ファーストキスは無味だけど

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「ねえ、ほんとにレモン味だった?」 「いや、全然。むしろ味なんてしなかった」 「えーそうなんだー」  ある日の昼休み、日暮(ひぐらし)慎二は所属しているバスケットボール部のマネージャーの一人、富岡朝子がいるクラスを訪れた。今日の練習のことで顧問から伝言を頼まれたからだ。  しかし教室に入ろうとした慎二は、ふいに聞こえてきた女子たちの会話に思わず足を止めた。机を寄せ合って食後休憩を楽しんでいるらしい仲良し集団の会話の中に、密かに気になっている女子の声が混じっていたからだ。おまけに、彼女らはどうやら彼氏とファーストキスをした友人のコイバナで盛り上がっているらしい。そんなところへ迂闊に男の自分が近付くのは妙に気が引けた。 「でも悪くはない……かな。なんか、恋人、って感じがした」 「あーもう、ごちそうさまー」 「いいわよねー彼氏持ちは」 「超青春してるよねー」 「朝子だってバスケ部に彼氏いるじゃん」 「いるけどさあ」  ファーストキスはレモン味、という台詞がだいぶ昔に流行ったらしいが、果たして本当にレモン味なのか。事の真相は「むしろ味はしない」とのことだそうだが、高校生の恋愛話などそれだけでレモンのように酸っぱく、しかしどこか少し甘い。  のろける女子と、それを面白がって聞くが最後には結局溜息をつく友人たち。  その時、慎二が密かに片思いをしている相手――野川結実と思われる声が、呟くように尋ねた。 「どんな……感じ?」 「え、何が?」 「だから、その……キスする瞬間……とか」 「うーん…そうだなあ…とにかく緊張して、でもふれた瞬間あー、って思った」 「あー?」 「うん、なんか意外と冷静な自分がいるの。ドキドキしてるし嬉しいし、照れくさいけど……でもそんな自分を冷静に見てる自分に会って、あーって」 「なにそれ、意味わかんな~い」 「自分を見てる自分に会うって、自分が何人いるのよー」 「そういう感じなんだ……」  ほかの女子たちはつまらなさそうに言ったが、結実は感心したように深く頷いた。  初恋、初めてのカレシカノジョ、ファーストキス――高校生の甘酸っぱい恋愛は、きゅんとくる響きばかり。  他人の話を聞いて面白がり、それだけで満足する者もいれば、一歩進んだ恋のお作法とはどんなものだろうかと興味を隠し切れない結実のようなタイプもいる。そして実際に恋焦がれるほどの想いを抱きながらも毎日を何気なく過ごす慎二のような者も。 「富岡ー、顧問からの伝言なんだけどさ」  話題がふわっと落ち着いたその一瞬の隙を狙うように、慎二はごく自然に教室に入り朝子に話しかけた。その隣にいるおさげの結実のぷにっとふくらんだほっぺが今日もかわいいなーと思うが、そんな心情は微塵も出さないように気を付ける。 「――ってことだからさ」 「うん、わかった。わざわざありがとねー」 「おう、じゃあな」  伝言し終わった慎二は踵を返して教室を出ていく。せっかくなら結実と一言二言ぐらいは会話をしたかったが、気の利いた話題は特に思い浮かばず、女子の輪に一人男子が混ざるのも気まずいので、少しばかりはがゆく思いながら背を向けた。  バスケ部のマネージャーの富岡朝子は正統派の美人顔だ。男子部員の何人かがほぼ同時に朝子に片思いをしていた時期もある。しかし慎二はそんな朝子ではなく、去年同じクラスだった結実に惚れた。朝子のようにきれいな顔立ちをしているわけではないが、穏やかで愛想のいい笑顔を作るやや丸い頬がかわいくて、気付いたらほかの女子と結実とでは何もかもが違って見えた。ほかにどんなに女子がいようとも、慎二の目線は油断するとすぐ結実の方へ向いてしまうのだ。  けれど慎二は、結実に対して何もアクションを起こせないままごく普通の級友の距離感でしか話せなかった。そして何が起きるでもなく三年生に進級し、結実とはクラスが別々になってしまった。幸いなことに、朝子と結実が同じクラスになって同じ仲良しグループになったようなので、朝子への用事でこのクラスを訪れると高確率で結実にも会える。だが、それでもやはり慎二は結実に対して何もアクションを起こせない。恋をしていることは十分に自覚できるのに、どうやって女子との距離を詰めればいいのかわからなかった。      ◆◇◆◇◆  次の日、午後の授業を終えた慎二は図書館に向かった。本当ならば体育館に行って部活動に励む時間なのだが、何やら体育館に大きなネズミが出たとかで、急遽業者が呼ばれて駆除作業中らしい。そのため今日と、もしかしたら明日も体育館は使えないかもしれないとのことだった。 (はー……運動してれば勉強のことは考えなくていいのになあ)  ダチの佐竹でも誘って遊びに行こうかとも思ったが、頭脳明晰な彼は今日も予備校に行って勉強するとのことで、あっさりと断られてしまった。  仕方ないので、自分も彼を習って勉強するかと思い図書館に向かった慎二は、ひとまず空いている椅子に鞄を置いた。中から問題集と筆記具を取り出してみるものの、学習への意欲は飴粒サイズも浮かんでこない。 (なんか……やる気出ねぇ)  大学受験はするつもりでいる。でも、将来なりたい職業があるわけではないから、行けるレベルのところに行ければいいなー、という程度である。それよりも身体を動かしたい。運動をしたい。そう、バスケをしたい。ダン、ダンッというボールが跳ねる音を聞きながら、キュ、キュッというシューズが床の上で躍動する音で敵味方の位置を把握して、そしてゴールネットへボールを投げ入れて沈めたい。 (あー……だめだ)  慎二は問題集も筆記具も鞄もそのままに立ち上がった。そしてふらふらと書棚に向かう。勉強できる気がしないが勉強らしいことはしないといけないと思うので、せめて何か本でも読むかと思って蔵書の背表紙に目を走らせる。 「あれ、日暮くん?」  その時、視界の外から声をかけられて慎二ははっとした。すると結実が隣の書棚の方からひょっこりと顔をのぞかせてはにかんだ。 「珍しいね、図書館にいるの。部活じゃないの?」 「えっ……ああ、なんかさ、体育館にでっかいネズミが出て、その駆除作業中だから生徒は入るなって」 「ええっ、珍事件だね?」  結実は目をまん丸にして驚く。その表情がかわいくておかしくて、慎二は「だよな」と言って笑った。 「野川は勉強?」 「うん、そのつもり……だったんだけど、なんか集中できなくて気分転換中です」  結実は手に持っていた「ニ十分で作れる主菜・副菜」という料理本の表紙を慎二によく見えるように持ち上げた。 「料理するんだ?」 「ううん、全然……お母さんの手伝いをする程度だよー」 「手伝うだけ偉いじゃん。俺なんか手伝いもしないから怒られる。よく食べるくせに、って」 「ふふっ、そうだね。日暮くん、バスケ部だけあって背も高いし、よく食べるんだろうね」  そう言って笑う結実は女子の平均身長くらいなので、慎二に比べれば頭ひとつ分以上は小さい。そんなところもやっぱりかわいいなーと思い始めた慎二の脳裏に、昨日朝子たちと話していた時の結実の言葉がよみがえる。 ――どんな……感じ? ――だから、その……キスする瞬間……とか。  なんでもない会話をしているふわふわとした印象の結実だが、ほかの女子たちと同じように恋愛ごとに関心があるのだろう。  ――……キスしたい。  慎二の目線はぐわっと引き寄せられる。結実のやわらかそうな唇に。今は暖かい季節だがきちんとリップクリームを塗って保湿しているようで、わずかに光を反射して輝くその唇はきっと驚くほどにやわらかいのだろう。 「日暮くんは何が好き?」 「……えっ?」 「食べ物。好き嫌いとかあまりしなさそうだけど」  結実は料理本を書棚に戻しながら尋ねる。密かに慎二から、その唇を奪ってしまいたいなどと狙われているとは知らずに。 「……い、もの」 「え?」 「やわらかい、もの……とか?」 「やわらかいもの? うーん……お豆腐とか?」  慎二のぼんやりとした答えを訝しがりながらも、結実は具体例を挙げる。しかしどうも慎二が豆腐好きには見えず、不思議そうに小首をかしげた。 「お豆腐料理だと……うーん、麻婆豆腐とか」  ――……キス……したい。 「揚げ出し豆腐とか?」  結実の唇が動く。  ただ言葉を紡いでいるだけだというのに、妙にその動きがなまめかしく感じる。 「もう夏だから、冷や奴もいいね」  ――……キスしたい。 「上に乗せる薬味を工夫すると結構いろんな味で楽しめるんだよね」  かわいい。かわいい、結実。  ここには誰もいない。カウンターに司書が一人、テーブル席に一人二人生徒がいたが、黙々と読書か勉強をしていたはずだ。この書庫付近にはいま、結実と自分しかいない。  ――キスしたい。  もう一度何か別の本を取ろうとした結実の腕を、慎二は無意識のうちに強く掴んで止めた。そして欲望を抑えきれず本能に従い、背中をかがめて結実の唇に自分の唇を重ね合わせた。突然のことで反応に遅れた小柄な結実に顔を近付けることはとても簡単だった。 「っ……」  時が止まる。  ただ重ね合わせただけのぬくもりが、慎二の鼓動を熱くする。  一瞬とも永遠とも思える時間。それはほんの数秒にすぎなかった。けれど二人の唇が離れた時、二人の関係はおおいに変化していた。 「なっ……んで?」  いきなり唇を奪われた結実は驚愕に大きく目を見開き、茫然と慎二を見上げた。その視線を真っ向から受け止めた慎二が口にした言葉は―― 「え……あ……ご……ごめんっ!」 ――心からの謝罪だった。  慎二はびしっと背筋を伸ばすと腰を直角に折り、結実に頭を下げた。 「ごめんっ、その……いや、えっと……とにかく、ごめんっ!」  突然の出来事。自分でも思いもしなかったハプニング。慎二は自分がしてしまった行動を後悔した。  いくら結実がかわいくて、誰にも見られていない二人だけという空間で都合がよかったとはいえ、相手の了承も得ずにキスをするなどただのセクハラである。自分の中に生まれた欲求をコントロールしきれず、その欲に素直に従ってしまったことはごまかそうとしてもごまかしきれない事実。結実からしてみれば、なんとも思っていない級友にいきなりキスをされて気持ち悪いとか気色悪いとか、とにかく不快でしかないだろう。 (好きな女子にそんな最悪の印象を持たせてどうするよ……)  慎二は罪悪感と後悔と同時に、とても残念な気持ちになった。  頭の奥でしつこく鳴り響いた「キスしたい」という欲求に逆らえず、実際にキスしてしまった。なんて身勝手な行動だろう。きっと嫌われたに違いない。ああそうだ、どうせこれ以上悪く思われることはないだろうから、いっそ全部ぶちまけてしまえばいいか。 「ごめん、俺、ずっと野川のことが好きで」 「えっ?」 「それで、ほら、昨日お前が富岡たちとキスの話をしてて、それが聞こえて……それで……その……」  馬鹿正直に告白して白状してみたが、結局何も変わらない。自分は勝手な片思いに身を任せて欲望のままに結実の唇を奪った暴漢だ。 「ほんとに……ごめん。勝手に……一方的に……」  でも仕方なかったんだ。いつでも結実は誰よりもかわいく見えて、彼女にしたいとずっと思っていた。カレシカノジョになって、結実を独占したいと思っていた。けれど告白する勇気はいつだって出なくて、違うクラスになってしまって物理的に距離が遠くなって、めったに会話することもできなくなって正直結実不足だった。その結実とこんな場所で偶然二人きりになれたことが嬉しくて、自分の中の欲望をまったく抑えられなかったのだ。 「レモン味……」 「え?」 「全然レモン味じゃないね、ファーストキスって」  慎二がのそりと体勢を起こして結実を見つめると、結実は人差し指の第二関節で自分の唇を恥ずかしそうになでていた。 「でも、昨日友達が言ってたこと、合ってるかも」 「怒ら……ないのか?」  慎二は恐る恐る尋ねた。てっきり「何するのよ!」とたいそう非難されるかと思ったが、結実から怒りの言葉は飛んでこない。それどころか、結実はかわいらしい頬を赤くさせてくすくすとほほ笑んでいた。 「怒らないよ。だって私も日暮くんのこと、好きだから」 「えっ……え、えっと、えっ、マジで!?」  慎二は信じられないようで、何度も瞬きを繰り返した。 「え、ちょ、え、ほんとにっ!?」 「しーっ」 「あ……えっと……」  興奮して声のボリュームが大きくなった慎二を見上げて、結実は人差し指を口元に当てる。その何気ないしぐさもかわいくて、もういっそのことむぎゅっと結実を抱きしめたいと慎二は思った。 「だからね、突然のことで驚いたけど……嬉しかったです」 「え、じゃあ……その……もう一回、って……許されたり……する?」  慎二は情けないほどの小さな小声で尋ねた。  自分よりも背の高い慎二のあまりにも自信のなさすぎる姿がかわいらしくて、結実は気恥ずかしそうに笑いながら頷いた。  慎二はもう一度かがむと、静かに目を閉じた結実に二度目のキスをした。確かに、レモン味どころかなんの味もしなかった。それも当然だ。唇と唇はただやさしくふれ合っているだけなのだから。味はしないが、しかしただふれ合わせるだけのこのキスでも途方もないほど幸せに思えた。もしも互いのこの唇を開いて舌をからめたら、何かしらの味が本当にするのかもしれない。それができたら、今以上に嬉しくて幸福な心地になれるのだろうか。  そんなキスをしてみたいとも思ったが、そんな大人のキスができるのはきっとまだまだ先のことのような気がした。今はまず、両思いだった喜びを噛み締めたい。それから、大事なことを言わないと。 「野川、あの……好きです……付き合ってください」  顔を離して背筋を伸ばした慎二は結実を見下ろした。 「はい……私も好きです。よろしくお願いします」  嬉しそうな結実が笑顔で答える。口角が上がったことで丸みを帯びた結実の頬はやはりかわいらしい。許してもらえるならその頬にキスをして、軽くかじりついてもみたい。慎二はそんなことを思いながら、キスの次は何が許されるのだろうかと淡い期待をつのらせたのだった。
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