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空には紫色が垂れて、こんな山、真昼間でも暗いのに、すっかり何も見えない。無闇に歩き回ったから、日が出ていたって帰り道などわからない。もとより帰るつもりはなかった。死ぬつもりで来たのだから怖くもなんともない。本当だ。嘘だ。怖くて足が震えている。暗い底なし沼を歩くようだ。寒いから。鳥だか虫だか知れない声が、あっちからこっちから聞こえて、時々葉っぱがばさついて、やけに気味が悪い。冷たい風が短い髪をさらって、殴られた頬がひりひりした。どこに居たって怖いものは怖い。怖くても、あんな小さな町でただ殴られて死ぬよりいい。寒い。
「帰りたい」
口が弱音を言った。あたたかい布団に潜りたい。それで朝になると、また憂鬱がやってくる。死にたくない。そりゃ死にたくはない。帰ったって仕方ない。上京のために貯めた五十万は、兄貴が全部使ったらしい。とっくに日は沈んで、かすかな月の光にも、視界は黒いだけ。
「死にたくない」
立ち止まれば、何かに追いつかれるんじゃないかと、妙な不安がある。私がいなくなれば、家族は生活に困るだろう。私をいちばんの悪者にして、たまに互いを責めながら、ずっと可哀想なふりをして生きていくだろう。でも、近所の同級生なんかは、ただなんとなく、罪に纏わりつかれたように思うかもしれない。目の端に何か、明るく光るものが見えた気がして、もう私にはあても何もないから、見て確かめてやろうと思った。暗い山を灯りもなしに一人で彷徨って、お化けになったみたいだ。いっそ、河童でも山姥でも何にでも、化けてやろうか。化けて兄貴の首を食ってやろう。そりゃ不味いだろう。
使い古しのスニーカーで、がさがさと落ち葉を踏んで、時々固いものを踏んで、足を滑らす。スウェットをぐちゃぐちゃにしながら、木々に囲まれたボロ家を見つけた。倉庫のような古いトタン小屋で、窓には雨戸が貼ってある。風が吹くとわずかにかたかた音がする。暗いので一層悍ましく見える。蔦が這って、きっと廃墟だ。光ったのはただの気のせいか、雲から出たり隠れたりする月を見間違えたのか。ちょっとよく見てみようと近付くと、がらがら廃墟の戸が開いた。
「もう七時を過ぎていますよ、こんなところを彷徨いては危ないわ」
こんなふうに言いながら、みすぼらしい小屋に似合わない、背の高い女の人が顔を出した。暗闇の、青白い顔に月が映えて、これが本当のお化けだろうと思った。何も答えないでボーッと突っ立つ私を、彼女は家に招いた。
小屋の中は暖かかった。強烈な裸電球が燃えそうに光って、小さな部屋を照らしていた。六畳くらいの一間に、亀みたいなちゃぶ台が真ん中にひとつ、隅に白い布団が積んである。戸のすぐ脇には台所があって、おいしそうなにおいがする。家を飛び出してから、半日くらい何も食べていない。
「お腹空いてるかしら」
女の人は、物欲しそうに鍋を見つめる私にそう言って微笑んだ。さっきは幽霊みたいに見えたのが、明るく照らされると、ただやさしい、綺麗な人だ。私よりいくらか年上だろうか。やわらかな白い肌に、濡れたような長い黒髪を垂らして、潤んだ瞳を上品なまつ毛が囲む。生地の薄い、シンプルなグレーのワンピースを引っ掛けている。
「これからちょうどご飯なの。大したものはないけれど、一緒にいかが」
「あ、ありがとうございます、どうも、いただきます」
私にはもう命もあてもないのだから、何でもよかった。遠慮もしないで、がさついた喉で礼を言う。泥まみれのズボンの裾を折って、甲羅の前に小さく座った。死ぬつもりで来たのに、こんなところでご馳走になって。いや、死にたくなかった。帰ろうと思った。帰りたくない。腹が減った。ここは暖かい。ここがどこだかわからない。彼女は誰だろう。誰でもいい。お椀を差し出す手は、桃色でしっとりとつややかだった。水炊きのようなスープ。柔らかい肉を口に頬張る。熱くて、体が溶けそうだ。
「こんなものしかなくて、ごめんなさいね。でも、誰かと一緒に夕食なんて、久しぶりで嬉しいの」
「いえ、とても美味しいです、あの、お姉さん……」
「お姉さんなんて、ふふ、あなたから見ればおばさんでしょう」
お姉さんは小さな薄赤い唇をきゅっと結んで笑った。この田舎じゃ滅多に聞くことのない、流れるように上品な語り調子は、私には真似できない。きっと生まれついてのお嬢さんだろう。しかし、彼女は茶碗から大きな肉の塊を二つ三つ掬うと、いっぺんに口へ含んだ。ほとんど丸呑みのように飲み込んで、真っ赤な舌でちろりと上唇をなめる。大胆でどこか艶かしい、まるで蛮族の女王だ。随分とよく食べる。みるみるうちに大鍋一杯のスープをぺろりと平らげてしまった。見ているだけでお腹いっぱいだ。
「ああ、良いお肉だったわ。あら、もうよろしいの?」
私の茶碗を見て、少し驚いたように言う。柔らかい低い声。歳の離れた姉が、小さな妹を背負って、子守唄を歌うような声だ。懐かしい。姉なんて居もしないのに。私が頷くと、お姉さんは鍋も茶碗もみんなさっさと片付けて、今度は大きな酒瓶を持ってきた。
「あなたお酒は飲める? おいくつなの?」
「二十一です」
「まあ、もう五つ六つは若く見えるわね。二十一ならもう、飲んでも良かったかしらね」
お姉さんは酒を注ぎながら、身の上話を聞かせてくれた。水みたいな透明の液が、とろとろガラスのコップを満たす。東京に生まれ、十代のうちに、親に決められた結婚をして、すぐに夫に先立たれた。その後にも、良い人についてあちらへ行って、こちらへ行って、どこもかしこも見て回って回って、幾度も幾度も別れを経て、いつの間に両親とも死別をして、すっかり一人きりになってしまった。コップを煽って、また新しいのを注ぐ。
「つまらない話を聞かせてしまって悪いわね」
「いいえ、私の家なんてよっぽどつまらないんです。お姉さんは、まるでちがう世界の人みたいです」
「そう? 私東京にも、大阪にも、海の向こうにも行って、色々見たわ」
「何を見たんです」
「肌を鏡張りにしてぴかぴか光る芸人や、大鮫の腹の中にある茶店や、潰した柘榴で舗装した赤い大通り」
「私がどんなに田舎者だって、いくらなんでもそんなホラはききませんよ」
「あら、嘘なんか言いません。私この目で見たんだもの」
お姉さんはすらりと長い指で、豊かな涙にきらきら光る目をさして、拗ねたように口をむっととんがらせた。悪戯っ子の少女みたいな顔が、アルコールで上気して、なんだか色っぽくて目が回って、夢を見ているかと思った。
「それなら聞かせてください、私、よそのことを知りたいんです」
「ええ、きっと驚くわ」
彼女は色んな奇妙な街のことを、まるで本当に見てきたように話し出した。猫が扇子の上を走る街、洞穴を滑って移動する街、上に床があって、なんでも上からぶら下がっている街。人がみんな、頭を後ろにひねって暮らしている街。そこでは、お姉さんも首をひねられて、元に戻すのに二年かかったらしい。
「そんな馬鹿な。首をひねられれば人は死んでしまうんだから」
「そりゃあ力任せにぐるっとやれば、みんな骨が折れてしまうけれど、こつがあるの」
お姉さんはそう言うと膝でこちらへにじりよった。綺麗な顔が近づいて、仄かにアルコールの混ざった、花を煮たような温かい香りが、私の頭を包む。柔らかい指が私の髪を触って、やさしく首を撫でた。抱かれていると思って、かっと耳が熱くなった。
「いや、試してもらわなくて結構ですって」
「あら、そこの骨を押さえてね、この向きに回すの」
千本の指が、首筋をするすると動き回る。たくさんの虫が這っているみたいに、いや、羽でくすぐられているみたいに。頭がおかしくなりそうで、なんとなく、揶揄われているのがわかった。
「わかりました、わかりました、あ痛っ」
力任せに首を振ると、細い小指が私の頬をなぞって、父に叩かれたところが痛んだ。彼女は少し驚いて、あの濡れた大きな目で私の顔を覗き込んだ。温かい手のひらが頬にやわらかく触れて、ぴりっと軽い痛みが走る。
「ここ、少し腫れてるわね」
「今朝、父に殴られたんです」
お姉さんは悲しそうな、憐れむような顔をして、そのままそっと傷を撫でた。一瞬、微かに痺れを感じるが、なんだか抵抗もできない。すると不思議なことに痛みが和らぐ。ずっとこうして触ってほしい。あたたかい。いい匂い。どうやら酒のせいだと考える。あやされているようで恥ずかしくなって、名残惜しく顔を引いた。彼女は素直に手をはなした。
「もう遅いから、今日は泊まっていきなさいね」
帰りたくない。静かな空間に水音だけが聞こえて、時計もないし、時々ふうふうと遠くのフクロウが何か言っている。風呂を上がると、白い着物を着たお姉さんが立っていた。
「私の寝間着貸してあげるわ」
死装束のような着物を差し出され、死にたくはないな、と思った。死ぬのはもう恐ろしい。夜の山は恐ろしい。あんなところを歩き回るのはもうごめんだ。私があまりぼんやりしているから、着方がわからないのかと思われたようで、後ろから抱きしめるように白装束をかけられた。
「わあ、平気です、自分で」
「そう? 本当の姉さんだと思って、甘えてくれていいのよ」
またふわっといい匂いがして、一瞬目が覚めて、慌てて立ち上がる。既にたくさん甘えてしまった。知らない人なのに。柄にもない。もう憂鬱な家に帰る気も、埃まみれの仕事場へ戻る気も起きない。こそこそと着物を羽織る。お姉さんが帯を結んでくれた。着物は洗い立ての、さっぱりした匂いがした。
これ一つしかないからと、小さな布団に二人で収まる。抱きかかえられて、私は彼女の胸の中で縮こまった。子どもになったみたい。ふわふわと柔らかい肌が薫る。温かい手が私の背中を優しくさする。恥ずかしい。眠い。アルコールが抜けていないらしい。安心する。帰りたくない。気持ちがいい。
「ねえ、あなた女の子なのね」
お姉さんが囁いた。私を包む腕に、ぎゅっと力が加わって、お姉さんの体に埋れる。頭からお湯に潜ったみたい。花をいっぱいに浮かべた、ぬるま湯。ゆっくりと打つ心臓の音が、自分のか、お姉さんのか、わからない。眠い。色とりどりの猫たちが、器用に扇子の上を渡ってみせると、女王は大層喜んで、褒美として、国中の人間をやった。貧しい男が祈ると、夢に美しい女神が現れて、月のない夜、体に清流の泥を塗るように言った。言われたとおりにすると、泥はみるみる銀に変わって、しまいに男は鏡人間となった。お姉さんの胸に、何人が抱かれて、骨を抜かれたのだろう。
「小さくて柔らかくて、簡単に潰れてしまいそう」
「男のほうが良かったですか?」
「ううん、かわいいの」
あなたのこと惑わして、捕まえて、最後には丸呑みに食ってしまおうと思ったの。でも、あんまりかわいいからねえ。そう聞こえたような、気のせいのような、もう眠り込んでしまった。
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