新しい未来に乾杯 あいうえおSS「う」

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「新しい未来に乾杯」  浮気……? 浮気……浮気か。浮気。  私、岩下真希の頭の中には浮気という二文字がぐるぐると……まるで遊園地のティーカップのようにぐるぐると回っていた。 「お疲れ。岩下のおかげで早く終わったよ。お礼に一杯行かない? 俺おごる」  後輩の失敗で残業になった夜。会社を出たところで上司の緒方基が言った。真希が返事をする前に「行きましょう!」とばかりにお腹がグーっと鳴った。 「お、じゃあ今日は奮発するかあ?」  確かに今日はいつもの3倍は働いた。アホな後輩のせいで昼ごはん返上からの残業。もうこれ以上何かをする気力はない。  ウィークデーだけど、チーフと一緒にキュッとビールと美味しいご飯。これくらいのご褒美あっても……いいよね?  30代、仕事ができる貴重な独身。その上なかなかの爽やかイケメンな緒方は、現在社内で結婚したい上司ランキング1位だ。毎日会社で顔を合わせているし、同棲している彼氏もいるけれど、それとこれは別の話だ。 「緒方チーフ、ゴチになります」 「任せとけ」  と、緒方に連れてこられた小洒落た小料理屋で事件は起こった。 「カンパーイ♪」  真希たちの部屋にビールが届いたのと同時に、隣の部屋から聞き覚えのある華やかな声が聞こえてきた。真希と緒方は顔を見合わせて眉を顰めた。 「……内藤?」  緒方も小首を傾げている。内藤。内藤ゆりか。まさに今日残業する原因を作った後輩だ。 「すみません……頭痛がひどくて」  そう言って定時に帰ったのだから……こんな所にいるはずがない……のだが、漏れ聞こえてくる声はどこからどう聞いても内藤ゆりかである。 「ゆりかたん、誕生日はどこ行きたい?」  男の、身体中を撫で回すような猫撫で声に真希の背筋が粟立った。その声を真希はよく知っていた。 「温泉とかー行きたいよな。お部屋にもお・ふ・ろついてるとことかさあ」  意味ありげに男はいう。 「うふふ。サトルくん、エッチなこと考えてるでしょ?」  サトルという名前に真希はこめかみを抑えた。  サトル……やっぱり悟の声だよね。  キャッキャイチャイチャとはしゃぐ男女は多分後輩の内藤ゆりかと、多分真希と同棲中の田島悟だと思う。そうであったとして一体どこで接点があったのか。  あ……会社のファミリーデーか。  1年ほど前に会社のバーベキューイベントに悟を連れて行ったことを思い出したところに、トントンと緒方がタブレットを叩いて合図してきた。タブレットには「内藤にメッセージ送ってみろ。三連休現場になったって」と書いてある。  真希は頷いて内藤ゆりかにメッセージを送る。 「……やーだー。マキさんから三連休現場ってメッセきた」  確定だ。 「でもーサトルくんとの約束が先だしー」 「適当に理由つけてマキにやってもらえよ。ゆりかたんは可愛いのが仕事だもんな」  真希は悟にもメッセージを送った。 ー今日何時に帰る? ちょっと相談したいことがあって 「なになに? マキさん? なんて?」 「なんか相談したいことがあるって今日」 「えー? 帰るのお?」 「んなわけないじゃん。だってなあ。最近あいつ結婚焦ってるぽくてさあ。潮時かなって」  結婚を前提に同棲をと言いだしたのは悟の方だ。都合の良い女として真希を縛り付けておく方便だったのかと思うと既読スルーの画面が涙で滲んだ。そんな所を緒方に聞かれ死にたいと思った。 「よし、岩下。立て」  緒方がビールジョッキを持って勢いよく立ち上がった。緒方は真希の手を引いて隣の個室の引き戸を開け、高らかに言い放った。 「話は聞かせてもらった!」 「え?」  鳩が豆鉄砲を喰らった顔とはこの時の二人のことをいうのだろう。  真希は真希で、刑事ドラマか! と内心突っ込みつつも、浮気現場に乗り込むという自分史上初の出来事に立っているのがやっとだった。 「いやーたまたま隣で食事してたら聞き覚えのある声で」  にこやかな緒方と対照的に、悟とゆりかはだんだん青ざめていく。 「岩下の彼氏さん? あんたもったいないねえ、こんないい子をさあ。俺だったらもっと大切にするわ。ってことで岩下、俺がもらいます。内藤。浮気男と仲良くな。浮気者二人のどうなるかわからない未来と、俺と岩下の輝かしい未来にかんぱーい」  緒方は真希のジョッキにカツーンと自分のジョッキを合わせると一気に飲み干し「お邪魔しましたー」とこれまたニコニコと挨拶しながら半泣きの真希の手を引いて店を出た。 「チーフ……」 「ってことで今日から恋人としてよろしくされたいんですが」  緒方が真っ赤になっているのはビールだけが理由じゃないだろう。  涙腺第崩壊の泣き笑い。こんな情けない姿を見せても、この人ならきっと大丈夫。  真希は緒方の手を必死に握り返した。 了
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