かしこい牝牛

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   小屋を監視していると、メイがドアから出てきた。晴れた夜で、空には線のように細い月と、無数の星が輝いていた。私はその背中をこっそり追っていった。そして彼女が崖に着き、淵に腰を下ろした瞬間、彼女の背中を前足で思いっきり押した。  あ、とメイは短い叫び声をあげ、崖の下に落ちていった。 「西の崖は下の岩場から三十メートルも高いところにあるんだ。あそこから落ちたら即死だよ」  落ちていくメイを見つめながら、私は以前、ソラから聞いた言葉を思い出していた。  メイは一瞬後に死ぬだろう。  これでソラの願いは叶うことになる。  人類は子孫を残すことができなくなり、滅亡する。  何十年か後にサトウ夫妻が一生を終えたあと、この島はソラと、牛たちだけのものになる。ソラは牛を食べず、魚を食べて生きていくだろう。牛たちは殺されたりしない。  〈幸福な孤島〉の完成だ。  彼は〈人間がいなくなったあとのこの島〉のことを〈幸福な孤島〉と呼んだけれど、私の考えは少し違う。  牛たちはソラのことが大好きだ。彼は牛の世話をするけれど、牛を搾取することはない。  だから私は彼がいなくなることを望まない。  ソラと牛たちだけが暮らす島。  それが、私にとっていちばんの〈幸福な孤島〉なのである。  ソラによれば、牛の寿命は十年ほどで、人間の寿命は百年ほどらしい。  だから〈幸福な孤島〉が完成するとき、私は生きていないだろう。  でも、それでいい。  私が生きているうちに幸福な孤島を完成させるためには、メイだけでなく、サトウ夫妻をも殺す必要がある。  それは、私にはできない。  私はソラのためならなんでもできる。  反対に、ソラを悲しませることは絶対にできない。彼はサトウ夫妻を愛しているから、彼らが死んでしまったらひどく悲しむだろう。  だから私はメイのことは殺せても、サトウ夫妻は殺せないのだ。幸福な孤島の完成を待たずに死ぬことよりも、ソラをかなしませ、見損なわれ、嫌われることのほうが何倍もつらい。
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