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最終章後編
三人の顔からは疲労の色が隠せなかった。智一は自らの失態が招いたとはいえ、命懸けの爆弾処理を幾度も敢行し、銃弾による怪我もしている。
侑は精神的疲労が激しい。自分の与り知らぬところで事件が立て続けに起きたせいで心身共にボロボロになっている。クローンとしての劣化が始まっていることも否定できない。
ケイトはまだマシな方ではあるが、培養液から生まれたばかりの赤子であり、連続した肉体酷使は辛いはずである。
だが、悪夢はまだ終わってなどはいなかったのである。
智一が創紀の箱から取り出した研究所の構造データを元に、最短ルートを黙々と辿っていた彼等を死神が襲う。
--解除命令はキャンセルされました。五分後に再度解除命令を入力されない場合、カウントダウンを開始致します。繰り返します--
驚愕。解除した装置が自動的に再稼働はありえない。何者かが故意に解除済みの命令を再入力したことになる。ここにいる三人を除けば途中退場した柄田と玉城の他は死者しかいない。生き残りの研究者や警備員がいたとして危険を冒してわざわざここを爆破させる理由がない。
招かれざる客がいた、ということだ。
--解除命令は却下されました。現時刻を持って研究施設の破棄が決定致しました。カウントダウンを開始します。600、599、598--
爆破まで十分。
侵入者の存在が気がかりではあるが、逃げることが先決である。智一はケイトを背負うと侑の手を取って全力で駆けだす。侑達が利用したというエレベーターへ転がるように入り込む。開閉と1Fのボタンを連打するが、機械仕掛けの階段は微動だにしない。侑は船木がIDカードらしきものをスキャンしてから操作していたことを智一に伝える。船木の遺体までUターンしていてはタイムロスになる。迷うことなく創紀の箱を起動させて、ハッキングさせる。キッチリ十秒で乗っ取りに成功するとエレベーターはゆっくりと上昇を始めた。
--498、497、496、--
地上までは長い道のりだ。残り時間を逆算するとギリギリであるが、こればかりは神に祈るしかない。
少年は女性達を無意識に抱き寄せると座り込んだ。侑は目を閉じて頭を彼の肩に預けている。ケイトはエレベーターの中を観察している。生まれたばかりの彼女には全てが珍しいのだろう。階層を通り抜ける度に光るパネルに一々反応している。
ガタン!エレベーターが揺れ、一時停止した。
--落盤事故が確認されました。御注意下さい。400、399--
上昇を始める。故障してしまったら万事休す、胸を撫で下ろした。
プスン。エレベーターが停止してしまった。照明も消えた。非常用電源の残量が底をついたのだ。外に出て扉をこじ開けるしかない。
女性陣から離れ、エレベーターのドアに手をかける。開かない。渾身の力を込めるが、ビクともしない。
ノートPCの電力をチェックする。こちらの電池残量も心もとない。創紀の箱はチート性能を誇るが、唯一弱点があるとすれば所詮家電製品である、というところだ。本来は研究所の様に設備が整ったところで作動させる代物ゆえ、携帯用バッテリーではそこまで電力がもたないのだ。極めて短時間の使用と仮定しても使えて後数回だろう。その数回を犠牲にしても今は使わなければならない。
創紀の箱を立ち上げる。このシステムはなにもハッキングするだけのものではない。引き込む力を逆に扱って押し出す力で電力を対象者に放出する。まず滅多に使う機能ではないがこういった利用法もまたあるのだ。
暫くしてエレベーターが地響きをたて、扉が開く。
拍手するケイトと目を見張る侑。
現代科学の粋を遥かに超えたオーパーツともいえる創紀システム。そしてその能力を容易に解放させる門司智一。詳しいことはチンプンカンプンであるが侑はこの少年が持つ天性の才覚を改めて知った。
途中まで開いた扉に手を突っ込んで強引に左右に開錠すると、幸運にも少し上に扉の影があった。創紀の箱でアッサリと開錠させる。
這い上がって残る二人を引き揚げる少年はその間に次なる計算結果を弾き出す。具体的には脳内に保管された映像を取り出すのだ。それも限りなく鮮明に。
時報は300を切っていた。あの高速エレベーターで稼いだ距離を差っ引くと現在位置は地下二階。出口は近い。果たして地下二階と類推した通り、最寄の階段にはB2Fと書かれていた。ハプニングはあったが大幅な時間短縮には成功したわけだ。
--200、199、198--
タイムリミットまで後三分少々。急いで地下一階へと階段を上ろうとする。
ドォン!数メートル先の天井が崩れ落ちる。とっさに女性陣を庇ってひれ伏す。
パラパラ。静寂が戻り、女性陣の安否を確かめる。
侑が倒れた拍子に軽い擦り傷を創っただけで済んでいた。ホッとしたのも束の間、階段が落盤で埋まっていた。瞬時に見取り図を脳内に描写する。そこには反対側にも階段があることが示されていた。
フロアに出た三人を待ち受けていたのは火炎地獄であった。そこかしこに火の手が上がり、もはや手のつけようがない。ハンカチを口に当て、強行突破を試みる。
「うわぁぁぁぁぁん!」
ケイトが号泣を始めてしまった。目に煙が入って痛めたのかもしれない。侑があやしているが、泣きやむ気配はない。
創紀の箱を立ち上げる。電池残量はほぼゼロ。エレベーター開錠は想像以上にパワーを使うようだ。この様子では施設のコンピューターも死にかけているだろう。なにせスプリンクラーが一切作動していないのだから。電池の残りは気掛かりであるが、勿体ぶって使わずに施設のコンピューターが死にでもしたら、いくら創紀の箱といえど、能力はかなり制限されてしまう。
シュウウウウ。機械を稼働させて鎮火させる。熱気と微かな炎は残存しているが、通過には支障が無いだろう。
「あああああああああん」
ケイトは泣きやんでいない。火災そのものに強い抵抗があるのかもしれない。髪を一撫でして、ノートPCを操る智一に代わり、ケイトを背負う侑。先ほどの運動で彼の脇腹から赤い染みが滴り落ちているのを知ったのだ。
この緊迫した状況で自分は全くの無力だ。そう痛感していた彼女はせめて足を引っ張らないくらいには手伝いをしたかったのだった。
なんとか火炎地獄を突破した三人であったが、更なる壁が立ちふさがった。防火シャッターである。本来は専用のキーかメインコンピュータールームで遠隔操作しないと、どうにもならない代物であるが、こちらには創紀の箱がある。
ピッ!ブツ!
「ウッ、ノートPCの、創紀の箱の電池が尽きちまった」
--101、100、残り100秒を切りました。総員退避して下さい。繰り返します--
智一は眉間に皺を寄せて何事か検討をしていた。創紀の箱が使用不能になったのは痛手だった。この調子だと落盤が報告されている一階の状況は知れたものではないから尚のことである。一人であったのならば、坐して死を待っていたかもしれないが、彼には受け継いだ守るべき人々がいる。
最悪の事態だけは回避せねばならない。いつもの癖でポケットを弄ると、硬い物体が指に触れた。脊髄反射で試算結果を弾き出す。
可能であると結論付けた。
智一は二人に下がるよう伝えると、自らはセッティングポイントを慎重に見極める仕事に取り掛かる。試作品であるが故にピンポイントエクスプロージョンを成功させねばならず、僅かなズレで無に帰す可能性大だった。
--63、62、61、残り1分です--
最も装甲が薄いであろう電気系統の配線箇所を狙う。設置完了。後ろで待機していたと二人の元へと下がる。
リモコンに汗が滲む。
汗ばんで力む智一に侑が手を重ねる。いつの間にか泣きやんでいたケイトも真似をして三つの手が交錯する。
三人は互いに目配せし、そして頷く。
カチッ。ズガァァァァン!
・。
・・。
・・・。
粉塵が消去された頃、人一人分の大穴が空いた空間ができあがっていた。三人はハイタッチを交わす。
--40、39--
放送を受けて大慌てで抜け穴を通る三人。階段は落盤を逃れ、健全な肢体を晒している。急ぎ足で駆け昇ると一階には、否、一階は無かった。そこかしこに天井が崩れ落ちた形跡を残したフロアは完全に埋もれ、ただただコンクリートの山が積み重なっていたのだ。
ガツン!智一は瓦礫の集団を殴りつける。一度、二度、三度。拳には赤い液体が生じていたが、再度振り下ろそうとする。侑はそんな少年を優しく抱き締めた。智一は涙を滲ませていた。
侑には少年の気持ちが痛い程届いてくる。
彼はよくやってくれた。少なくとも彼がいなければ一階まで自力で辿り着くことなど不可能であったろう。未だ知らぬ過去を抱える己ではあったが、ラストにどんでん返しが効いてて面白い人生だったわ、とほほ笑む。運命には逆らえないしね、と付け足して。
そんな彼女とは裏腹に少年は生き残る算段をつけることをやめなかった。まだだ、まだだと心がざわつくのだ。そしてあることを思いつく。実現可能かをゼロコンマ数秒で試算し、彼の脳はOKと提示した。
土壇場で創りだしたのだ。彼女らだけでも救いだす方法を。
--20、19--
智一は涙を拭うと、侑に向き直った。
「お前と過ごした日々は本当に楽しかったよ。もし生きて帰れたらまた一緒に、侑と一緒に生きていきたかった。今までありがとう、そして済まない」
この少年はなにか危険なことをしようとしている。侑が嫌な予感に突き動かされる間際、多量の土砂崩れが起きた。反射的に後へ倒れこむ彼女。智一がいる周辺にも容赦なく瓦礫の雨が降り注ぎ、身体を痛めつけていたが、意に介さずノートパソコンを立ち上げていた。
絶望しか残されていない箱に希望を見出したのか。遮断され、閉じ込められた少年に侑は泣いた。
少年はへたり込んだ。
感情の起伏による痛みの忘却はとうに限界を超えていたのだ。虚勢をはっていたが、この密閉空間ならば存分にだらしない姿で寛げる。
とはいえノンビリしてはいられない。階段付近のエリアは一般フロアと比べても頑丈な造りになってはいるようなのだが、地下二階の惨状を忘れてはならない。なによりタイムリミットが迫っている。
--10、9--
ラスト十秒。画面には、充電して下さいという警告文が流れている。智一はおもむろに電池を抜き去ると自らの指をコネクト部分に突き刺した。
人間も電化製品である。神経細胞の伝達には電気が使われているからだ。つまり人間は歩く乾電池ともいえないだろうか。
彼はこう考えたのだ。創紀の箱の電力を未知の体内エネルギーで賄えないのか、と。
馬鹿げた発想だった。誰に話しても苦笑されるだろう。それが未来のオーパーツでなければ。
これまでに感じたことのない激痛が襲う。
肉体が、というよりも寧ろ精神が搾り取られる痛みだった。血液が沸騰する。臓器が伸縮する。脳が吸い取られる。悲鳴をあげることすら拒む拷問だった。
--5、4--
意識が飛びそうになる。
転がっていた鉄の塊を持ち、尖っている部分をおもいっきり左足めがけて突き刺した。
ぐちゃ。追加された激痛は思考能力を一時的に復活させる。覚醒した智一は最高速で創紀の箱に命令を下す。
--3、2--
ピッ!
--解除命令が発動致しました。繰り返します--
解除命令を発動させた。
視界が赤く染まる。眼球が破裂しかけているのかもしれないが、仕事が終わるまでは持っていてくれなくては困る。爆破を停止させるだけでは不十分なのだ。
スプリンクラーを全機始動させる。カタカタ。近隣の警察や消防、救急へ録音した音声を一斉通報する。カタカタ。仕上げに、とある命令を下す。カタカタ。
それを終えると彼は石のベッドに肉体を委ねた。目を閉じ、冷たい眠りに落ちてゆく。
役目は果たした。
精一杯のことはやったつもりだ。父親のいる獄へと連れて行かれるのだろうが、会ったらそこで大いにヤツを馬鹿にしてやるつもりだ。アンタの計画はオジャンにしてやった、と。
投げかけるべき罵詈雑言を用意していると、ある警告音が現実へ引き戻す。
--解除命令はキャンセルされました。五分後に再度解除命令を入力されない場合、カウントダウンを開始致します。繰り返します--
「馬鹿な!?」
起き上がろうと上半身に活を入れるが、いうことをきかない。かろうじて右腕だけが動く。腹の上に置かれたノートパソコンへ人差し指を向かわせるが、そこには充電して下さい、という死刑宣告が描かれていた。そんな力はとうに使い果たしている。
「侑ぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!」
--10、9--
ザッザッザッ。侑は必死に瓦礫を除けていた。数十センチは厚みがあろう鉱物の壁は彼女の奇麗な指を傷つけ、破壊していったが行為を止めることはなかった。
彼を助けなくては。両手が赤く変色する。彼を助けなくては。崩れ落ちてくる凶器に腕を切り裂かれる。彼を。
背後でケイトの悲鳴。後を振りむく侑。
そこには、希望があった。
「ちっ、うっせーなぁ」
熊がいる。
「ここでお前がくたばったら誰が船木のダンナの意志を継ぐんだ?お前は小倉とケイトの保護者だろうがよ。いいか、責任者っつうのはなぁ、責任取るためにいるんだぜ?途中でほっぽり出すなんざ、ガキのすることだぜ、分かったかクソガキ!だからお前は生きなきゃならねぇんだ、ダンナの分までな」
仏頂面で説教をたれていたのはとっくに消えたはずの柄田正年であった。
大男は少年を背負うと彼が寄りかかっていた壁に正拳突きを喰らわせ、大穴を開けた。
「あら、お久しぶりね。元気そうでなによりだわ」
玉城はケイトを背負い、侑の肩を抱いている。侑は涙を浮かべていた。
「あらあら、その若さで女を泣かせるテクを身に付けたのね。流石私の弟子だわ」
「玲子、冗談を言い合っている場合じゃぁねぇ。とっととずらかるぜ」
「待ってよ、正年。まだ、アレを」
「アレって、もしかしてコレですか?」
絶え間ない睡魔と闘いながら智一はノートパソコンを指し示す。充電して下さい、の画面下に入手したデータのタイトルが載っている。先程気づいたのだが、少年が四苦八苦してセキュリティにハッキングした際にたまたまどこからか吸い出していたらしい。
ホッドミーミルの森。
そう書かれたファイルに大男と美女は呆気に取られていたが、やがて少年の頭をポンポンと叩いてこう言った。
「お疲れ様」
長かった物語が一つの終焉を迎えた瞬間であった。
あの後、二人から簡単な説明がなされた。
柄田と玉城は逃げ出したのではなく、相田の研究データを探していたということだった。そんな折に例のカウントダウンが入り、脱出経路を確保して合流しようとしていた矢先に偶然三人を発見したとのこと。
この研究所には秘密の通路がいくつもあり、柄田はそれを熟知していたので簡単に脱出できた。
警察や消防に通報した甲斐があり、一団が建物から離れる頃には周囲をツートンカラーの車達が覆い尽くしていたのだったが、彼等はそのお世話になるわけにはいかなかった。不法侵入者であるし、門司智一は重要参考人、小倉侑はBIT関係者、ケイトはクローンと各々複雑な事情が出来てしまった為である。
隠してあった車にひっそりと乗り込むと、そのまま柄田と玉城の家へお邪魔した。玉城の事務所一階にある建物がそうであった。潰れたコンビニ。だが、内部が居住空間に改造されており、地下には銃火器保管庫やら医薬品保管庫等があり、闇医療を行う設備も整っていた。重傷者の智一は勿論のこと、クローン二名も数か月の入院を余儀なくされる。当初は警戒して落ち着かなかった智一達もこっそり柄田が教えてくれた彼等の事情を聞いてからは大人しく世話になった。
もっとも柄田は勝手にお喋りした報いを玉城から存分に受けていたが。
智一は呆れ、侑は大笑い。釣られてケイトも笑いだす。
今までの非日常を取り返すように彼等は日が当たらぬ地下で過ごした。やがて智一の怪我が全快すると、帰還命令が玉城から下された。ケイト抜きでの撤収であったために一触即発に陥ったが、ここでも柄田がこっそりとケイトを残すのは少女の体調管理を、言語障害の調査をするためであり、終了次第智一達の元へ送る手筈になっていると教えてくれた。
それならば、と不承不承ながら両名は納得したのであった。
しかしここで困ったことが一つあった。侑の行き先である。
BITがFATEであったという噂は警察内に浸透しつつあるらしく、且つ重要参考人の少年の行方を知る最重要人物として彼女のマンションは厳重に監視されているという。
これでは帰るに帰れない。
途方に暮れていた侑にコホン、と咳払いをした智一は自分の家に彼女を誘ったのであった。
少年のパーソナルデータはFATEの監視下にあったため、警察組織にあまり漏洩していなかったのだ。本来の目的とはかけ離れた意図であった為、不本意ではあったが、身元がそもそもあやふやな点を逆手に取って創紀の箱で警察のデータベースを一切合財破壊したのである。
当然、大混乱となる。返す刀であらゆる証拠を隠滅し、おいそれと手を出せなくしたのだ。
侑は創紀の箱の悪用に憤怒したが、状況が諸々変わった上での必要悪の理屈を述べられて渋々降参した。
なにはともあれ、そんなこんなで二人の共同生活がスタートした、のだが。
「おい、これはなんだ?」
一粒の汗が新妻から落ちる。形状はカレーに近い、それは認めざるを得ない。しかしながら、真紅の鮮やかな彩りを呈した物体は明らかにカレーではない。
なにより、未開封であった香辛料がカラになってゴミ袋に捨てられているのを見逃すほど馬鹿ではない。
こんなものは小手調べだった。洗濯をさせれば洗剤過多で白玉を製造、干させれば生渇き、風呂釜を掃除させれば滑って打ち身、食器を洗わせれば三枚に一枚の確率でオジャン、買い物は万が一のことを考慮して行かせなかったが、この調子では危なっかしくて家事なぞ任せられやしない。
よくぞ今まで無事に一人で暮らしてきたものである。
こんなドタバタ劇の中、ある日一本の電話が入った。
「おう、俺だ。俺だよ、俺」
「うちにはモウロク爺も婆もいない天涯孤独の家だ。詐欺なら他当たりなよ、じゃあな」
新手の嫌がらせか、と通話を切ろうとする。
「だから、俺だよ、柄田だよ。折角良い情報と悪い情報を仕入れてきてやったのに、その態度はねぇだろうさ」
「なんだ、柄田さんですか。名乗らないのが悪いんですよ。で、どっちから先に聞きたいとか言うつもりですか?」
「おう、話がはぇぇな。んじゃ、悪い方からな」
選択の余地はないらしい。
「結論からだ。嬢ちゃんの無声病は原因不明で治療法を確立することはできなかった。玲子の見立てでは、メンタルに強い負荷がかかっているのではないか?ということだが。どうもお前らがいなくなってから元気なくてな、んで、それが良い情報に繋がるわけだが」
「ちゃんと世話しているんでしょうね?」
「ぁたりめーだ、舐めんな。こちとら一匹既にガキをだな、いかん、それは関係ない話だった。とにかくだ、嬢ちゃんをそっちに派遣する。今後はお前ら三人で生活していけ。それが最善の治療になるだろうさ」
「えっ?」
巨大な嬰児を抱えて頭を痛めているというのに、タイミングが悪すぎる。
「えっ?じゃねーよ。お前船木のダンナとの約束忘れたとはいわせねーぞ、コラ。来週に受け渡すからそのつもりでな。んじゃ」
ツーツーツー。
・。
・・。
・・・。
プルルルルルル!
「おう、俺だ」
「詐欺なら」
「もうそれはいいんだよ。伝え忘れたことが二つあってな。一つはお前の家に小倉の荷物と船木のダンナの荷物を送っといた。ちょいと手間取ったが荷物は全部回収したとアイツに伝えといてくれ。ダンナの荷物は、まぁ、なんだ、娘が持っているほうが良いだろうと思ってな。家具やらの大きいモンは俺ん家の地下倉庫に放置しておくから合間をみて回収しろや」
「有難う御座います」
「んで二つめだ。お前、物書きになる気はないか?」
「物書き?」
「ああ、そうだ。知り合いに出版社のお偉いさんがいるんだがな、ソイツに事の顛末を話したらお前さんに大いに興味をもってくれてな。手記を書いてくれたら原稿料を出すってさ。定期的収入がないと女二匹飼っていくのは難しかろう。やってみないか?」
論文を書いたことはある。自作の小説を書きためていた時期もあった。典型的な理系人間である自分が作家にあっているとは考えにくいが、ことの顛末を語り継ぐ方法になるかもしれない。そもそも別になりたい職業があるわけでもなし、侑やケイトの食いぶちを稼ぐ手段を探さねばならぬところであったのだ。
「是非お願いします」
「おう、んじゃぁ明後日暇か?セッティングしてやるよ、お偉いさんと」
トントン拍子に話は進んだ。
お偉いさんとやらは、なかなかの人物のようで、表向きはしがない出版社の社長であるが、かつては船木と死線を共にしたこともある男で、今でも各国の首脳に睨みが効く人らしい。会談では早々にデビューが決まり、草案を提出してくれれば初任給を出す、とまで太鼓判を押してくれた。
家に帰ると侑が右往左往しながら、荷物の整理をしていた。不在の隙に荷物が届いていたらしい。侑は自分の荷物を、智一は船木の荷物を整理していると、一枚の写真が出てきた。逞しい男性と儚くも美しい女性、そして小さな少女が写っている。
男性は若き日の船木だろう。女性はどこかで見たような気がした。それがケイトだと気付くのに若干の間を要した。生き写しといっても過言ではない。クローンなのだから当然なのかもしれないが。少女も記憶の中の侑によく似ている。昔はこんな感じの生意気な女だったなぁ、と思い返す。
智一はその写真をポケットへ大切に入れた。
ミーンミーンミーーン!
セミの鳴き声が喧しい。炎天下の中、年端もいかぬ少女を立たせっぱなしは頂けない。
とにかくこの場を取り繕おう。何気なくポケットに手を突っ込んだ門司智一は一枚の写真を探り当てる。
「これを君にあげよう、ケイト。この写真はね、君を、君と侑を命をかけて守り通そうとした男の生き様を印したものなんだ。大切にしなさい」
少女は頷いた。智一はそんな少女の頭を撫でると奥へ誘う。ケイトは満面の笑みを浮かべて部屋に入ってゆく。これからは大変な毎日になりそうだった。少年、いや男は誓った。貴方が守るべき宝はきっと俺が、私が守ってみせます、と。太陽に向けて一礼し、門司智一もまた扉を閉じて、家族の元へ歩む。それはとてもとても暑い、夏の午後であった。
完
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