1.読めない名前

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1.読めない名前

 一学年で十クラスもあれば、そのうちのひとりが卒業できなかったとしても、さほど気にする者はいないだろう。  人はそれほど、他人など気には留めないものだ。  そんな軽い気持ちを抱きながら、留年二回目となる来宮稜威(くるみや・いつ)は、もう三度目を迎える新三年の教室へと足を踏み入れた。  先生方のご配慮のもと、今年も同じ3Aクラスとなった。去年はうっかりクラスを間違えてしまったりして周囲を困らせたりもしたものだが、今年はそんな心配も要らないだろう。  教室に入ってみれば、皆が皆、自分の事で手一杯の様子だった。これからの学校生活を楽しもうと誰もが友達グループ作りに勤しんでいた。  稜威といえば、友人だった同級生たちはとうの昔に卒業を終えていた。  この学校内で一番仲の良い知り合いといえば、生徒ではなくむしろ、散々お世話になった先生方くらいだ。  稜威の留年の原因は、病弱ゆえの出席日数の不足によるものだった。少しばかり胃と腎臓を患っており、命こそ脅かされる心配はないものの、寛解するまでにある程度の日数を要してしまった。  幸いにも通常の生活を取り戻すまでに回復した今こそ、稜威は新たな人生のスタート地点に立ったわけだが、その頃には仲睦まじく高校生活を共にした友人たちはとうに大学生ライフを送っていた。自分だけが、受験生という立場にひとりとり残された形だった。  けれど今更、新しく友達を作って遊び呆けるわけでもない。卒業までの残り一年間くらい、クラスで孤立していてもさほど苦痛には思わないだろう。  稜威は今年で二十歳を迎える。クラスメイトは十七、八だ。その差は大きく、その溝はとても深いものに感じられた。  稜威は遠慮もありながら、窓際列のいちばん後ろの席へとそっと腰を下ろした。誰の目にも止まらない、一番目立たない席だと感じたからだった。  窓の外を見れば、春の陽気を示すように青空が彩っていた。こんな日は屋上ででもゴロゴロと寝転んでいたい衝動にさえかられる。  目を細め、そんな理想を描きながら外を眺めていると、前の席へと荷物をドンと置く人影が現れた。音の衝撃に稜威は思わず肩を揺らせて、音のした先を振り返った。 「あ、悪ぃ…」  びっくりさせてしまったかといった表情で、その鞄の主は稜威へと声をかけた。思わず視線がかち合う。 「いや、大丈夫…」  それがその男との初めての会話だった。けれど会話はそれきりとなる。その男の背後から、その彼を呼ぶ声が掛かった。 「リョウー!」  男の視線はすぐ逸らされたが、稜威の心臓は瞬間的に跳ねていた。 (めっちゃ…、キレーな瞳だな)  瞳の色は茶系寄り。太陽光の加減か、その色は金色に見えた。 (ハーフか?)  そう思わせるほどに、その男性は背が高く、髪の色までも金髪がかっている。鼻や目といったパーツの大きさ、口元までが日本人離れして見えた。 「あぁ、今行く」  彼を呼んだ側の人間は、教室の中にまでは入ってはこなかった。クラス替えで離れてしまった友人といったところだろうか。  鞄を置いた“リョウ”がそのまま教室を出て行くと、また教室内は先ほどと同じ喧騒にのまれていった。やはり、孤立した一番後ろの席に座る稜威のことを気にかける存在は誰一人としていない。  チャイムが鳴り、“リョウ”も席へと戻ってきた。わざわざ後ろの席を振り返るでもなく着席すると、新担任の挨拶が始まった。  もう三度目になる三年生へ向けた担任からの伝達が、ひどくのんびりとした口調で語られていった。  自己紹介では、うつらうつらとしていた稜威だったが、目の前の席の“リョウ”が椅子を鳴らせて立ちあがったことで一瞬にして目が冴えわたった。 「森涼(もり・りょう)です。よろしく」  ハーフかと思いきや、名前は至って純和風だった。  その大きな身体が着席したと同時に、流れるように皆の視線が稜威へと注がれる。稜威は思わず慌てて席を立ちあがった。 「来宮稜威(くるみや・いつ)です。その、よろしく」  “その、”などと、余計な言葉を付け足してしまったことを後悔しながらも、他人はさほど気にはしないだろうと改めて思い直した。稜威が最後だった自己紹介が終わり、先生の話へと引き継がれてゆく。  続いて、新しい教科書が一番前の席から後方に向けられて配られた。名前を書き込んでは机の中へと仕舞い込んでいく。前から回ってくる新しい教科書の受け取りを幾度か繰り返すうち、受け渡しついでとばかりに前の席の“涼”が声をかけてきた。 「…へぇ? 稜威(りょうい)って書いて、“イツ”なんだ?」  それが珍しい読み方なのは自分でも理解している。ただ、その意味は殆どの人間は知らない筈だ。 「あ、うん。周りには『リョウイ』って呼ばれてた…っても、お前も『リョウ』だな」 「えっ、もう覚えてくれてんの?」  そう言って、前の席の涼は稜威に向けて、ニカっと愛嬌良く笑った。 「じゃー、お前は『イツ』だな」 「お…おぅ」  同じ“リョウ”では呼びづらいからだろう。  覚えづらい読み方を本当に覚えてくれるのかと、稜威はつい思ってしまう。卒業した同級生の中には、誰一人としてその呼び名を使う者はいなかった。リョウイという呼び名が本名だと信じ込んでさえいたかもしれない。  そのまま前を向いてしまったその背中を、稜威はただ眺めるだけだった。  気軽に『イツ』と呼んだ涼は、稜威が留年二年目の、二つ年上の同級生だとはまだ知らない筈だ。彼は稜威をどう捉えるのだろうか。  先ほどの愛嬌のある笑顔が浮かんで、稜威はまたひとつドキリと心臓を鳴らせた。期待はしないようにしていたが、話せる友人ができれば稜威だって実のところは嬉しかった。けれど、留年二年目は、わりと肩身が狭いものだ。  稜威は置かれた自分の立場などとうに諦めていた。持病があるのは仕方がないし、周囲の時の流れを止める事などできはしない。  聞き分けが良く思われる節があるが、しかしそれはただ臆病なだけだ。がっかりするくらいなら、初めから期待などしたくはない。  だから今回も、あまり期待だけはしないようにと、窓の外の蒼空へと再び視線を泳がせていった。  稜威の心配を他所に、前の席に座る涼は授業の合間の休憩を縫うようにして、椅子の向きを稜威へと移動させて声を掛けてきた。  稜威は久しぶりともとれるこういった交流がドキドキと嬉しい反面、会話を重ねれば次第に明るみになっていく自身の身の上話に、やがて言葉を詰まらせていくしかなかった。同級生だと思っていた相手が実は二個上の先輩だとわかれば、こうして話せるようになったとしてもさぞかし話し辛くなってしまうことだろう。  そう思えば、稜威はまた胸が苦しくもなる。  高校生の制服を着た二十歳の成人を迎える自分が、あまりにもこの場所に不似合いに思えてならなかった。 「え? じゃあ、イツは俺より歳が二個上なの?」 「あ、うん…。でもあんまり、気にしないで欲しい…っていうか…」  どんどん歯切れの悪くなる稜威に対して、涼はそのキレイなまでのイケメン面をした眉根を寄せていく。 「…そうなんだ? でもまぁ…同級生なんだし、“イツ”でいいよな?」  最後はやはり愛嬌のある笑顔で、稜威へと笑いかけた。顔だけではない涼の性格の良さに、稜威は心からホッと安堵する。  留年一年目の去年のクラスでは、皆から『さん』付けで呼ばれていた。一部には“不良”と間違われて孤立していた時期さえあったが、実はそれがただの病弱な男子だと馴染んだ頃には既に受験シーズンへと突入していた。  それだけに稜威は、幸先の良いスタートに口元を綻ばせる。 「うん、それでいいよ。涼」  それでも僅かな不安だけは抱きながら、稜威は少し首を傾げて頷くようにして涼へと笑いかけていた。  たまたま近くの席だったことが幸いして、稜威は涼と共に行動することが多くなっていた。  昼時の昼食も例外ではなかった。 「うわ、それっぽっちしか食わねぇの?」  げんなりとした顔で稜威を見ながらそう溢したのは、購買で買った惣菜パン四つ目を手にした涼だった。  通学途中のコンビニで買ったサンドイッチを一つだけ食べ切って、麦茶のペットボトルをあおった稜威はもう満足とばかりに食事の後始末を始めていた。 「涼こそ、さすがに食べ過ぎなんじゃないのか? もう部活もやってないんだろ?」  涼はバスケ部に所属していたが、本腰を入れていたわけではなく人数合わせで参加していた程度の活動だったらしい。三年になったのを機に引退を決めたようだが、それでも食べている量は運動部並といえる。部活を引退した今としては、少々多いのではないかと稜威なりに感じていた。 「そんなことないって。今でも気分転換に走ったりしてるし。イツこそ、ちょっと細すぎなんじゃねぇ?」  そう言って掴まれた手首は、軽く涼の指で簡単に包まれてしまうほどに細く、掴んだ側の涼は驚きのあまり声をあげた。 「おま…? 何これ、女のレベルじゃね?」  想像を遥かに上回る細さだったのか、涼は自身の手で包み込んだ稜威の手を、まじまじと眺めた。 「バッ…! やめろって!」  涼に女みたいな身体だと言われてしまい、稜威は恥ずかしくなってその手を振り払おうとした。が、その直前に涼はパッと手を離した。 「あっ、悪い…。そう言えばお前って、太れない体質だったよな…」  初めはあまりの細さに驚いた涼だったが、病気を患って健康的な身体とは言えない相手に対して、失礼な物言いをしていたのだと気がつくと、稜威にも素直に謝ってくる。 「いや…そこまで気にしなくてもいいから」  こういう時は友人であれ、ちょっと気まずく感じてしまう。稜威だって、自分が女のように細い形をしているのははっきりと自覚していた。現に、こういったタイプが好みだという男性から、何度か告白を受けたことがあったくらいだ。それは、とうに卒業してしまった同級生や、街中で偶然に出会った相手だ。稜威が自覚するには十分な数だった。 「うーん…悪い意味で言ったわけじゃなかったんだ。なんかこう…キレイって言うか」  大真面目な顔でそう説明する涼は、本当に悪気があったわけではないのだとわかる。女みたいにキレイとでも言いたいのか。  逆に、稜威のほうが赤面してしまう始末だった。 「涼、うるさい…」  思わず稜威は顔を背けて文句を口にしていた。 「あっ! ごめーん、イツ!」  戯けたように笑い返す涼は、苦し紛れに許して欲しいと稜威へと謝罪した。 「ったく…。女と一緒にするなよな」  渋々、ただひとりきりの友人の謝罪を受け入れて、稜威はまたブツクサと文句を言い返していた。 「え…?」  その言葉に意外な様子で涼は返す。 「な…なんだよ?」  稜威もまた、その驚いたような声をこぼした涼へとそう問い返していた。 「あ、いや。…何でもない」  また、涼の顔は、ちょっと困ったようにして眉根が寄せられていた。 (…?)  稜威にはその困り具合がどうにもよくわからなかった。稜威を女のようだと言いながら、女と一緒にはしていないとでも言いたげな物言いだ。  少なくとも、男としては見てくれている涼に、稜威はやっぱりどこか目の前の男にホッと安堵していた。
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