ..それが呼び方とどう関係が?」
「…うちはまだ子供もいないから共働きで、同じ会社に勤めている…というか、職場きっかけで交際にまで発展したんですがね。つい最近、会社で大きめのプロジェクトがありまして。ええ、それはもう大きな。他会社さんの協力も必要ということで、その日は朝からある会社さんの方に掛け合いに行きました。…ああ、彼女が…ですよ。彼女も僕も、普段から電車で通勤してるんです。その日は他の会社に行くわけですから、普段とは別の電車で…」
その時、明さんの顔がさっきを呼び戻したように再び哀愁と寂寥に包まれた。
「無理はしないでくださいね」
「いや、大丈夫…大丈夫です。そう、普段とは別の電車でしたね。なんでその日だったんでしょうね。いや、別の日なら良かったってわけでもないですけど」
「というと?」
「…置き石」
その一単語を聞いた瞬間、震え上がるような、全身の毛が逆立つような寒気。実際、全身と言わずとも両腕両足の毛くらいは絶対に逆立っている。そんな、頭のてっぺんからつま先に至るまで、全身に刻まれた生物の絶対的恐怖の、それを感じた。それは、その単語からこれから彼の口から話される全てを察したからだ。
「最近知ったんですが、学生の置き石だったらしいです。脱線したんですよ。なんで置き石なんてするんだか....。お察しの通り、死んでしまいました。学生の一時の冗談が殺したんです」
顔が、水を失ったアジサイのように生気が無くなっていくのがわかる。血の気が引いていくように、乾いて萎んでいくあのアジサイ。きっと、顔真っ青なんだろうな、今。
「その時に乗っていた電車がちょうど、この電車だったような気がします、構造的に。まあ電車なんてそこまで種類乗ってきてませんから、内装の違いなんて感覚的なものかもしれないですがね。…凄く嫌な話をしてしまいましたね。自分の、似ている人が亡くなったなんて。ちなみに、この話で、何か思い出しましたかね?」
それまでは脳内で悲惨な絵を思い浮かべていたが、そう言われて意識が現実に戻ってきた。なるほど、見覚えがあるからその話を。そりゃあ話しづらいわけだ。
「なんと…言ったらいいんでしょうか。きっと私が思っている何倍も辛かった…だめですね、こういう事言うのよくないや。私にその苦しみがわかるはずがない。その尺度を安易に決めるものじゃないですね。辛いなんて言葉で終わっていいはずがないから」
「僕はね、奇跡だと思ってるんですよ、今のこの状況を。本当に二度と会えないと思っていた人ともう一度こうやって会って、会話まで出来てることを。というか、実際奇跡なんでしょうね。ここがなんなのかはわかんないですけど、現実では無い…っていう、そんな気がします。これ自体全部僕の妄想なら、それでもあなたともう一度だけでも話せたからそれでいいです」
ああなるほど、重ね合わせているんだ、私とその人を。きっとその人の姿や声が私そっくりで、かの人の影を見たんだ。私と出会ったその時から。だからそんな私から、「杉本さん」なんて言葉を聞いた日には、よそよそしさと心細さで心が空洞になってしまう。それで「明さん」って呼んで欲しかったんだな。そういうことなら、思う存分夢を見て貰えばいい。この奇跡を堪能してもらう方がいい。
「明さん」
「はい…」
「明さん。明さん。明さん」
「!!」
「明さん」
「はいっ…」
明さんは泣き出してしまった。私は何も言わずに、目を覆って声も抑えるために縮こまった体を、ほんのりと、守るように上から覆う。あきらさんがそんな体制になるのは、大人だから。大人の男性はやたらに女性の前で泣くもんではないと、彼の大人としての誇りがそうさせる。それでも、溜まったものは抑えられるはずもなく。だから私は隠すんだ。この人が誰かに誇りを傷つけられないように、大人として。
何度も名前を呼んであげた。「明さん、明さん」と。その度に彼はしゃがれた声で「はい」を繰り返す。何度も何度も何度も……。
ようやく、彼の涙声がおさまったところで、話を切り出す。
「落ち着きましたか?そんなになるって事は、それほどまでにその人と私は似てるって事なんでしょうね。明さんが“現実じゃない”って言うように、私もさっきからずっとここは夢みたいな空間なのかもなって思ってました。だからね、あまり脱出にこだわることもないのかなって。夢なら夢で、覚めるのを待ちましょう。それまで、その人の話を聞かせてくれませんか?」
明さんはもう辛そうにも、寂しそうにも見えなかった。どこか満足げな顔で
「凄くかっこいい人です。自分のやろうと決めたことは、曲げずになんでも有言実行して、人の意見に流されず自分の思った事が言える。それはとてもかっこいいのと同時に、とても美しくもある。ミスをした時とか、落ち込んでる時とか、そういうったくらい時に自分以上にその気持ちを察してくれて、一番欲しい言葉をくれるんです。仕事の時だって、プライベートの時だって、プロポーズをした時だって、いつでも。あなたはとても、心が美しい」
と、奥さんについて語ってくれた。
「それって、私に似てますかね?」
「ええ、とても」
「私は、奥さんみたいに立派な人じゃないですよ。大人なのに電車で平泳ぎしちゃうような、人目を考えれない人間ですから」
「僕はむしろ、そういうところが彼女らしいというか、あなたらしいというか」
「そうですかね…そうですね。純粋に褒め言葉として受け取っておきます」
グーン プエー
その時、そんなふうな大きな音とともに、大きな揺れが訪れた。電車が動き出したようだ。
「…もうそんなに、時間が無いのかもしれないですね」
「そうですね。でも、動き出したってことは、どこかへ向かっていて、どこかへ着くってこと。そこで一緒に降りましょう。今後とも、仲良くしてもらえれば…」
「それは、無理でしょうね」
明さんは、きっぱりと否定した。この日一番明さんがきっぱりと言い切ったことは、この言葉かもしれない。それほどに。
「奥さんのことを思い出してしまうから、仲良くはできないってことですか?」
「いえ、そうじゃなくて。一緒に降りるって言うのは無理ってことです」
「それは、どうして?」
「降りる駅は、それぞれですよ。次で降りれるのは、僕だけです。そして降りてしまえば、もう二度とは会えない」
「降りる駅はそれぞれ……夢だからって事ですか?」
「そんなところです」
「なるほど、確かに、この電車を降りる事が起きることなら、同じ駅では降りれない、別のタイミングで、私だけが降りる駅が訪れるんですかね。でも、二度と会えないというのは?」
「麻衣さん」
「はい?」
明さんは突然かしこまった。つられて、私も背筋を伸ばしてピンとりあえずなってしまう。
「時間は、もうわずかです。残り少ない時間を、“目覚め”の事を考えるのに使うのなんてもったいない。それより、この奇跡を、この“夢”を、語りましょう」
そういうと、明さんの顔の緊張は完全にほぐれて、とても優しい笑みがそこに浮かんできた。私もつられて、笑い返しながら返事する。
「…そうですね。数分先の別れの話なんかより、今目の前の奇跡を噛み締めるほうがよっぽど有意義だ。あと少しの時間しかないかもしれないですが、少しでも残しましょう。でも、一体どんな話を?」
「些細な、できるだけ些細な話をしましょう。いっぱいできるように」
「そうですね」
それから数分、とても当たり障りない話を明さんとした。男女のお見合いの場でするような、お互いを知るためだけの、捻りもオチもない話。しばらくして、電車の加速は、減速へと変化していった。
「どうも、僕の駅に着くみたいです」
「そんな感じがしますね」
「麻衣さん」
「はい?」
「ここからは、僕とあなた、それぞれの道だ」
「はい」
「でも、僕はこれを一人の道とは思わない」
「…はい。私もです」
「あなたと、妻と、僕」
電車は駅に着いた。
プワー プワー
甲高い音と一緒に車両の扉が開く。それを言う頃には、もうほとんど扉を出かかっていたけれど、最後にかすかに聞こえた。降りる時、彼が言い残した言葉。
「二人で行くつもりで」
10月29日 ××新聞
[置き石で八人死去]
昨日、10月28日に、○○県××市内の高校の生徒数名が、鉄道○○線の線路に悪意で置き石をして電車を脱線させ、事故を引き起こしたとして逮捕された。被害は、死者八名、重傷者十九名、軽傷者二十二名にまでのぼり、その高校の教師らはこれに対し「本件は、我々教員一同の教育不足が招いてしまった結果です。被害を受けた方々、またその保護者の方々には、深く謝罪申し上げます」と謝罪の言葉を語った。
(以下は、事故によって亡くなった方々の写真と名前である)
「瓜田 亮成さん(43)」
「小川 琴音さん(22)」
「加藤 七瀬さん(28)」
「志村 栄吉さん(67)」
「杉本 明さん(25)」
「杉本 麻衣さん(23)」
「高木 蓮司さん(30)」
「仲本 風助さん(81)」
また、置き石をした当学生らは………
最初のコメントを投稿しよう!