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第1話 合格通知
まだか。まだ来ないのか。
香月比呂は六畳一間の狭い部屋を行ったり来たりし、結局、先ほどまで座っていたベッドに再び腰かけた。
もはや文化財といっても過言ではないほどの、古い日本家屋にある一室。床は畳の上にカーペットを敷いており、壁は漆喰、古びた衾はちょっとガタついている。断熱や防音はあまり行き届いておらず、車が走る音はもちろん、外を宅配ドローンが飛んでいく音もすべて筒抜けだ。
だが、それすらも今の比呂にはどうでもいい事だった。
合格通知はまだ来ないのだろうか。
そわそわしながら比呂は再び電脳インプラントを起動させた。
その電脳インプラントは、正式名称をMEIS(Meta‐electronic infomation systems)という。
脳内に直接、移植された生体デバイス――BBMIだ。
すると視界にいくつかの半透明なアイコンが浮かび上がった。比呂はその中からメールアプリを選ぶと、指先でクリックして開く。
だが、新しい通知はまだ来ていなかった。合格発表は今日で間違いない。合否の結果は全ての受験生に一斉にメールで送られると聞いている。だから、そろそろ来るはずなのだが。
分かっている。今どき学歴が人生を左右することなど無い。一生懸命勉強し、良い高校や大学に入学できたとしても、それが必ずしも役に立つとは限らないのだ。
ある科学者が発明した、たった一つの人工神経細胞―――いわゆる電脳ニューロンは、それまでの世界を一変させた。
今や人の価値を決めるのは国籍でも家柄でもなく、ましてや学力でもなければコミュニケーション能力でもない。それを決めるのはMEISに対する適性値。つまり、どれだけ電脳ニューロンが発達しているかが、人生を左右する最大の要素なのだ。
良くも悪くも、それがこの新しい時代――B‐IT(Biological-Information technology)時代の標準的な価値観となりつつある。
だから、もし第一志望の高校に入学できなかったとしても、比呂が人生にはさほど影響はしない。比呂の人生は、既に電脳ニューロンの数によって定められているも同然だからだ。
しかし、それでも緊張してしまうのには訳がある。それは比呂の志望校が、全国の中学生の憧れである叡凛高等学園だからだ。
そう、MEISに送られてくる一通のメールが、比呂のこれからを決めるのだ。
この息のつまるような灰色の世界から抜け出し、新しい人生を迎えるのか、それともこのまま絶望の淵に沈んでいくのか。
やがてポップな着信音が脳内に響いた。比呂は弾かれたように顔を上げる。
慌ててメールアプリの受信箱を確認すると、一通のメールが届いていた。
題名は『新世界市・叡凛高等学校 20××年度入学試験合格通知』。
自分で思うよりもずっと緊張していたらしい。メールをクリックするその手は小さく震えていた。
『新世界市・叡凛高等学校普通科 受験番号565728 香月比呂殿 あなたは本学の20××年度入学試験の第一学年に合格しました。よってそれを通知します』
「……あ、うあー!!」
思わず変な声が出た。そのまま仰向けでベッドに倒れ込む。
やった、良かった。ほっとした。
そりゃ確かに学歴はさほど重要ではないけれど、だからと言って、どこで何を経験しても同じわけではない。何より高校生活は一度きりなのだ。せっかくなら憧れの学校で楽しく過ごしたいと思うのは、決して贅沢な願いではないだろう。
そこへ二羽の鳥が飛んで来る。真っ白なカラスと真っ黒なカラスで、普通のカラスより一回りほど小さい。二羽は障子に激突することなく、それをすり抜け比呂の元にやって来る。
彼らは電脳空間上のみに存在する、現実には存在しない情報生命体―――電脳ペットだ。
白と黒のカラスは比呂の胸と頭にそれぞれちょこんと停まると、お喋りを始めた。
「比呂、どうしタ? 変なものでも食ったカ?」
「画鋲でも踏んだカ?」
「ははは、白羽も黒羽も残念ながら全然違うよ! 聞いて、二人とも! 僕、叡凛高等学校に合格したんだ! あの新世界市に住めるんだよ!! これからはずっと詩織のそばにいてあげられるし、ひょっとしたらお母さんのことも……!」
興奮した比呂の声に気づいたのだろう。部屋に同居している祖母がやって来た。
「比呂、どうだった? 受験に合格したかい?」
「ああ、うん。合格したよ、ばあちゃん!」
「そうかい、それは良かった。でも……これから寂しくなるねえ」
祖母は目をしぱしぱさせながらそう呟いた。叡凛高等学園のある新世界市は比呂の家から遠いので、通うとなれば実家を出て一人暮らしをしなければならない。そうなると祖母は一人になってしまう。この古い家に残される祖母のことを思うと、比呂は申し訳なく感じるのだった。
「僕も寂しいよ、ばあちゃん。でも長期休暇は必ず戻って来るし、寮に入っても毎日、連絡するから」
「そうかいそうかい。ばあちゃんも携帯電話でメールを送るよ。おめでとう、比呂。一人暮らしになっても体には気をつけるんだよ?」
「分かってるよ。ばあちゃんは心配性なんだから」
「それから詩織にもよろしくね」
比呂の祖母はMEISを移植していない。だから連絡を取り合おうと思ったら、アナログな手段を使うしかない。祖母が好んで使うのはタブレット型の携帯端末だ。比呂にとってはあまりにも古い、前時代の通信デバイス。
「ともかく、そうと決まったら準備をしなきゃね。まずはお祝いをしなきゃ。今晩はお寿司に決まりだね」
張り切って腕まくりをし始めた祖母を、比呂は慌てて止める。
「そんな、いいよ別に」
「いいや、こういう事はきちんとやっとかなきゃいけないよ。あんたたち若い者は何でも仮想空間上で済ませようとするんだから。早速、材料を買いに行かないと」
「もう、ばあちゃんってば。本当にいいのに……」
祖母の気持ちはとてもありがたいけれど、無理をして欲しくない。その一方で、言い出したら聞かない祖母の性格も熟知している。止めるのが難しいなら、せめて手伝いたい。比呂は台所へ向かう祖母のあとを急いで追いかける。
その時、比呂のMEISに新たなメールが届いた。
「誰からだろう……?」
比呂は不思議に思いつつ、目の前に浮かんだメールアプリのアイコンをクリックする。
すると空中に一通の手紙が浮かび上がった。先ほどの合格通知と違い、封筒に入ったアナログの手紙。比呂はそれを手に取る。
何の変哲もない普通の手紙。宙に浮いていることさえ除けば。
これは本物の紙の手紙ではない、《電脳物質》だ。物理的には存在しない、MEISのみが感知できる電脳空間上の情報物質。
たとえばこの手紙をMEISを移植していない祖母に見せても、視認することはおろか、触ることさえできない。この手紙はあくまでMEISが見せる幻に過ぎないが、ちゃんと手触りがあり、匂いもあって、触れれば音も発する。
B‐IT時代では多くのモノがこういった《電脳物質》で代替されている。実際、MEISを介して感じられる手触りは紙そっくりだ。
手紙がそこに存在しているわけではないが、脳神経に張り巡らされた電脳ニューロンがデータを読み取り、本物の感触を再現してくれている。
この手紙を比呂に送ってくれるのは、この世に一人しかいない。
「ひょっとして……!」
封筒を開くと、ふわりと爽やかなレモンの香りが漂ってきた。中には一枚の便せんが入っている。二つに折り畳んだ真っ白な便せんも、もちろん《電脳物質》だ。
比呂は便せんを封筒から取り出し、目の前に広げた。そこには手書きの文字でこう記してあった。
『親愛なるヒロへ
久しぶりだね。元気にしているかい? ここ数ヶ月、君に会えなくて本当に寂しかった。それも仕方がない、君の受験勉強の邪魔になってはいけないからね。でも、それもようやく解禁みたいだ。
合格おめでとう。君に話したいことが山ほどある。新たな世界で君に会えること、楽しみにしているよ。 アネモネより』
比呂は叡凛高等学校に合格したことをまだ誰にも知らせていない。知っているのは共に住んでいる祖母だけだ。
だが、彼女にとって比呂の受験の合否を知るくらいの芸当などわけないのだ。
手紙の文面に目を通した比呂は顔をほころばせた。胸の奥底がじんわりと温かくなり、我知らず頬が熱くなる。そして気づけばそっと呟いていた。
「アネモネ……僕も早く君に会いたいよ……!!」
アネモネは正月明けに一度、比呂の元を訪ねてくれたが、それ以来は会っていない。こうして幾度か手紙のやり取りをしただけだ。
たった二か月会っていないだけなのに、もう何年も離れ離れになっていたような感覚になる。アネモネの書いた字を目にするだけで懐かしさが込み上げ、彼女に会いたくて堪らなくなる。
比呂は便せんを丁寧に折りたたんで封筒に戻すと、それをMEISのオンラインストレージに保存した。
封筒は光の粒子となって消えてしまったが、データは残っている。こうしておけば、またいつでも好きな時にアネモネの手紙を取り出して読むことができる。
アネモネのくれたものは、どれも比呂の宝物だ。
それから比呂は、祖母の手伝いをするため台所へ向かったのだった。
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