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第2話 実験特区
「うわあ、これはすごいな……!」
香月比呂は車窓の外に広がる景色にすっかり圧倒され、大きく目を見開くと思わず息を呑んだ。
本州から伸びる最新鋭のモノレールが向かう先は、叡凛高等学園のある新世界市だ。
そこには目の眩むばかりの高層建築が立ち並び、所狭しとひしめいている。広々とした海上に林立する摩天楼群。
新世界市は国家戦略未来特区に制定されている人工島だ。
島は美しい正六角形をしており、それぞれの辺に沿って分けられた六区画と中央の一区画、全部で七つの区域で構成されている。そしてそれぞれの区画には明確な役割が定められているのだ。
たとえば第三区域・文教地区には幼稚園や小中高といった教育施設が集められており、第四区域・学術研究地区や第五区域・先端技術研究地区には大学やシンクタンク、企業の研究所などが集約されている。
一方で第二区域・再開発地区は人工島にある施設に通勤・通学している学生や研究者の居住区となっており、他の区域に比べて古い街並みも残っているという。
もっとも島の外から見るぶんには、摩天楼の存在感に霞んでしまって、ほとんど見分けがつかないが。
「まるでSF映画の世界みたいだ。本当に僕があそこに住むのか……未だに実感が湧かないな。新世界市って、どんなところなんだろう?」
新世界市は『実験特区』という名の通り、イノベーションによって生み出された新しい科学技術や最新の通信インフラなどを社会実験する目的で、二十年ほど前に開発された街だ。この街に来れば、誰でも最先端の技術を気軽に体験することができる。
比呂がこれから入学する予定の叡凛高等学園も同様で、最先端の技術によって保障された高水準の教育を受けることができる。
そういった事情から、新世界市は多くの人々の憧れの街だ。住み良い街ランキング、いつか住みたい街ランキング、旅行先として人気の街ランキングでも五年連続一位を獲っている。そんな街は、日本広しといえども新世界市だけだ。
「まさかこれ、壮大な夢オチで終わるとかじゃないよな……?」
思わずつぶやくと、電脳ペットの白羽と黒羽はカアカアと比呂の周りを飛び回る。
「フッフッフ、今ごろ気付いたカ? そうダ! ここは、お前の見ている夢の中ダ!」
「全ては《電脳ニューロン》の見せル、儚く虚しい幻想なのダ!」
「二人とも何て不吉なこと言うんだよ。……まあ、合格通知書だってちゃんとあるんだし。大丈夫だよ、きっと。それより新世界市に行ったら、どこで手続きをすればいいんだっけ」
比呂はMEIS―――BBMIを起動させた。
MEISは《電脳ニューロン》と呼ばれる人工神経細胞―――生体デバイスを人間の脳に移植することによって、人間の脳を直接、ネット空間に接続させる技術だ。
頭の中にスマホやパソコンがあるようなものなので、端末デバイスを持ち歩く必要がない。
また角膜にも網膜ディスプレイが移植されているので、いつでもネット上の映像や画像を目の前に浮かべることができる。ニューラルマウスの埋め込まれた指先で宙に浮かんだ画像や動画に触れると、自由自在に操作することもできる。
それはB‐IT社会では息をするのと同じくらい当たり前のことだ。
比呂は目の前に浮かんだいくつかのアイコンの中から地図アプリを選び、起動させると、さっそく新世界市の地図を検索した。すると目の前に新世界市の立体地図が浮かび上がる。
もちろん、現実空間では比呂の目の前には何もない。脳の中にある《電脳ニューロン》が視神経に情報を送り、地図情報を視認させているのだ。
そういう意味では、比呂が見ている地図は《電脳ニューロン》による幻だとも言えなくもない。
いや、この地図だけでなく、MEISを通して享受しているサービスの全ては夢や幻にすぎないのかもしれない。白羽や黒羽の言う通り、儚く虚しい幻想なのだろう。
もっとも、その幻は現実に勝るとも劣らぬ価値を持っており、このB‐IT社会を確かに支え、或いは支配しているのだ。
(ええと……まずは第七区域・中心市街地にある市役所で暫定住民登録を申請したあと、叡凛高等学園の学生課に行って入学手続きか)
比呂がこれからの段取りを確認する一方、白羽と黒羽は車窓から見える新世界市の景色に興奮し、のん気に騒いでいる。
「ホー。えらくキレイな場所だナ!」
「イカしてるナ! これが、かの有名な『サイバアパンク』ってやつカ!」
「別にパンクではないと思うけど……っていうか白羽も黒羽も大人しくしてなきゃ駄目だよ。公共交通機関の中なんだから」
「比呂、細かいこと言うナ」
「そうダ! 電脳カラスはワンワン鳴いたりしないし、糞もしなイ。誰にも迷惑をかけないゾ!」
「それはそうなんだけど……昔の規則が残ってて、今でも公共機関の中ではペット禁止なんだよ。電脳とかリアルにかかわらず」
実際、乗り合わせた客の何人かが、こちらにちらりと視線を向けてくる。はっきりと不快な顔をしているわけではないが、電脳カラスの存在が気になるのだろう。
しかし、当の本人たちはそんな視線などお構いなしだ。
「小心者だな、比呂ハ。そう心配しなくても、誰かやって来たら非表示にすればいいだけだろウ」
「大船に乗ったつもりで白羽様と黒羽様に任せておケ! カカカカカカ!」
「小心者じゃなくて、規律正しいって言ってよ。僕は目立つのが平気な性格じゃないんだから」
「何を言ウ。我らは全然目立ってないゾ! どこからどう見ても、ただの愛くるしい電脳ペットダ!」
「見ロ、このつぶらな瞳! キュートな嘴!」
自信たっぷりに胸を反らす白羽と黒羽に、比呂は呆れて突っ込んだ。
「愛くるしい電脳ペットはそんな偉そうな口調で喋らないし、容姿を自慢したりもしない。アプリを起動してないのに勝手に出てくることもないんだよ」
「大丈夫ダ、みーんなすぐに慣れル!」
「カカカカカカカカ!」
「……何だか先が思いやられるなぁ」
頭を抱える比呂を尻目に、白羽と黒羽のお喋りは続く。
「それより家には帰らないのカ? あの前時代的木造ボロ屋は、どうしタ?」
「さらっとばあちゃん家をディスらないでくれる? ……さっきも言ったけど、僕らは叡凛高等学園に通うため、これから新世界市で暮らすんだ。だから当分、家には帰らないよ」
「ふうン……? その叡凛なんちゃらは美味いのカ?」
「……君たち微妙にAIの学習レベルが偏ってるよね?」
「それより比呂! 海の上を見ロ! 白い奴らが飛んでるゾ!!」
「いっぱいいるゾ! あいつらハ何ダ!?」
「あれはカモメだね。ただし君たちと違って電脳ペットじゃない。本物の鳥だ」
「ヌウ……何て生意気ナ!」
「奴らめ、あの『サイバアパンク』な島に飛んで行くゾ!」
白羽と黒羽はよほど外の景色が気になるのか、車窓のへりに止まって釘付けになっている。体を上下左右に揺らして、とても楽しそうだ。
比呂は思わず笑みを漏らした。白羽と黒羽は実在しない、電脳空間上のみの存在だ。先ほどの地図と同じく、《電脳ニューロン》が見せる幻に過ぎないのかもしれない。それが分かっていても、二羽の仕草に親近感が湧いてくる。
白羽と黒羽は気まぐれで困ったところもあるけれど、大事な家族だ。比呂が八歳の頃からずっと一緒にいる。口が悪いのはいつものことなので、本気で怒る気にはなれない。
それにワクワクしているのは自分も同じだ。比呂は改めて新世界市へと視線を向け、興奮気味に口にした。
「そう、あれが新世界市。これから僕たちが暮らす街だ」
比呂はそれからモノレールの車内へと視線を向ける。これだけ騒いでいるのだ。そろそろ他の人も迷惑に感じているのではないかと気になった。
車内には比呂たちの他にも多くの乗客がいる。座席は半分ほどが埋まっているだろうか。服装から察するに新世界市に通っている学生か、そこで働いている大人たちだろう。それに観光客らしき人々の姿も見受けられた。
観察していると、乗客たちの瞳が時おり、チカチカと光る。おそらくMEISでネット接続し、ニュースサイトや動画を見たり、書類を作成しているのだろう。ただ、その画像や映像は非表示になっているため、傍目には普通に座席に座っているように見える。
彼らの意識はこちらに向いておらず、白羽や黒羽を見咎める者もいない。ほっと胸を撫で下ろす比呂だが、ふと乗客の一人に黒い煤のようなものが付着しているのに気づいた。
「……?」
黒い煤が付着しているのは、中学生くらいのライトグレーのブレザーの制服を着た女子だ。彼女の肩には、妙にくっきりとした黒い粒子が不自然なほどくっついている。まるで食パンに生えたカビのように。
比呂が不思議に思って目を凝らしていると、その黒い煤は突然、ぞわりと蠢き、わずかに増殖した。
(な……何だあれ……?)
比呂はぎょっとする。一瞬、見間違いかと目を擦ったが、そうではない。女子中学生の肩までだった黒い粒子が広がり、腕や足までも覆い、まるで生き物のように身動ぎをしているではないか。
(あの黒い煤は……何かおかしい)
見つめているとだんだん不安になってきて、心臓の鼓動がどんどん駆け足になっていく。おまけに冷たい氷を押し当てられたみたいに背筋も寒くなってきた。
何故かは分からない。理屈ではない、本能的な恐怖に襲われるのだ。
あまりにも不気味な黒い煤に、比呂はとうとう逃げるように目を逸らした。しかし、当の女子中学生はそれに気づいた様子もなく、単語カードを繰るような仕草をしている。
周囲の人たちも同じだ。彼女の異変に気付いた乗客はいない。気づいているのは比呂だけだ。
「どうしタ、比呂?」
「何か気になることでも、あるのカ?」
「いや……何でもないよ。大丈夫」
比呂は無理やり笑うと、白羽と黒羽にそう答えた。
(何だあの黒いの……? 気になるけど、あまりじろじろ見ちゃ悪いよな)
ちらりと横目で確認すると、女子生徒の周囲には相変わらず黒い煤が漂っている。けれど彼女には特に変わった様子は見られないし、どこか具合が悪いわけでもないようだ。
気にするほどのことではないのだろうと思い直し、比呂が女子学生から顔を背けると、モノレールの車内にアナウンスが響いた。
『ご乗車ありがとうございました。次は新世界、第一区域・港湾地区ベイエリア入口。新世界市、第一区域・港湾地区ベイエリア入口です。お降りの際はお忘れ物の無いよう十分お気をつけください。降車口は右側、右側です……』
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