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2.灯し火
新三年生になって初めての体育が始まった。
今までの体育の活動時間中は、その殆どが見学か、頑張っても結果的に保健室でお世話になってしまうケースばかりだった。
今では持病も落ち着いて、稜威自身としてもここは筋肉体力を付けていきたい気持ちが湧き上がっている。
だから今年こそは、普通に体育の授業くらいこなしていきたいという思いがあった。
しかし、今回の体育はよりにもよって、持久力が問われる校外マラソンだった。稜威がいま一番苦手とする分野ともいえる。
「ハーイ! みんな集まってー!」
指導にあたる先生は今年入ったばかりの新任教師で、稜威もまだ話したことすらない先生だ。だから、新任でなければどの先生でも知っているだろう稜威の身体のことを気遣いされる心配もない。けれど、授業の途中で倒れるわけにもいかなかった。
「校外マラソンかぁ。校庭十周よりかは気も紛れるな」
既に稜威の隣に立つことに違和感さえ感じなくなってきた涼は、ストレッチをしながらそう話したのだった。
「う…ん」
芳しくない返事を返しながらも、稜威はどうやって無事に完走できるかと考えていた。校外を走るならば、それぞれのペースで走れば良いのだからそれほど気にしなくてもいいのかもしれない。
(よし…! とりあえず、走れるとこまで頑張ってみよう…!)
稜威は屈伸をしながらも両手を無意識にも握りしめていた。到達できなければ、歩いて帰ればいいだけのことだ。
距離にして、十キロ程度のマラソンが始まった。軽く校庭を一周してから、生徒たちはばらけるようにして正門を潜り抜けていく。学校の敷地沿いに指定されたコースを、折り返して走ることとなった。
あっという間に、稜威は皆と距離を置かれる。稜威は自分のペースを保ちつつ、正門を潜り抜けた。
門を出れば、自分を除く最後尾はとうに視界から消えている。稜威の息があがってしまうのも時間の問題だった。
三キロ程度は頑張ったほうだろう。途中から吐かれる息は、ゼイゼイを通り越してヒューヒューとさえ聴こえてくるようだ。胸が苦しくなってくる。
(もしかして二十歳のオレって、既にオッサン化してるのか?)
そう考えれば、高校生という若い十代になどとても付いていけない筈だと自覚が芽生える。
(息もキツイけど…明日は全身筋肉痛だな…)
病気のほうは既に寛解しているはずだから、ただ体力がないだけだった。人間は走るという行為がこれほどまでに辛いものだっただろうかと、稜威は自身の身体の重さを実感してしまう。
とうとう、折り返し地点を突破した先頭グループを走る生徒たちと行き合った。
「頑張れー!」
先頭組からはそんな声が稜威に向けてかかるが、稜威は自身が情けなくなりながらもとうとう走るのをやめて、歩き始めていた。体力の限界を感じてしまう。
(やっぱ、いきなりはムリだ)
整わない息を落ち着かせるようにして、トボトボとコースを歩いて行く。
そこへ、遠目に知った顔が反対側から走ってきた。
「イツ…! 大丈夫か…?!」
稜威のすぐ横に並ぶようにして足を止めたのは、唯一の友人となった涼だった。
「あぁ。歩いてくから、平気」
じゃあなと、稜威はその大きくて広い背中を軽く叩いて先に行かせようとした。自分はまだ折り返してもいないから、とりあえず先へと進もうとする。折り返し地点には先生が立っている筈だ。
けれど涼は、コースから外れるようにして稜威と並んで歩き出した。
「顔色が…ずいぶん悪いぞ、イツ」
そう心配そうに覗き込んだ涼のキレイな瞳の色の中に、稜威の姿が映り込む。
(外で見ると、またキレイな色だな…)
映った自分よりも、稜威はその瞳の色に心を奪われてしまった。
「ちょっと、ここで待ってて」
視線はあっけなく外されてしまい、涼は折り返したばかりの先へと走って戻って行ってしまった。
「あっ、ちょっと…涼!」
稜威が呼びかけるも涼は、振り返りもしないでその場からいなくなってしまった。折り返し地点に立つ先生へと、稜威のことを伝える為だろう。
「はぁ…」
稜威は自身の身体の事情に涼を巻き込んでしまったことに、後悔を感じてしまう。また自分は以前と変わらず、周囲の足手纏いになっていた。気持ちがどんどんと、沈む一方だった。
涼の優しさは有り難かったが、それは卒業してしまった友人たちの姿とも重なり、稜威にとってはそう遠くもない頃を思い出す。
卒業した友人らも、稜威の身体を本当に気遣ってくれていた。けれど、結局は時の経過とともに彼らも先の未来へと歩んで行ってしまった。それが仕方のない事なのは稜威だって十分に理解していたが、稜威はまだ心のどこかでそれを引きずっていた。
身体にのしかかる疲労感がより、稜威の落ち込み具合を加速させる。
(また、置いてかれるような気分になってるだけだ)
やがて涼の姿がみえて、稜威の元へと戻ってきた。
「先生に許可もらえた。引き返してもいいって」
さりげなく稜威の背中へと手を回して、学校へと帰るように促した。
その添えられた手は、まだ自分を気にかけて歩を緩めてくれる存在がいたことをひどく実感してしまう。
「うん。ありがとう、…涼」
お礼の言葉とともに、稜威の気分も浮上していった。
その後も涼は、稜威の歩調に合わせて歩いていた。
帰りがけには背後から、他の生徒に、「あーっ、サボりかよー」
などと声が掛かったりもしたが、涼は、
「いーだろー」
と、笑って返していた。
「お前はもう、先に戻ってろよ」
ただ自分に付き添ってくれただけの涼へと堪らず稜威がそう言うと、
「嫌だ。イツと一緒に休憩したいもん」
とまた、笑う始末だった。
稜威の中で、もう孤独感は消えていた。
「…俺の特権を利用するなっての」
「お前だけズルい!」
ふざけた会話が弾む。
並んで歩いていると、稜威の視線はちょうど涼の肩あたりになった。半袖の体操着から伸びる涼の腕は、稜威とは比べものにならないほどに筋肉がついている。その無駄のないまでに引き締まった腕が、腕力の強さを稜威に想像させた。
(俺も、涼みたいになれるかな…)
ふと、そんな気持ちが稜威の内に生まれた。
「なぁ、涼…」
ポソリと、稜威も知らぬうちに涼の名を呼んでいた。小さく自分を呼んだ声に対して、隣を歩く涼は彼より頭一つ分ほど背の低い稜威へと視線を合わせるようにして覗き込む。
「ん、何?」
整った顔が、いつもより近くへと現れた。
稜威は思わずドギマギとしてしまう。
「っあ! いや、お前さ、気晴らしに走ってるって言ってたよな?」
慌てた様子で稜威は話題を振った。
「どれくらい走ってるんだ?」
「え、うーん。夕方に、三十分くらい?」
涼の走るスピードで三十分となれば、相当な距離にもなりそうだ。
「三十分か…。…俺も、やろうかな」
やはり自身なさげに呟いてしまったのが伝わったのかもしれない。
「それっ! 俺も付き合う!」
それはまるで、今から散歩に出かけるのだと気がついた飼い犬のように、涼の顔はパッと明るくなった。
「ええ??」
「うん、そうだ。仲間がいたほうがきっとモチベも上がるし」
涼は稜威の両手を握りとって、さも嬉しそうに微笑んだ。涼の太い両腕が頼もしげに、対する細いまでの手首を包み込む。
(こんな腕に、俺もなれるのだろうか…?)
身体のパーツからして全く同じにはなりえようもなかったが、その憧れともとれる腕っぷしをみてしまえば、稜威は頷く以外の返答などできようもなかった。
学校からほど近い所に図書館があり、その南側は、大きな公園となっていた。そこには犬の散歩コースも兼ねたランニングコースが設けられている。
稜威たちはそこで、学校帰りに運動をする約束をした。帰り時間に学校でジャージ姿に着替えると、自転車を引きながら二人で公園へと向かった。
「まず、軽くストレッチからしよう」
涼の指示どおりに、稜威は頷きながら彼の動きを真似ていた。
「最初は軽く走っての休憩。これを繰り返そう」
涼が考えたカリキュラムは、稜威の負担を考えてのことだった。稜威の様子を気にしながらも、涼は自身の腕を右へ左へと捻りながら伸ばしていく。
準備運動をしっかりとした後、二人は共に走っては歩いてを繰り返した。稜威は懸命に涼について行こうとする。涼といえば、どれだけ動いてもどこか涼しげで、彼の身体には何の負荷も感じていなさそうだった。
「じゃー、あそこまで走ったら休憩にしよう……って、あれ?!」
何気なく付いてきているだろうと思い込んですぐ隣へと話しかけた涼だったが、そこには誰もいないことに気がつくと、慌てて後方を振り返った。
当の稜威といえば、涼よりも遥か手前で両膝に手をあてて頭を下げていた。
「イツ…!!」
駆け寄れば稜威は、肩で息をするようにして息を整えている。薄っぺらいばかりのその背中が、大きく息を吐くたびに上下していた。
「悪い! 気づかなかった」
「大丈、…夫、…から」
はぁはぁと息を吐く稜威が顔を上げると、まだ春の気候だと言うのにその額はべったりと汗だくになっていた。
「ちょっと休もう、イツ」
近くのベンチへと腰を下ろして、稜威は精一杯呼吸を落ち着かせようとした。ドクドクと煽る心臓を感じながら汗が額から流れ落ちていく。それは、苦しいようでいてどこか気持ちのいい体感があった。
次第に呼吸が落ち着いてくると、春の陽気の中でわずかにそよぐ風を感じて、稜威は思わず「ふぅ…」と吐息を吐いた。
首にかけたタオルで汗をぬぐう。そんな稜威を横目に、涼はその姿を眺め入っていた。
先ほどまでタオルで隠れていた稜威の首筋が露になって、涼はドキリと胸に鼓動を感じた。
涼の目に映るそれは、やはり男にしてはあまりにも細すぎて、しなやかに映り込む。
(なんか…イツって、妙に色っぽい…?)
けれども、女性のように小さくまとまった体つきとは違って、稜威は少年のような危うさを感じるほどの骨格だ。自分より二個上だというこの男を少年と例えるには、あまりにもかけ離れた表現だとも感じてしまう。
(イツって…十九か、もしかしたら、もうハタチ…?)
涼はそんな計算をしている自分に、瞬間的に顔を赤くさせてしまった。耳まで熱が走り抜けたように染まり上がってしまう。首へと掛けていたタオルの先を口元にあてながら、涼はパッとそこから目を離した。
「そういえば…。来週からは雨みたいだな」
不意に稜威が、空を見上げて呟いた。来週はこうして二人で過ごすこともないだろうと思い至る。
「そっか。雨じゃ、ランニングはできないよな」
すると梅雨時は休憩になりそうだ。
しばらく涼とは一緒に帰ることもないだろうと思いあたり、稜威は淋しさを感じてしまう。
けれど、涼は代替案を示してきた。
「代わりに…今度は、俺の勉強みてよ」
涼はタオルを口元にあてつつも、目だけはしっかりと稜威を捉えていた。公園の北側には学習室を備えた図書館があった。
「だって、イツはもう受験生は三回目なんだろ? 先輩?」
こんな時だけは“先輩”などと呼んで、涼はやっぱりニコリと笑いかける。まるで慈しみを感じる様な笑顔だ。
「…って、交換条件かよ。…仕方ないな」
受験勉強だけは二浪なみにこなしていた稜威は、他人よりは受験に対しては時間的にも余裕があった。
天気の良い日は体力づくりをして、他は図書館で会う。いつの間にか、二人にはそんな関係が出来上がっていた。
通常の呼吸を取り戻した稜威は、ベンチから立ち上がった。未だ座ったままの涼を振り返る。
いつの間にか、二人の距離はずいぶんと縮まっていた。それが涼の主導によるものだと気づかれない様に気を配りながら、涼は静かにその距離を保とうとする。
稜威に抱いた心情は、運動後とは違った心地欲もある鼓動を涼に与えていた。それは規則的に、涼へと教えるようにして脈をうち続ける。
そろそろ行こう、と笑い返す稜威を見上げれば、その笑顔はまた格別なものとして涼へと映る。
そんな稜威を誰の目にも触れさせたくはないと、涼の内に灯し火のようにしてチリチリと欲が沸き起こった。
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