トイランドに焼けついた

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 滋賀の田舎の昼時はすべてのものが活動を休めてしまったように静かで、見晴らしのいい道を歩きながら、何もなくていいところだなあと思った。そう思いながら、考える。何もなくていいところというのは、はたして、褒め言葉になるだろうか。  滋賀県にはライブをするため何度か来たことがあった。だけど、特別な印象は何も持っていない。はじめて琵琶湖を見たことだけはよく覚えている。静かな湖面はかすかに霧がかって向こう岸が見えず、広大で、ほんとうに海かと見間違えた。  もはや今の自分にとって滋賀県は、ただ琵琶湖のある場所ではなくて、しいちゃんの住んでいるところだ。そこには使い慣れた駅とか、決まって行くスーパーとかコンビニがあって、しいちゃんの、帰る家があるのだろう。  グーグルマップを頼りに歩きながら小道に入ると、足元に大きなゴム製のボールが転がってきた。拾い上げると同時に、小さな女の子が向こうからじっとこちらを見つめているのに気がついた。ほほえみかけて、ボールを転がしてあげたけれど、女の子は黙ってそれを拾いあげて無表情のまま走り去ってしまった。  導かれるようにその女の子のあとをついて歩いて行くと、女の子が、とある家の敷地に入って行くのが見えた。女の子は、玄関のそばにしゃがみ込んで、工具らしきものをいじっている男性に話しかける。そのうしろすがたを見たとき、さっきの女の子の顔を思い出して、あ、と思った。引き返すなら今のうちだと思ったけれど、もうすこし見ていたくて、動けずに立ちつくしていた。すると、その人が立ちあがって振り返った。  目が合うと、その人はとくべつに驚いたようでもなく、嬉しくもなさそうにこちらをじっと見つめ返してきた。それから、頭に巻いていたタオルを外して首にかけ、少し困ったように髪をくしゃくしゃなでながらこちらに歩いてきた。とっさに笑顔を作って念のため用意していたことばをと思ったのに、のどが痙攣しただけで、声にならなかった。口を開けたけれど、やっとのことで「あ……」と声を絞り出すことしか出来なくて、まばたきも出来なかった。  そんな自分とは反対に、その人は、案外穏やかに笑った。 「久しぶり」  あの頃よりすこしかすれて低くなっている、だけど、確かにしいちゃんの声だった。まるで一、二年空けていたような言い方だったが、会うのは十七年ぶりだ。  しばらく無言でこちらの様子を見ていたさっきの女の子が、飽きたように、ボールを持って走り去った。  十七年も経っているのにしいちゃんはやっぱりどこかしいちゃんで、じゃあ、自分もやっぱりそのままなのだろうと思う。だからといってもちろん変わっていないわけではない。なのにどうして一目で分かったかというと、十七年ものあいだ、お互いにお互いのことを考え続けていたからだろうか。  しいちゃんの家は少し古い和風の一軒家で、嗅ぎなれないのに懐かしいような木の香りがした。小さな居間の戸棚の上には小物がところせましと並べられていて、ひとつひとつから思い出の影を感じる。  こういうところには幸福が多く含まれているのだということを、今の自分はもう知っている。  しいちゃんが出してくれた麦茶は味がよく染みていて冷たくて、それだけのことなのに大切な生活の一部に思えた。こういう些細なことの集合が、今のしいちゃんをつくっているのだろう。  しいちゃんはテーブルを挟んで正面に座って、一息ついて、ゆるく笑った。 「普通にこんなところうろついてて、いいの?」 「え……」 「もうすぐツアーあるんでしょ」 「あ、うん。……知ってるんだ」 「テレビで見た」  こっちははなればなれになっていたあいだのことなんか、何も知らないのに、しいちゃんはそうしてずっとこちらのことを見ていたのだろう。それなら、一、二年空けていただけかのようにあいさつもできるかもしれない。  だけど本当は十七年なのだ。  自分としいちゃんは、幼いころ、同じ家で育った。もうあまりにもむかしのことでまるで夢でのできごとように思えるけれど、ほんとうにあったことなのだ。北海道の外れの大きな屋敷で老夫婦に可愛がられ、このまま一生大人になんかならないんじゃないかと思えるような、幸福な日々を過ごした。  あの屋敷には、家族と暮らせない境遇の子どもたちがたくさん暮らしていた。唯一の同い年だったしいちゃんとは、一番の仲良しだった。趣味や好きになるものが驚くほど似ていて、ほんとうは血の繋がっている兄弟なんじゃないかと疑うくらいだった。二人で歌を習っていて、あのころ憧れていた海外のアーティストの真似をしてよく遊んだこと、覚えているだろうか。薄く化粧をしてステージに上がるしいちゃん、綺麗だった。今でも取材で自分のルーツを訊かれるたび、あの時のことを思い出す。 「さっきの、しいちゃんの子、だよね」 「うん。一人娘で、心配ごとばっかり」 「子どもがいること知らなかったな。でもたまに、しいちゃんの話し、聞いてるよ」 「ふうん」 「……お父さんの、こととか」  ぎゅっと膝の上で手を握ったまま、顔をあげられなかった。大きな柱時計の音だけが、かち、かちと、涼やかな和室に響いていた。  しいちゃんのお父さんが亡くなったと聞いたとき、過去のものとして忘れようと努力していた記憶が、よけいに鮮明によみがえったのを感じた。だけど、それと同時に、今ならようやく呪縛をとけるかもしれないとも思った。  しいちゃんが、あの幼い日の別れ際に交わした会話を忘れているはずはないと確信していた。 「うん、親父さ、ちょうど半年ほど前に余命三ヵ月って言われて。でもしぶとい人だったから、疑ってた気持ちが大きかったんだけど、きれいに三ヵ月で死んじゃった。最期まで律儀な人だったよ」 「そう……」 「会社は俺がもらった。去り際に、長男に渡せてよかったって言ってて、嬉しかった」 「……」  家族のお葬式というものが、自分にはまったくぴんとこなくて、途方にくれてしまった。しいちゃんと自分を育ててくれた老夫婦は、屋敷に住んでいた子どもたちがみんな独立してすぐ、奥さんが死んで、そのあとを追うように旦那さんも死んでしまった。もう十年以上も前のことだ。遅めの葬儀を行うころには、もう自分は、メジャーバンドのボーカリストとしてデビューする寸前だったが、忙しいスケジュールの合間をぬって葬式にはきちんと出た。  けれど、しいちゃんは来なかった。しいちゃんだけでなく、ほんとうの家族の元に帰った子たちは、一人も出席していなかった。  しいちゃんの本当の両親が分かったのは、しいちゃんが十五のときだった。しいちゃんは「いまさらだよ」とか「ほんとうの両親って言われてもなあ」とずっと呆れたような飄々とした様子で、あのとき、自分にはしいちゃんのほんとうの気持ちが全然分からなかった。  ある、冬の夜。それが最後の夜だった。暖炉のある広い部屋に集められて「静樹くんにお別れをしなさい」と言われた。そのとき初めて、しいちゃんが屋敷を去ったあとは関係を徹底的に断たなければならないということを聞かされ、ことばでは言い表せないかなしさにめくらみがしたのを覚えている。  裕福な老夫婦は、しいちゃんにもう何度も聞かせたであろう話しをその場でもしていた。「ここでの生活はほんとうに特別なものだったと思いなさい。ここは、ふつうのおうちとは違うから」というようなことを念入りに説明していたが、もうとっくに心得ているのだろう、しいちゃんはなにも言わずに面倒そうにうなずいていた。しいちゃんが言われていることばの意味がわからない子どもたちに「違うって、どういうふうに?」と質問されて、老夫婦は困ったようにことばを探しはじめた。そのとき、ずっとうつむいていたしいちゃんが急に顔をあげた。ふざけた調子で笑って、「きっとここに比べたらすごく貧乏なんだよ」と言った。その口調が面白かったのか、子どもたちは無邪気に笑った。老夫婦はほっとした表情をしたあとに、しいちゃんを優しくとがめた。終始、なごやかな雰囲気だった。  そしてしいちゃんが屋敷の子たち一人一人とお別れの挨拶を交わしていたとき、自分は、何を言えばいいのかまったく分からなかった。とうとう順番がきたとき。別に、ひがんでいたわけではないし、意地悪くおもったわけでもなく、ただ純粋に、「しいちゃん、かわいそう」とだけ言った。そう言われたしいちゃんは一瞬はっとした顔をしたあと、憐れみとも、悲しみとも、いきどおりともとれるような目でこちらを見た。  そしてぎゅっと唇を噛んだまま、老夫婦と手をつないで雪の降る道へ出ていって、それきりだった。  あのころの自分はほんとうに物知らずの、純心な馬鹿だったから、あの言葉はひがみや意地悪よりずっと酷いものだった。  思い返すたび胸がぎゅっと掴まれたように痛くなる。あんなふうに言われたしいちゃん、どんな気持ちだったろう。  時間が解決してくれると思っていたのに、いつまでたっても、あの時のことを思い返すたびに心はぎりぎりと痛む。やがて、いつか再会して、関係をつむぎなおすことができれば、そのときようやく楽になれるだろうと思うようになった。「その時」に想いをはせながら、最後までほんとうの親元へ行けなかったことを自分の負い目として心を慰めてきたけれど、罪悪感のほうがはるかにおおきかった。もしも今でも、テレビや雑誌なんかで自分の姿を見かけるたび、しいちゃんがあの時のことを思い出していたらどうしようかと悩まされ続けた。  しいちゃんのお父さんが亡くなったことをきっかけに、再会してきれいな思い出を作ることだけを考えてここに来た自分は、あさましいだろうか。ほんとうの家族を知らない自分には、父親を亡くすことがどれほどの悲しみなのかわからない。  ただ、思い出だけが苦しい。  しいちゃんは、テレビのほうをぼんやりと見ながら、ああ、と、とうとつに口を開いた。 「うちのがさ、テレビで学がうつるたびすごくかっこいいよねえって言ってさ。むかし、俺と兄弟だったことがあったなんて知ったら、驚くかな」  うちの、と呼ばれたのがしいちゃんの奥さんであると気づくのに、少し時間がかかった。 「そのこと、話してないんだ」 「うん。兄弟だなんて自慢するの、あつかましいかなって」  そのとき、自嘲するように笑ったしいちゃんにことばをさえぎられて、はっとした。あのとき無邪気にしいちゃんにつけてしまった傷は、まだ残っているんだ。  突然、見たこともない人たちのところへ行って、ほんとうの家族との生活をはじめなくてはならなかった十五歳のしいちゃん。好きで習っていた歌のことも諦めて、血の繋がっている人間という未知のものに囲まれ、家族という実感の湧かない両親の元で、長男だからという理由で家をつぐことを期待されたことぐらい想像できる。しいちゃんの両親がなんらかの事故でしいちゃんとはなればなれになってしまったのか、あるいは老夫婦に預けなければならなかったのか、どんな事情があったのかは知らない。けれど、複雑な事情をのりこえて戻ってきた長男として、しっかりもののしいちゃんは、父の会社をつぐことを決めたのだろう。急激に環境の変わった暮らしは、楽ではなかったはずだ。  そんな生活を送っていたとき、かつての友だちがバンドのボーカルとして、メジャーデビューした。  ちいさなライブハウスで声をかけられたことをきっかけにはじめたバンドだったが、バンドは階段をかけのぼるようにおおきくなっていって、まるで目に見えるかのようだった。じっさいに、街に出ればどこでも耳にするようになったし、テレビの出演も増えて、気がつけば、ほんとうにおおきなものになっていた。  そのひとつひとつが、全てが、長年に渡ってしいちゃんのことを苦しめてきたなんて。考えてもみなかった。  しいちゃんにとって、とけることのない呪縛だったのだ。  なにも言えずにじっとうつむいている時間は静かで、長かった。お互いに負い目を感じないでまた仲良くしよう、なんて口にしてしまったら、いよいよどうなってしまうだろうか。そのとき、玄関から女の人の声がして、しいちゃんが立ち上がって部屋を出ていった。それからすぐに戻ってきて、時計を見て、ふっと優しく息をついた。 「時間、大丈夫なの? 忙しいんでしょ」  家にあがってから時間はさほど経っていなかったが、しいちゃんにそう言われては、これ以上どうすることもできない。うながされるままに、ちいさくうなずいて立ち上がった。玄関でくつをはきながら、壁に飾ってある絵をちらりと見た。クレヨンで描かれているのは、しいちゃんと、その奥さんらしい。しいちゃんのひとり娘だというさっきの女の子が描いたものなのだろう。 「あ。これ」  そう言ってしいちゃんが紙袋をさしだした。受けとると、中にはきれいな包装紙につつまれた箱が入っていた。 「さっき電話して、うちのに買ってこさせたんだ。このあたりで有名なお菓子で、おいしいから、みんなで食べて」 「ありがとう。ごめんね、俺さ、ちょっとこの辺まで来るだけのつもりだったから、なにも持ってこなくて……」 「でも、偶然にも会えてしまえたらいいなって、期待しながら来たんでしょう?」  しいちゃんは優しく笑ってそう言ったけれど、声が震えていた。  たしかに、今のしいちゃんの住所のあたりを歩いて、ちょっと庭先でも見られたらいいかなと思いながら来たつもりだった。けれど、ほんとうはなんとしてでも会って、関係をつむぎなおして、もう一度いい友だちになれたらなんておもっていたんだ。  じゃあ、とつぶやくと、しいちゃんは裸足のまま玄関の石畳におりて、むかしよくやったようにほほをこちらの肩によせて、二度、やさしく背中をたたいた。老夫婦が好んだ、外国ふうのやり方だった。しいちゃんからは、外ではたらいている人の独特な、日なたのあたたかいにおいがした。そしてゆっくり、体とともに、においが離れていく。 「ごめん、もう来ないでくれる」  そう言ったしいちゃんは怒った様子ではなく、ただ、すこし申し訳なさそうだった。自分にはもう、なにも言えなくて、あいまいに頷くことしかできなかった。最後に、名残惜しむように黙ってしいちゃんのことを見つめたけれど、面影があるとかないとかではなくて、しいちゃんはやっぱりしいちゃんだった。だけど、露出された二の腕にしっかり筋肉がついているのとか、染められてぱさぱさになったえりあしとか、大抵は、もう知らないものばかりだった。あらためてもう一度「じゃあ」と言いなおしてふり返り、からからと軽い音を立てる玄関の戸を閉めた。  家の前には、しいちゃんの娘がいた。さっきと同じように、無言のままこちらを見つめてくる。なんだか、自分がよく知っているころのしいちゃんに似ていた。考えることをやめたがるように、頭がぼんやりとしていく。意識を失いそうになりながら、ふらふらと来た道を歩いているとき、あの子がついてきているのに気がついた。ふり返るとあの子は足を止めて、またじっとこちらを見つめてくる。その視線に吸い寄せられるように、ゆっくりとしゃがんだ。 「お父さんのこと、好き?」  その質問を受けた彼女は、はじめて、笑顔を見せた。  父親譲りの優しそうなものだった。 「すき」  それだけ言うと、きびすを返して、自分の頭より大きなボールを抱えて走って行ってしまった。家族というものに思い入れの深いしいちゃんの元で、ひとり娘は、とりわけ幸福そうだった。  いま、見てきた光景が、かつて自分がかわいそうだと言ったしいちゃんの人生だ。  あのころ無邪気だったからこそ、お互いに傷をつけあってしまって、それが案外長引いている。  どちらの生活が幸せかなんて、そんなことは比べられるものじゃない。ただ、あんなふうになってもみたいものだと、お互いにそう思っている気がする。  駄目になってしまったのは、そのことがあってからだった。元々情緒不安定なところがあるのを周りの人たちは理解してくれていたけれど、それだけでは手に負えなかった。自分でもどうしようもなかった。  周囲の腫れものをあつかうような痛々しさが、さらに自分を追い詰めてゆく。終わりのない負の連鎖がはじまってしまったようだった。それなのに、焦りや、物が手につかなくなるような不安は感じなかった。それすら遠ざけてしまうくらいの、べつの、なにかがあった。意識がうもれるような感覚がするのに、思考はやけにとぎすまされ、馴染みの精神科医とのやり取りなんかいつも以上にしっかり受け答えするものだから、みんな困惑していた。それは自分も同じだった。何が起こっているのか分からなかった。  結局、仕事には差し支えのない状態だと診断されたので、バンドのツアーは予定通り行われる事になった。ただ、もともと頭痛もちだったのが、以前より頻繁に起こるようになった。痛みもひどくて、市販の鎮痛剤では、もう、どうにもならなかった。脳の検査も受けたけれど、異常は診とめられない。精神的なことに原因があるという診察結果に至ったが、そんなことは自分でも分かっている。  だからこそどうしようもなかった。  長期間に及ぶ治療が必要だと言われたが、そんな余裕はない。色々な精神療法を試されたが上手く行かなくて、ある日、催眠のようなことまでした。その催眠療法が妙に効いてしまい、中断せざるを得ず、それからずっと、催眠がとけていないような不思議な感覚がした。  その夜、ひどい高熱が出た。  熱が出ると、むかしから、わるい夢を見る。とりとめのない悪夢が一晩中続いて、うわごとをつぶやくのだ。自分がうわごとをつぶやいているという意識は、はっきりとあった。たえずなにかを口にしていないと耐えきれないくらい、途方もなく辛いのだ。時計を見ると二十三時過ぎだった。もうとっくに日づけが変わっていると思い込んでいたので、まだ長い夜が続くのだという事実に、絶望した。脳を揺らすように、心臓の鼓動が響いて、もはや頭の痛みが自分の体そのものになってしまったようだった。  ほんの一瞬おとずれた睡眠のなかで、夢を見た。  もう一度会えるよ、と、子どものころのしいちゃんが、いまの自分を励ます夢だった。やさしい、しいちゃん。うなされた低い声で、うわごとをつぶやく。 「しいちゃんに会いたい」 * * *  アーティチョークが活動を休止したのは、夏のはじめの頃だった。そのニュースは世間を震撼させ、なぜ、いま人気絶頂のバンドがとワイドショーを騒がせた。ツアーを白紙にしてまでの活動停止は、メンバーの不仲説や、解散騒動にまで広がったが、裏ではボーカルのマナの体調不良がささやかれていた。  そういうふうに学のことを耳にする度、心情は穏やかでなくなる。あの日の再会以来、もう完全に縁を切って他人になったつもりではいるが、大人になった自分たちが再び仲良くするという可能性を、捨てきれないでいるのにも気づいている。どちらにせよ俺は一生、学の存在を頭のすみにおきながら生きていくのだろう。  アーティチョークのその話題が世間から飽きられてしばらくして、一本の電話がかかってきた。秋の終わろうとしている、寒い日のことだった。その男性はトムラと名乗り、そしてなんの前置きもなく、マナのことで訊きたいことがあると言い出した。滋賀の田舎にあるヤマガミ工務店と、アーティチョークのマナに繋がりがあることを知る人なんて、ほんの数名で、しかも皆、あの屋敷にいた子どもの誰かのはずだ。ほんとうに、もう学と関わりたくないのなら何も知らないふりをすればいいと分かってはいたのに、やはり、どうしても気にかかる。 「あなたが誰か分からないうちは、その話しは出来ません」  きっぱりそう言うと、男は、ああ、といって笑った。 「すみませんでした。アーティチョークでギターやってます、ツクルって言います」  男は、さして申し訳なさそうでもなくそう言った。そして、面白くて仕方がないというふうに「しいちゃんですよね?」とも。  その時に、学がいま、イギリスの病院に入院していることを聞いた。作詞作曲ボーカル活動どころか、メディアに出られる状態ではないという話しだったが、詳しい病状を訪ねてもツクルは教えてくれなかった。もどかしかった。ツクルの口調は軽く、まるでなにか楽しいことでもあったような喋り方をするくせがあったので、なおさら苛立った。 「あの、なぜ、ご連絡してきたのでしょうか? 学のことを詳しく教えていただけないようなら、もう切ります」  ほとんど怒鳴りつけるようにそう言った。しかしツクルには、ひるんだ様子はない。 「こちらに来て頂けたら、すべてお伝えしますよ」  そうして、仕事の忙しいあいまをぬってイギリスに行くことになってしまったのだった。日本を出たこともないし、一生外国なんか行きたくないと思っていたのに。だから、準備だけでも、泣きごとを言いたくなるくらい大変だった。  それでも、行かないわけにはいかなかった。身寄りのない学の事を、結局、放っておけない自分の中途半端な優しさが、嫌になる。学がバンド活動を中断して長期入院してしまうほどの緊急事態に、いま一番頼りになるはずのバンドのメンバーから来いと言われると、やはり断れなかった。  それと、娘の顔を見ると、なおさらその思いは強くなるのだった。例えば、もしも娘が入院なんてことになったら、イギリスどころか、他の惑星にでもかけつけるだろう。  だけど学には、そうしてくれる人がいない。無償の愛を注いでくれる人も、注げる相手もいない。そんな学のことを知りながら娘を可愛がるのは、不器用な自分には、できないことだった。  イギリスの空港のロビーで、すぐにそれがツクルだと分かった。事前にツクルのことはインターネットで調べておいたのだが、その必要もなかった。日本人というだけでツクルを見つけることが出来た。  ツクルの本名は外村創一。創一の創の字をとって、バンドでツクルと名乗っている。二十九歳。身長は182cmとアーティチョークの中では一番高身長で、リードギターを担当。偏差値の高い私立大学を中退している。性格は明るいが、どこか人を食った発言が多く、トラブルを起こすことも珍しくないという。これが自分の調べたツクルの情報だった。ネットに載っている情報なので信頼しすぎないよう注意していたが、後に分かることに、どうやらツクルは面白いほどにそのままの人物らしかった。  向こうもすぐにこちらが分かったらしく、おおきく手を振ってゆっくり歩いてきた。 「わざわざ遠いところから、ようこそ」  なんだか変な挨拶だと思いながら、あたりさわりのないことばを返す。ツクルは何も言わず、こちらの手から重たい鞄を奪うように持ち上げて、歩き出した。  初対面ということもあって、もどかしい世間話しばかりが続いた。そのうえツクルは、世間話しをするのに難しい相手だった。常識外れというほどではないが、話題があちこちにとんでしまうのだ。  ツクルの後ろを着いていって、案内されるがままにタクシーに乗り込んだ。ツクルが英語で行き先を告げる。タクシーが走り出すと、ようやく、一息つくことができた。 「それで、学の様子はどうなんですか」  ようやく肝心のことを切りだしたのに、ツクルの態度は、飄々としたものだった。 「ええ、調子良くないですよ。どうも、幼児返りの気が強くって」 「ようじがえり……」 「言葉のとおりです」  それからツクルはようやく、学のことを話してくれた。ある夜、学がひどい高熱を出し、救急車で運ばれた。一日以上眠って目を覚ましたときには、熱は下がっていたが、一週間近くの記憶が曖昧になっていたという。最初は、高熱の後遺症ですぐ良くなると診断されたが、その後も高熱が不定期に何度も続いて、一向に良くならないらしい。  どんな検査をしても体に異常は見つからなくて、そうしている間にも学の症状は進行していった。そうなるとマスコミの目を避けることが課題になって、あわてて海外に避難させたのだという。精神科の病棟がひろくて明るい、あと前庭の芝生がきれいに手入れされているという理由で、メンバーがイギリスの病院を選んだらしい。  イギリスに来てすぐに学はひどくふさぎ込むようになったが、高熱が出なくなったのでメンバーもスタッフも一度は安堵したようだった。しかし、環境に慣れたころにまた熱が出はじめた。高熱を出すたび、学の発言は支離滅裂になって、一時は閉鎖病棟に軟禁されかけたらしいが、その支離滅裂さにはっきりと幼児返りの特徴がみられたため、専属のカウンセラーがつき、精神科医と、そしてメンバー全員で様子を見ることになった。  数日前、とうとつに、熱にうなされた学が「しいちゃんに会いたい」と言い出した。ほとんど泣きながら「しいちゃんに会わせて」と繰り返していたらしく、最初はみんな高熱のせいでうわごとを言っているのだと、たいして気にとめていなかった。しかし熱が下がって目を覚ましたとき、学はあらためてはっきりとした口調で「しいちゃんはどこ」と不思議そうに尋ねたらしい。まるで、「しいちゃん」がいないことがほんとうに信じられない様子だったと、ツクルは語った。 「それからみんなで、マナの身辺調査をしました。そのとき、あいつに家族が居ないことを知りました。長年つれそったバンドのメンバーといっても、そんなもんです」 「いったいどうやって、僕のことを知ったのですか?」 「マナがプライベートで仲良くしていた人から、むかしの友だちに会いに行こうとしていたという話しを聞いたんです。それからマナがよく着ていた上着のポケットから地図を見つけて、印のしてあった家について調べて、静樹という名前を見つけたときは驚きました。このひとが、しいちゃんだって」  そしてすぐにヤマガミ工務店のことを調べて、電話をかけたという。「しいちゃんですよね?」と尋ねて来たときのツクルの事を思い出した。面白いことを転がしているような、愉快そうな口調だった。 「いまのマナにとっては、病院が家のようなものです。とにかくまずは、会いに行ってやって下さい」 「分かりました。外村さんはずいぶん、学のことで色々と動いてくれてるんですね」 「僕のことは、ツクルでいいですよ。いや実は、僕とマナって、ぜんぜん仲良くなかったんですけどね」 「えっ?」 「僕は別に嫌いとかじゃなかったんですけど、マナは苦手意識持ってたというか、プライベートでは避けてたと思います。でも、今のあいつは素直で可愛いですよ」  はあ、と思わず気の抜けた返事をしてしまった。つくづく、掴みどころの人だった。それからツクルは窓の外の景色を眺めはじめたので、自分もそうした。街並みが日本とはまったく違うし、色んな人種の人々が歩いている。そのほとんどが白人だ。彼らは皆、イギリス人なのだろうか。自分には、誰が何人なのかという区別が、まったくつかなかった。異国の空気に不思議な感覚がしたが、それは初めて見るものへの感動ではなく、むかし住んでいたおおきな屋敷のことをかすかに思い出したからだ。  それにしても、学の事が気になる。高熱を出して幼児返りの気が出た人なんて、今まで見たことがなかった。精神科とか心理学的にという言葉を何度かツクルの口から聞いたので、やはり精神的なものが原因なのだろうか。そうすると、どうしても一つの可能性が浮かんだ。  俺のせいなのではないだろうか。  タクシーを降り、病院の敷地に足を踏み入れた。肌寒い夕方で、入院患者らしい子どもたちが外で遊んでいた。子どもたちは白色に近い金髪を夕陽に染めてはしゃいでいて、みんな絵本から出てきたように可愛い。当然だが耳に入ってくるのは英語ばかりで、滋賀の小さな会社で働いていた日々から一気に離れてしまった気がした。  病院の入口に続くレンガ道をツクルと歩いた。二人の足音は、空まで響いていく。 「もしかしたらこの時間マナは外で遊んでいるかもしれません。たぶん、ショウトと一緒にいますね」 「ショウト?」 「ああ。うちのバンドのドラムです」 「そうなんですね。失礼しました」  本当に自分は今の学の事をまったく知らないんだな。  ツクルは、遊ぶ子どもたちを眺めていた。 「すみません、すこし、ショウトの話しを聞いてくれますか」 「いいですよ」 「ショウトと僕は、小学生のころからの知り合いなんです。あいつは昔からしっかり者で気配り出来て、マナも、ショウトには懐いていたほうでした」  ツクルは昔の事でも思い出したのか、笑って目を細めた。 「だけど、今回の事があって一番パニックになったのはあいつでした。事実上バンドのリーダーだったので、もう泣きそうになりながら対応してました」 「……」 「でもね、あいつ急に大人になりましたよ。あいつだけじゃない、マナに関わっていた人はみんな成長しました。僕もたぶんそうです」  急に目の前に二人の子どもが飛び出してきたので、足を止めた。二人がじゃれあいながら通り過ぎて、また歩き出したが、ツクルはしばらく二人のことを目で追っていた。 「なんといいますか、なんだか今のマナと一緒にいると、妙に幸せな気持ちになるんです。僕は、一度も子どもを可愛いと思ったことはなかったのですが、なんとなく今のマナを見てると分かる気がするんです」  今まで一緒に活動してきたバンドのメンバーがそんな状態になってしまったのに、そう言えることに驚いた。自分だったら、仕事仲間がそうなってしまったらどうしていいか分からず途方に暮れるだろう。きっと、避けてしまうかもしれない。  そのとき、突然後ろから「ツクル!」と大きな声がした。ツクルは「おー」とゆったり間延びした返事をして、振り返って手を上げた。  俺はすぐには振り向く事が出来なくて、すこし遅れて後ろを向いた。  落日を背にして、学が立っていた。  その後ろを追うように、小柄な男性が歩いてくる。学は無表情になってじっとこちらを見つめたかと思うと、次の瞬間には泣きそうに顔を歪ませた。 「しいちゃんだあ……」  夕陽のオレンジ色が目に痛いくらい眩しかった。学は小走りで駆け寄ってきて、やわらかく笑って思いきり抱きついてくる。 「しいちゃん、おかえり」  そう言われた瞬間、はるか昔かつて知っていた懐かしい感情が次々とよみがえってきて、なんともいえない気持ちになりながら「ただいま」と言った。改めて学を見るとその笑顔はあぶなかしいくらい幸せそうで、こんなふうに笑う大人を見たことがなかったものだから、おそろしくてまともに見られなかった。  小柄な男性がゆったりとあとを歩きながら、ツクルと目を合わせて、何かを確かめ合うように笑った。この人が、さっき話しに出たショウトさんなのだろう。そう思って見ていたら、ショウトさんと目が合ったので、会釈をする。ショウトさんも頭を下げた。それからショウトさんは学の袖をひっぱる。 「マナ、もう帰らんとあかんで」  そう言われて学はきょとんとした。 「しいちゃんは?」 「しいちゃんは、もうすこし向こうにおらんとあかんの。明日も会えるから、もう帰ろう」 「一緒に帰れないの?」 「うん」 「なんで……?」  学はどうしてそうしなければならないのか本当に納得できないようで、まばたきも出来ずに泣きそうな顔のままじっとこちらを見ていた。ショウトさんが説得していたが、拗ねたように黙ったままで、やがてしぶしぶといった様子で、うなずいた。 「ほら、しいちゃんに。また明日って」  ショウトさんがそう言ったので慌てて手を振ると、学は元気よくばいばいと言っておおきく手を振った。それから二人は病院のエントランスに向かって歩いて行った。  その後ろ姿を、ツクルと黙って見つめる。やがて姿が見えなくなると、急に肩の力が抜けた。 「まあ、大体あんな調子です」  ツクルは軽く笑ってそう言った。俺は黙ったまま、小さく頷くことしかできなかった。まだ心臓のあたりが痛いくらいどきどきしていた。無邪気な笑みは、成長しきった学の姿に不似合いだった。見慣れていないからなのだろうか、怖かった。  それからまた病院の敷地を歩きだす。歩くことぐらいしかすることがなくて、途方に暮れている気分になった。濃い橙色の夕陽はもう沈む寸前で、暗い空の底で不気味に溜まっていた。歩きながら、ツクルはもう少し詳しく学の病状について話してくれた。  熱が出るようになったばかりの頃は、記憶喪失というわけではなく、それ以前の数日間の記憶に自信が持てないという程度だったらしい。手帳を見せたり説明したりすればかろうじて思い出せるようだったが、熱が続くと、思い出せなかった記憶はどんどん抜け落ちるように失われていったという。  それでもメンバーは一生懸命対応した。些細な事でもメモに書きとめてボードに貼り付けておいたり、学自身にメモを書かせたりすることで記憶に自信を持たせようとしたらしい。その甲斐あってか、学の熱の後遺症をケア出来た。そう思っていたらしい。  だけどある日、学が高熱で幾度目かの入院をした翌日の事だった。仕事の帰りにショウトさんがお見舞いに行ったとき、学は病室のベッドに座ってじっと膨大な量のメモを見ていた。そしてショウトさんが入ってきたのに気づいて顔を上げ、笑顔になって口を開き何か言おうとしたまま、急に顔を伏せて泣きだしたという。  ショウトさんは困惑して、背中を撫でてやることしか出来なかったそうだ。やがて泣きやんだ学は、ショウトさんに全てを打ち明ける。 「実は、もう全然……ここに書いてあること、分からないんだ。確かに自分の字のものもあるけど、書いたことなんか覚えてない。だけど忘れていくことはなんとなく覚えてたから、迷惑かけないように慎重に様子みて周りに合わせて、なんとか仕事はできた。でも、さっき起きてこのメモを見て……アーティのみんなの名前、みて、誰だっけ、って……」  そのとき病室に入ってきたショウトさんの顔を見てようやく思い出して、いよいよ不安になってしまって泣いたのだという。  ショウトさんがツアーの中止とアーティチョークの活動休止を決めたのは、その晩だった。  その頃は、学の症状はアルツハイマーの酷似症状だと考えられていたらしい。今でもそう主張する医者もいるという。だけどそうしてバンドの活動を停止し、療養期間に入った学は、安堵と今までの疲れからか一気に病状を悪化させていった。そのうちに幼児返りの気がみとめられ、脳に異常がみられなかったことから、精神的なことに原因のある症状だと診断されることが多くなった。  つまり、結局いまの段階に至っても学の症状はこれとはっきり断定出来ていないうえ、未だに高熱を出すことがあるのだ。医者を変える度に病名が変わっていく状況を見かね、アーティチョークのメンバーは、全員がイギリスで学のそばにいることを決意したという。 「実のところ、うちのバンドは仲のいい方ではありませんでした」  ツクルは話しの最後にそう打ち明けた。そういえば日本を出る直前にインターネットで情報を調べていた時、アーティチョークの不仲説を疑うものをいくつも見た。それどころか、マナはプライベートではほとんどバンドを離れて行動しているというのは、ファンの間では常識らしい。 「仲が悪かったわけじゃないですよ。ただ、良くはなかったというだけです」 「そういうものなのでしょうか」 「昔はそんなこともなかったのですが、やっぱり、長いこと一緒にいると話すこともなくなるもんです。でもそんなんだったのが、こんな事態になって、急に結束を固めだしたんです」  ツクルは少し恥ずかしそうに、鼻の頭にしわを寄せて笑った。たとえ、惰性で集まるようになっていた関係だとしても、バンドを組んで長い時間過ごしてきた仲なのだ。それがバンドの崩壊をいう事態を迎えて逆にみんなを結束させたということに、目頭がじんと熱くなるような感動を覚えた。  今こそ、それを一番学に感じて欲しいのに、当の本人にはもう伝わることがないのがもどかしかった。  また明日会うことを約束した別れ際、暗い道の街灯のもとでツクルは急に真剣な顔をした。 「ずっとこのままでもいいって、思いませんか?」  確かに、今の状況は穏やかに思える。学を中心にして、みんな幸福そうだった。けど、と思って「でも」と口にした瞬間、ツクルは表情を崩してすぐに「冗談ですよ」と言った。 「確かに今の状況は異常だとはいえ、楽しいし平和に思えます。でも、マナがあそこまでして逃げたい辛いことを抱えているのも事実です」  それを聞いて咄嗟に何かを言おうとしたがそれがなにか分からないまま、「あ……」としか口にすることができなかった。そして突然、今の自分と同じようにことばに詰まっていたあの学のことを思い出した。春の始め、十七年ぶりに会った学は、色んな表情をみせた。常に口元は笑っていたけれど、たまに難しい顔もした。老夫婦の決まりを守ってきたおかげか、気配りの出来る上品さも感じられた。それに、歳をとったぶんだけ顔に馴染んだしわがあった。だけどあの顔のまま、今はとろけそうな笑みを浮かべている。 「今のマナは、辛いことを忘れたいために記憶を隠していっているだけです。ただ思い出さないように奥へ押し込んでいるだけだと考えてください。その作業はわりと手当たり次第で、このままだったら脳の機能の大部分が停止するんじゃないかという医者もいます。根拠も証拠もありません。でも、どうか、救えるものなら救ってやってください」  そう話すツクルの瞳に寂しそうなものを見つけて、どきっとした。次の瞬間にはツクルは深く頭を下げたのでその珍しい表情は一瞬しか見られなかったが、普段の飄々とした態度に隠された聡明さみたいなものを感じた。 それから握手をして、その日はそこで別れた。  夜、一人でホテルのベッドに横になって色々なことを考えた。  思えば学は、昔から純粋な人だった。十七年も経っていれば少しは世の中というものを分かっているだろうと思ったのに、あの日に話した学は、何も変わっていなかった。長いあいだ沢山の人に甘やかされて大切にされてきたんだろうなと思った。いらいらした。  だけど、今。ずっと学を無垢なまま守って来てくれた人たちを目の当たりにして……変わってしまった自分のほうを、なんとも寂しく感じるのだ。  翌朝、まだ夜が明ける前に、ツクルからの電話で起こされた。どうやらまた学が熱を出したらしく、来られるようなら来て欲しいという。その連絡を受けてすぐ支度をしてホテルを出た。明け方の街は暗く、その景色は寂しく冷たかった。  病院に着く頃には、空はわずかに明るんでいた。静かな病院の中を早足で歩いていく。不思議な事に、イギリスの病院も日本の病院と同じ匂いがした。消毒液の匂いと、子ども用の粉薬の甘ったるさの混ざったような、あの独特の匂いだ。エレベーターを降りて廊下を曲がると、病室の前で二人の男が立ち話しをしていた。ツクルと、ツクルよりごく僅かに背が低い男だった。ツクルはこちらに気づいて笑顔で手を振り、もう一人のほうは、深く被った帽子から目を覗かせて様子を伺うような視線を向けてくる。 「ツクルさん、おはようございます」 「こんな朝早くにすみませんねえ」 「いえ、あの、学は……」 「さっきまでひどくうなされていましたが、ようやく落ち着いたようで、今はショウトと話しをしています」  ちらっと見上げるように帽子の男性を見ると、目が合った。すると、男は微かに聞き取れるくらいの声で、口の中で何かを呟いた。どうやらそれが挨拶らしいと気づくのに、すこしかかった。ツクルはそれを初対面の挨拶として充分だと思ったらしく、満足げに頷いて、その男性の肩をぽんと軽く叩いた。 「こいつはベースのタゴです。悪い奴じゃないんで仲良くしてやってください」  タゴさんは見逃してしまいそうなくらい僅かに頭を下げた。割と華奢なぶるいのツクルに比べて、タゴさんは肩幅が広く、腕にはベースを弾くのには足りすぎているほどの筋肉がついていた。  ツクルは少しだけ病室のドアを開け、中に向けてひらひらと手を振る。それからこちらを振り返り、「どうぞ」と言って病室に入るよう促してきた。  そっとドアを開けると、学が小動物のような俊敏な動きでこちらを見た。 「しいちゃん、おはよお」  おはようと、笑って返事をした。ショウトさんが立ち上がったので、入れ替わりでベッドサイドの椅子に座った。見れば見るほど学の笑顔はあぶなっかしくて、昔、うちの娘がまだ言葉も喋れないころによくこんなふうに笑っていたことを思い出した。そのときはこの上なく多幸そうな笑みだと思ったのに、それを学がすると、なんとも言えない違和感があった。 「しいちゃん、もう大丈夫なの? またぜんそくだったんでしょ?」  ちらりとショウトさんのほうを見ると、ショウトさんは焦ったような表情で、ちいさく首を横に振った。喘息だなんてことばは、きっと、今初めて学の口から出たのだろう。 「うん、喘息。もう大丈夫」 「しいちゃん、またしばらくプールの授業出れないね」 「べつに、いいよ。着替えなくていいから楽だ」 「いいなあ。おれも一緒に見学したい」  喘息でよく入院していたのは小学校低学年の頃だ。なんだか、幼児返りといっても言動に幼児性が出る程度のものだと思っていた。だけど学は、本当に幼児に返っていくように記憶を遡っているようだった。学の過去の時間には自分も存在していたから、話しがややこしい。きっとアーティチョークの面々は、新たな登場人物として学の幼い記憶のなかにあらわれたことになっているのだろう。それなら本当に子どもを相手にするだけのようで楽しいかもしれないが、俺は、わけが違う。学がこちらをしいちゃんだとしっかり認識している以上、例えば学が小学五年生の記憶に捉われてしまったなら、自分も小学五年生のしいちゃんとして接しなければ、話がおかしくなる。どうやら、学が漂っている意識の時間軸に話しを合わせなければいけないらしい。慎重にならないといけないと思うと肩が凝る思いだった。どうせなら、自分も子どもに返ってしまえれば楽しく話しが出来るのに。  その直後、一瞬でもそんなことを考えてしまった自分に、ぞっとした。  それから学と話しをしていたが、学は急に横になったと思うと、目をつむって静かに眠り入ってしまった。ショウトさんが熱を測ると、平熱に戻っていた。夜中じゅううなされていたらしいから、疲れてしまったのだろう。  それから病院を離れ、メンバー達と連れ立ってカフェに行った。学以外のアーティチョークのメンバー全員と自分が揃ったのは、この時が初めてだった。 「学は僕が喘息だと心配していましたが、どうしてなのでしょうか?」 「ああ、それは、静樹さんが入院しているということになっていたからだと思います」  そう説明してくれたのはショウトさんだった。ショウトさんは童顔によく似合った栗色の髪の毛をしており、こちらの目を見てはきはき喋るので、まるで十代の青年のような印象を受ける。だけど、ツクルより一つ年下だと聞いたので、もう三十に近い。 「なぜ、僕が入院したということに?」 「マナが静樹さんの名前を出すようになってから、マナはとにかく、その場に静樹さんがいないことが不思議でしょうがないようでした。とっさに、ツクルが、しいちゃんは入院しているんだと説明すると、すんなり納得したようでした」  そういうことに一番察しがよく機転が利くのはツクルのようだった。ちらっとツクルのほうを見たけれど、カフェに置いてあったイギリスの求人情報誌に興味を持ったのか、夢中になって読んでいて、今の話しを聞いていたのか、聞いていなかったのかも分からない。タゴさんに至っては、テーブルに突っ伏して、眠っているようだった。  入院しているはずの学にとって、今は病院が家で、病院の外にいるこちらが入院しているということになっているというのはなんとも変な感じだ。 「静樹さんは、実際に喘息で入院の経験があるのですか?」 「はい。子どものころはよくやっていて、何度か入院したことがあります」 「つまり、やっぱり……」 「そうですね。学の意識は小学生ごろまで戻っているようです」 「そうなのでしょうね。実は、大人になった静樹さんと対面させるのは少し思い切った行動でした。マナが子どもに返っているのに、静樹さんが大人であることはおかしいことですから」  それは自分も不思議だった。自分がもう三十一歳になった山上静樹であるという事実に変わりはないのに、学はそれを何とも思っていないように、同い年の子どものように接してきた。 「もし学の記憶が完全に子どもの頃に戻っているなら、おかしいことですよね」 「そう思います。やはり、その……」  一つの可能性が強くなったのは分かったけれど、ショウトさんも自分も言葉を続けられないでいた。言いづらいということもあったが、上手く頭の中で整理できないのもあった。その時、急にツクルが求人情報誌から顔を上げた。 「精神的なものが原因なんでしょうね。脳の障害なら、もう少し法則が見られそうですから。マナにとって都合のいい選択が出来ている以上、そう思います」  ちゃんと話しは聞いていたらしくいきなり喋り出したツクルに驚いたが、ショウトさんはそんなツクルのふるまいに慣れた様子で「そうやなあ」とあいづちを打った。 「精神的なものが原因なら、その問題を解決出来れば、学は良くなるのでしょうか」 「きっと、そうだといいですね」  ショウトさんはお世辞を言うときのような優しさでそう言った。ツクルは何も言わずまた求人情報誌に目を落とす。その空気が、学の病状について回復は期待していないことをほのめかしていた。  それからカフェを出て、メンバー達から一緒に街を歩かないかと誘われたが、自分は学のところへ行くと言ってそこで別れた。  せっかくだから観光もという気分には、なれなかった。それより、学と話しがしたい。自分が英語を出来ないことと、今の学があんな具合だからというのもあって、一人で会いに行くのは心細いけれど。  だけど、日本に帰る前に二人きりで話しをしようと決めていた。  病室のドアをノックすると「はい」と返事をする学の声が聞こえた。スライド式のドアを開けると、学は俺の顔を見て、嬉しそうな顔をして、少し舌っ足らずに「しいちゃん」とあどけなく名前を呼んだ。 「しいちゃん、もうみんなと会った?」 「みんなって?」 「ツクルとかショウトとか、タゴくんとか」 「ああ、うん。会ったよ」 「そういえば昨日ツクルと一緒にいたもんね」 「うん。ここまで連れてきてもらったんだ」 「そっかあ。あのさ、ツクルね、物知りで面白いんだよ。そうだ、しいちゃん帰って来たら話そうと思ってたことあったんだ」 「なに?」 「あのね、ツクルから教えてもらったんだけど、火星って空が赤いんだってさ。それで、夕焼けは地球と逆で青いんだって」  そのことを知らなかったので、「へえ」と素直に感心してしまった。そういえば学は子どものころ、宇宙のことが好きだった。といっても天文学というほど難しいものでもなく、星座の位置を覚えるのも苦手だったが、ツクルのした火星の空のような話は大好きだった。 「それでいま、火星の絵描いてたの。ほら」  学が首から下げていた画板をこちらに傾けたので覗き込んで、思わず、息を飲んだ。  画用紙の中心のほうはほとんど黒く塗りつぶされていて、上のほうに行くにつれて淡い灰色が広がっている。地平線と思われるあたりに小さな白い丸が塗り潰されずに残されていて、それが太陽のようだった。赤も、青も、見当たらなかった。子どもの描くような絵ではなく、色使いの異常さを除けば、お世辞ではなく上手な風景画と言えるだろう。それだけに、その退廃的な色使いの意図が分からなくて、すぐに反応が出来なかった。 「……うん、いいね。やっぱり学の描く絵、好きだな」  慎重にことばを選んでそう言うと、学は嬉しそうに笑って、照れたように画板を抱きしめて絵を隠した。  学と話していると、本当に学があどけない子どものように思えてほっとする瞬間もあった。けれど、どうしても精神異常者というレッテルを剥がしては見られない。 「ね、しいちゃん、今度また海行きたいね」 「海? うん……そうだね、行きたい」 「そしたら海の絵が描きたい」  そう話す学の目は透きとおるほどに純心そうで、それはあの春の日、十七年ぶりに会ったときの学にも見られたものだった。  海に行ったのは、はるかむかしのことだ。小学校に入ったばかりの頃、あの屋敷のみんなと一緒に初めて海に連れて行ってもらった。それまでずっと大人はおおげさに美しく海のことを語っていると思っていたのだが、目の前にした海は、話しで聞くよりずっと荘厳なもので、綺麗なのかどうかと言われるとよく分からなかったが、どうしようもなく恐ろしくて、立ち尽くしていたのを覚えている。あのとき海を前にして立ち尽くす子どもたちに、「海を見せるには少し遅すぎる年齢だった」と言った大人がいた。海を見るのに、遅すぎるも早すぎるもないだろうと思った。そのあと、海の近くで育ったという少年と出会った。あの少年は、海を怖いと思う気持ちが分からないと言った。自分の言いたい「怖い」の気持ちは、溺れそうで怖いということではないと伝えたかったが、どうしてもことばに出来ないままだった。  今、思えば、あの少年こそ早く海と出会いすぎていたのだと思う。  学と二人きりで話しをして、なんとかして解決の糸口を見つけようと意気込んでいたが、だんだんとそんなことは無駄なことのように思えてきた。初めは話しを合わせるのに精一杯で、冷や汗をかくことばかりだったが、慣れてくるとなんだか楽しかった。娘を相手にしているのとは違って、自分も学の世界に手を引かれていくような感覚だった。そのうち、学の深層心理を探ることなんか忘れて会話を楽しんでいた。  やがて昼を過ぎたころ、アーティチョークの皆が戻ってきた。学は待っていたというように立ち上がって、タゴさんの手を引いて部屋の隅に連れて行き、こちらに見えないように気をつけながらあの絵を見せた。ツクルが意地悪そうに覗こうとすると、学が怒る。 「タゴくん、これ。まだ途中なんだけど、火星の空なんだよ」  タゴさんは朝とは違う帽子を深く被っていて、そこから覗く目は真剣に学の絵を見ていた。おおきく開いたタゴさんの胸元からは、青いタトゥーが見える。それからタゴさんは笑って、そっとなでるように学の頭に手を置いた。これが、初めてタゴさんの笑顔を見た瞬間だった。笑うと目尻が下がって、とんでもなく優しそうな顔になる。 「すごくいい。マナは本当にいい絵を描く。勝てないな」  タゴさんの声を聞いたのもこの時が初めてだった。低くてよく通る声。自分はあの絵を見たとき不気味だと驚いてしまったが、タゴさんは、本当に学の絵を絶賛しているようだ。それは子どもの絵を褒めるような感じではなくて、まるで自分も食われかねないと焦るような本音にしか聞こえなかった。  学は嬉しそうに笑って、やはり照れたように画板を抱きしめる。学は、ツクルやタゴさんと比べると頭ひとつ分は小さいので、二人の側にいると本当に子どものようだった。 「そうだ、マナ。もしかしたら、うちに遊びに来れるかもしれへんよ」  ショウトさんがそう言うと、学が嬉しそうな顔をした。 「ほんと? ね、そしたら、しいちゃんも誘っていい?」 「もちろん。あのな、静樹くんの退院祝いをやろうと思って」 「やった! また、三日?」 「うん。もしもマナがこれから三日間熱を出さなかったら、うちに来てええで」  あっ、と、思わずおおきな声を上げてしまって、学が驚いたように身をすくめた。ちらっとツクルを見ると、ツクルはすぐに何か察したようで、そっと病室を出て行った。それから少しの間を置いて、トイレに行ってくると言って病室を出る。  離れたところで、ツクルが待っていた。 「すみません、あの、僕、明日の夜に帰る予定なんです」 「そうでしたか。そうですよね、お仕事ありますもんね」 「さっきのって、外出許可の話しですか?」 「ええ。医者の許可が下りれば外泊出来るんです。ただ、今回はマナが熱を出したばかりということもあって、三日間様子を見て、大丈夫そうならという条件が付いたのです」 「そうですか……。すごく、残念です」 「マナもきっと残念がりますね。でも仕方ないです」  そのとき急に、怒りのような感情が湧いてきて驚いた。それはツクルや学への怒りではなくて、帰らなければならないことに対する苛立ちだった。日本を出るときは、準備のなにもかもが億劫だったし、こちらに来てからも仕事が気にかかって、早く帰りたいと思っていたはずなのに。  急にこんな我が侭なことを思ってしまうなんて子どもみたいだ。ふとそう思ったが、よく考えると、それは恐ろしいことに思えた。 「今回は急なことだったので、もし都合がついたらまたこちらに来たいと思います」 「そうですね。マナのためにも、お願いします」  そう言ってすぐに向こうをむいてしまったので、はっきりとは見えなかったが、ツクルはあの夜に見た、痛々しいくらい寂しい目をしていた気がする。こう見えて実は、学の事で一番焦っているのはツクルかもしれない。頭が良いからだろうか、学の身に起こっていることを一番理解していて、最悪の状況を考えずにはいられないのだろう。  結局、何も学のためになるようなことは分からないまま帰国の時を迎えることになった。また、しいちゃんが居なくなってしまうことについては、みんなでなんとかしておいてくれるらしい。もどかしかったが、どうしようもないので学のことを任せて、病院を後にした。学ともう一度会えるかも分からないのに、おおげさな別れの挨拶が出来ないのが、寂しかった。  ほんとうは、俺のせいなのかって、はっきり訊いてしまいたかった。  子どものころ仲良しだったのが最後の最後でこじれて妙な別れ方をしてしまったことや、わざわざ訪ねてきたあの春の始めにもう来ないでくれと言ってしまったことで、傷つけたのか、謝ればいいのかって、肩を掴んでそう言ってしまいたかった。いや、そうすると決めて日本を出てきたはずだった。  しかしいざ学と対面すると、そんなことは言えなかった。そう言ってしまうと大変なことが起きてしまう気がした。具体的な想像はしたくないが、完全に学が戻ってこなくなるような事になってしまいそうで、何一つ、言えなかった。  見送りは必要ないと言ったのに、空港で、ツクルが待っていた。ちょうど初めて会った場所と同じところに立っていて、こちらに気がついたのか大きく手を振る。この場面がもはや懐かしく思えたのが、おかしい。 「ほんとに、マナに会いに来てくれてありがとうございました」 「いえ、僕も来て良かったと思っています。結局、何も出来ませんでしたが……」 「とんでもないです。あの、日本に帰ったらこれを渡して欲しい人がいるのですが」  そう言ってツクルは鞄から大きな封筒を取り出して渡した。住所も何も書いてなかったが、それは追って連絡するという。 「とても、マナのことを良く面倒みてくれてた人なんですよ。マナがいなくなって寂しがっていると思うので、それを届けるついでにマナの話しでもしてあげて下さい」 「分かりました。それでは、また」 「はい。また」  また来ることになる運命に巻き込まれそうな気もしたし、もう、来てはいけないような予感もしていた。それでも一応再会を誓って別れ、ツクルに手を振り返して、イギリスを後にした。  空港に着いた途端に、早く滋賀に帰らなければという気持ちになった。帰って妻の笑顔を見て、娘を抱き上げて、やりかけのまま皆に押し付けてきてしまった仕事に戻らないと。今まで非日常的なところに迷い込んでいたことが、余計にその気持ちを強めた。  しかしスマートフォンの電源を入れ、ツクルから届いていたメールを読んだ瞬間に、また遠いイギリスの地にいる学に心が惹かれた。そのメールには、帰国寸前に受け取ったあの封筒の届け先が書いてあるだけだったが、その住所が東京だったため、滋賀に帰ろうとしていた俺の足を引き留めた。滋賀に帰ってしまうと、もうそこを訪ねようという気は起らないだろう。  結局、東京のビジネスホテルを取って、その人のところに向かうことにした。メールに書いてあった住所の最後には、人の名前ではなく「スティル・オブ・ザ・ナイト」と書かれていた。おそらく、その人の経営している店の名前なのだろう。インターネットで調べると、音楽、特にロックを流すバーらしく、今日の夜も開店するようだったので、一旦ホテルに寄って仮眠を取った。  二十一時過ぎにホテルを出て、その店に向かった。  ビルの地下にある小さな店だったが、そっとドアを開けるとほとんどの席が埋まっていた。ボックス席には二人の外国人が座っていて、その周りにはこんな店に出入りしていいのかと思うような若い女の子から、年配の女性まで集まっていた。ドアを開けた瞬間、みんながいちようにこちらに視線を向けたので気まずかったが、すぐに興味を失ったようで、それまでしていた会話を続け始めた。  カウンターの向こうに髪の長い男性がいて、それがこのバーのマスターのようだった。立ちつくしていた自分に気づいたのか、その男性は、導くように優しく手招きをする。 「こんばんは。初めて見える方ですよね」 「はい」 「すみませんね、いつもはもっと閑古鳥鳴いてるんですけど。今日はちょっと騒がしくて」  男性は笑って肩をすくめた。マスターは華奢で肩幅が狭く、腰に届きそうなほど髪を伸ばしていた。とても穏やかな口調で喋って、優しそうに目元に皺を寄せて笑う。自分より二十ほど年上だろうか。もしかしたら、死んだ親父と歳が近いかもしれないが、まったくそうは見えなかった。父親は、昔堅気だったから。  こういう店にはここ数年入ることがなかったので、緊張してしまった。酒の名前を見ても全くぴんと来なくて、そんな様子を見透かしたのか、マスターはいくつか好みについて質問をして適当なカクテルを出してくれた。 「何かリクエストがあったらどうぞ」  はじめ、何のことを言っているのか分からなかったが、どうやら店に流す曲のことのようだった。そういえばここは音楽をリクエストするバーなのだ。店には、古めかしい音質のハードロックが流れていた。昔はよく洋楽を聴いたものだが、最近では新しくCDを買うこともなかった。ハードロックも好きだったが、詳しくない人でも口ずさめるような曲ぐらいしか思いつかなくて、恥ずかしくてリクエストなんて出来なかった。 「すみません。あの、実はこれを渡すよう頼まれてこの店に来たんです」  さっさと本題に入ってしまおうと思って、封筒を取り出す。マスターは思い当たるふしがないというように、不思議そうな顔をした。 「僕もこれがなんなのか知らないのですが、昨日、アーティチョークのツクルさんから……」  そう言った瞬間、マスターの顔色が変わったのが分かった。アーティチョークという名前を聞いて、まるで亡霊にでも出くわしたかのように息を呑んだが、すぐに頬を緩めて頷いた。  急に声を失ってしまったみたいに、マスターは黙って手を出した。封筒を丁重に受け取って、中身を取り出すとほぼ同時に、目を細めて、うるまませた。しばらく無言でそれを見つめていて、あのボックス席の外国人に酒を頼まれるまでずっとそうしていた。 「良かったらどうぞ、ご覧になってください」  マスターが我に返って仕事に戻る寸前、そう言ってその紙を差し出した。自分が見てもいいのだろうかと思いながらも受け取ると、そこにはマスターと大きな黒い犬の絵が描かれていた。学が描いた絵なのだろう。あの退廃的な火星の空とはまったく別の人が描いたもののように細かいタッチで優しい色遣いだった。  オルゴールの音色とか、そういうたぐいの優しさに満ちた絵。おもわず自分も涙がにじんでしまった。  カウンターに戻ってきたマスターにその紙を返すと、もう一度それを見て、とうとう涙をこぼした。「すみません」と言ってすぐに後ろを向いて涙を拭い、またすぐ振り返って笑顔を作る。 「学くんに会ってきたんですね」  初めて学のことをきちんと名前で呼ぶ人に会ったので驚いた。 「はい。実はイギリスに行っていて。さきほど、日本に帰ってきたところなんです」 「そうでしたか。もしかして、学くんとは古い知り合いでしょうか」 「そうです」 「ああ、じゃあ、一緒に歌を習っていたっていう……」  学が自分のことをそういうふうに人に話していたのかと思うと、妙な気分がした。一緒に歌を習っていたことなんて、今この人に言われてようやく思い出したから。  しかし不思議なことに、それがつい最近のことに思えるどころか、来週もレッスンがあるような気すらする。ことばに出来ない……変な感覚。 「学くん、どうでしたか。熱の方は」 「熱は続いているようでしたが、元気でしたよ」 「そうですか。僕も早く会いに行きたいとは思っているのですが仕事もありますし。それに、僕のことなんか、もう、分からないようですから」  そう言って、マスターは寂しそうな笑みを浮かべた。きっとこの人と学の間には、自分が学と離れていた長い間に色々なことがあったのだろう。ツクルによると、昔の友達に会いに行くというのもこの人から聞き出した話しらしい。プライベートではバンドを離れて行動していたという学が頼っていたのは、この人なのだろうと推測した。そんな肝心な人のことまで忘れてしまって、今や学の記憶にまともに残っている人物が自分だけというのは、ひどく申し訳ないことのように思えた。 「学はよくこの店に来ていたのでしょうか?」  いえ、と何かを言いかけてすぐに、マスターがまた客に呼び出された。マスターは「いま行くよ」と大きな声で返事をして、メモ用紙を一枚こちらに渡す。 「すみません、電話番号を教えてくれませんか」  そう言ってペンをそっと置いて、マスターは酒をふるまいに行ってしまった。渡されたメモに書いた携帯電話の番号の横に、一応、山上静樹と自分の名前も添えておいた。それから、出してもらったカクテルを飲んで、かかっていた音楽に耳を傾ける。洋楽で、聞いたことのある曲だった気がしたが、誰のなんという曲だったかどうしても思い出せなかった。だけど有名な曲らしく、曲のところどころを店にいる客のみんなが口ずさむので、まるで合唱だった。 ようやく戻ってきたマスターにメモを渡すと、マスターは「ああ」と小さく声を上げ、もう一枚メモを千切ってさらさらと何かを書きつけ、こちらに渡した。 「突然のことだったので、名乗ることも忘れてすみませんでした。それで、申し訳ないのですが……今日はちょっと忙しいので、良かったら店を閉めてからまたお会いできませんか?」  メモにはスマートフォンの電話番号と、森遠之介と書かれていた。それがマスターの名前なのだろう。  少なくとも明日のチェックアウトの時間までは東京にいるだろうから、今夜ホテルに帰るのが遅くなることはかまわなかった。それに自分でも、もっとゆっくり学の話しが出来たらなと思っていた。 「分かりました。お忙しいところ、連絡も入れずに来てしまってすみませんでした」 「いえ、かまいませんよ。ああそうだ、ミチルにはもう会いましたか」 「はい?」  もう会ったかととうとつに訊かれたが、学の件に関わってからミチルという名前を耳にしたのは今が初めてだった。ぽかんとしている自分を見て森さんは察したのか、もう一枚メモを破って何かを書いた。それを、カウンター越しに渡してくる。 「あの子も学くんと仲がよかったので、よかったら今から行って学の様子を聞かせてやって下さい。店のほうで切りがついたら、こちらから静樹くんにお電話します。このまま退店していただいて結構ですよ」  そう言われ、ほとんど追い出されるような形でバーを出た。ロックバーと聞いて想像していたのより随分落ち着いた店だったが、外に出ると、東京のネオン街すら、死んだように、暗く静かに感じた。うるさいわけでも派手なわけでもないのに、あのバーには不思議な魅力が満ちていた。上がってきた階段を振り返ると、Still of the NIGHTと読める紫色のネオン管が、地下の暗闇でまばゆく光っていた。  メモに書かれていた住所はここからそう遠い場所ではなかった。住所の他には未散(みちる)とだけ書かれていて、その名前を見ていると、また、どこかに迷い込んで行くような感覚がする。  ほんの数日前まで、自分のこの先の人生は、昨日から続いていて、そして明日に続くような、なんでもない日々が連綿としていることを、疑いもしていなかったのに。ツクルのあの電話をきっかけに、抵抗も出来ずに学に振り回されてしまっている。  タクシーでその住所の場所まで来たが、降ろされた瞬間に途方に暮れた。辺りは都心に似合わないほどのどかな住宅街が肩身狭そうにしていて、未散の苗字も分からないため、どの家の戸を叩けばいいのか見当もつかない。しかしやがて見慣れてくると、不思議に自然とその場所が分かった。初めはどこかの家に併設された物置か何かかと思ったが、よく見るとそれは一軒家であり、童話に出てくるような小屋で、明らかに周りから浮いていた。吸い寄せられるようにその入口らしきドアに寄ると、未散と書かれたプレートが下がっていた。  インターホンを押したが、誰も出てこなかった。しかし、気配がないというわけではない。もう一度押したが、インターホンがきちんと鳴っているのかどうか確信がなかったので、ドアをこんこんと叩いた。するといきなり勢いよく扉が開いて、中から顔をのぞかせた小柄な黒髪の女性が、目を丸くしてこちらを見上げた。そのことに面喰らってしまったのは、なぜか勝手に未散のことを男性だと、そしてバンドマンだと勘違いしていたからだ。  未散は警戒した様子もなく、何か言葉を待っているようだった。 「あ……あの、夜分に突然申し訳ありません」  自分はそう言って頭を下げたが、未散は、この人はそんなことを言うために来たのかというような顔で首を傾げた。こんな調子で、学の周りの人と関わり始めてから、社会で必要とされるような礼儀はほとんど役に立った試しがない。 「森さんからここの住所を教えられて、ああ、そうだ、僕は、学の友達で……」  そう言った途端、まるで何もかもを受け入れたように未散は友好的になって、家に上げてくれたのだった。これもどこでも同じで、必要なのは正しい礼儀や長い説明ではなく、学の名前ひとつだけだった。  未散はアイスコーヒーと、マドレーヌを出してくれた。広い部屋の端にはものがごちゃごちゃ溜まっていて、そのほとんどが絵を描く道具だ。においが学校の美術室に似ていて、なんだか懐かしい。 「マナくんに会ったの?」  未散は、楽しいことを我慢するようにひっそりと喋る。少女らしい外見をしているとはいえ、初対面の人間に敬語を使わず話しかけてきたことに、不思議と嫌な感じはせず、むしろ、野生の動物が手に触れてくれたような嬉しさすら覚える。 「うん。昨日まで学に会いにイギリスに行ってたんだ」 「いいなあ。ね、マナくん、どんなんだった」 「どんなのって訊かれると、難しいな……」 「森さんのことも忘れちゃったんでしょ?」 「らしいね。僕はさっき森さんと知り合ったばっかりだから、イギリスでそのことは確かめてないけれど。あの様子じゃあ、たぶん、もう、分からないんじゃないかな」 「そうなんだ。マナくんが森さんのこと忘れちゃったなんて、じゃあ絶対、私のことなんか忘れたんだろうな」 「それは会ってみないと分からないけど」  未散があまりにもあどけないさまなので、つい、かばうようにそう言ったが、おそらく。この未散という子のことも、今の学は覚えていないだろう。しかし、未散は別にそれを寂しく思ってるわけでもなさそうで、だけどこちらのかばうような言葉の優しさには気づいたのか、笑顔をつくって見せた。 「別にいいの。森さんのこと忘れたなら、全部忘れたようなものだから」 「そんなに学は、森さんと仲良しだったの?」 「うん。マナくんが森さんのこと知らずに生きていけるなんて、想像も出来ない」  おそらく、それは事実なのだろう。なんと返事をしていいのか分からなくて、会話は途切れ、部屋はしんと静まった。  昔は、森さんの役目のところに、自分がいた。本ばかり読んで大人しく、ひどい人見知りの学の手を引いていたのは自分だった。子ども心ながらに、これで大人になって生きていけるのだろうかと心配したものだが、どうやら学は神のようにすがれる人を上手く見つけたことでなんとかやっていたらしかった。 学は俺たよりにしていたころから変わっていない。 「ね、マナくん、絵は描いてた?」 「ああ、うん。火星の空の絵を描いてたよ。あと、森さんの絵も描いてたみたい」  そう口にしてみて、突然、そのことの重要さに気づいて絶句した。森さんが描かれた絵に書かれていた日付はほんの一ヶ月ほど前で、そのころには幼児返りの気も大分深刻なものになっていたはずなのだ。その学がイギリスの病院で、森さんのことを描いたということが、どれほど奇跡に近いことか。あの、森さんの涙を思い出して、思わず、目の表面がとろけるように熱くなる。 「どうして森さんの絵が描けたのかな? 写真でも、模写してたのかな?」 「たぶん、完全には忘れてるわけじゃないんだと思う。学の記憶、ほんとうにめちゃくちゃだから」  学の意識はまるで細かなひびの入った鏡みたいで、どこを見ればいいのか分からない。まともに向かい合って見つめようとすればするほど、錯乱してしまう。  そのとき、眉をひそめて話しを聞いていた未散の頬にとつぜん涙がつたって落ちた。それに驚いて、すうっと冷たい感覚がするほど気分が落ち着いた。女の涙は、どうしてこんなにも男の頭を冷やすのだろう。 「どうしたの、大丈夫?」 「マナくん……優しい人だから、耐えられなかったんだろうね。あの線の向こう側に、いっちゃった」  何の話しをしているのか分からなかったが、ぞっと寒気がした。未散の頬を流れる涙は止まらなくて、ティッシュを探して渡すと、未散は頭を下げて涙を拭った。 「あの、今からする話し、真剣に聞いてくれますか?」  未散はうやうやしく敬語でそう言ったが、何故か余計に子どもっぽい口調に感じた。今から何を話すのか知らないが、こういうふうに言われては、頷かないわけにはいかない。 「こんなことを言うとうぬぼれてるって感じるかもしれませんけど、マナくんと私は似ているところがありました。自分の中にあるものを、絵とか音楽とかで表現したいって考えるところとか、あと、落ち込みやすいところとか」  うぬぼれているだなんてまったく思わない。むしろ、この子のほうでその自覚があることに驚くくらいだ。実際、学と未散は似ているところがあると思う。きっとこの子も、自分の世界に閉じこもりがちな子どもだったのだろう。もしかしたら、今でも少し。 「たまにひどく落ち込んでふさぎ込んでいるときに、それすら表現したいって思って、震えて、泣きながらでも、形にしようとすると……たまに自分のすぐそばまで線が来ていることに気づいて。息が止まりそうなくらい、苦しくなることがあるんです」  その「線」というものは、具体的に存在するものではないのだろう。それを見ることのできない人もいるのだろう。いっぽうで、見ずには生きていられない人もいるのだろう。自分にはその線を見た覚えはなかったが、少なくとも学は、自分よりずっとその線の近くにいたんだ。 「一度その線の近くまで行ってしまうと、もう、見ないふりも出来なくなるんです。いつでも、楽しいときでもいきなりぽんとその向こう側に押し出されそうになって、ほんとうに、ほんとうにおそろしいんです」  未散はこちらを見つめ、真剣なまなざしをしてそう言って、また涙をこぼした。  もしかしたら、以前の自分なら未散の言っていることを話し半分に聞いたかもしれない。だけどイギリスの病院で見た学の様子を思い出すと、とてもじゃないけど馬鹿に出来ない話しだった。  気が触れるということばをあてた人が昔にいたのだろうが、なんと優しいことばだろうか。そのことばを考えた人も、もしかしたら大事な人がその一線を越えてしまったのかもしれない。その大事な人のために、きれいなことばを用意したのだろう。別に、どうなってしまったわけでもない。何かを失ったわけでもない、体は五体満足。ただ、ただ、「気が触れてしまった」。そこまで考えが達した瞬間、自分の目からも涙があふれて、頬をつたった。学のこと。そして、その線の向こうにいってしまった学のことを思いながら……線にのみこまれる寸前のところで生きてゆかなければならない未散のことを思うと、涙は余計にあふれてきた。  まるで子どものように泣いたのは久しぶりだった。二人とも泣きやんだあとは、少し気まずそうに目を合わせて笑いあってから、もうその話を続けることはなかった。昔の学の話しや、未散と学のエピソードなどを聞いて、和やかに笑いながら話しをする。未散も、もう敬語を使うようなことはなかった。 アイスコーヒーもマドレーヌもおいしかったと言うと、未散はすこし恥ずかしそうに、どちらも手作りであったことを明かした。礼を言うと、未散は下唇を噛んで嬉しいのを我慢するように笑った。その表情がたまならく可愛くて、ふと、何日も見ていない娘のことを思い出して、胸がぎりりと甘く痛む。  森さんから連絡が来たのは、とっくに日付も変わった、明け方に近い夜だった。電話で、申し訳ないがもう一度店まで足を運んで欲しいとたのまれた。 「もう店は閉めたんだけど、片付けがあって。静樹くんのためだけに開けるから来てくれませんか?」  笑って「もちろんです」と返事をして、再び森さんの店に向かった。未散の家を出るのは、なんだか心細かった。それは、未散のことが心配でたまらなかったから。あんな話しを聞かされたあとでは仕方もないだろう。何かあったら必ず自分を頼るように言って、住所と電話番号と名前を書いた紙をしっかり渡してきた。  考えたくはなかったが、もしも、学のようなことになったらと、思わずにはいられなかった。  スティル・オブ・ザ・ナイトの看板の明かりはもう消えていたが、入口のドアは開いていた。森さんは、入ってきた自分に気づくと。笑って手を上げる。 「こんな時間にすみません」 「いえ。お店、お疲れさまでした」 「ほんとに今日は偶然忙しかったんですよ。あそこに、外国人が二人いたでしょ」 「はい」 「いま来日中のバンドのギターとドラムでね、日本に来るといつも寄ってくれるんです。そうするとやっぱりファンの人もついてくるので」  話しをしながらグラスを拭く森さんの頭上のテレビでは、ハードロックバンドのライブ映像が流れていた。メンバーはみんなデニムか革のジャケットを着て、森さんのように長く伸ばした髪にパーマをあてていた。それは随分、保守的な伝統のようだった。 「未散には会えましたか」 「はい。彼女は、その……。もしかして、学と交際関係にあったのでしょうか?」  学校で噂話しでもするように、緊張しながらそう訊いた。ずっと気になって仕様がなかったのだ。俺の真剣な口調に、森さんは、声を上げて笑った。 「違うと思いますね。まあ未散に会ったんなら分かると思いますが、例えそうでもそうでなくても、あの二人にはどうでもいいことなんですよ」  どうやら森さんはほんとうに深く二人のことを理解していたらしい。あの二人の常識外れをわかったうえで「どうでもいい」とまとめ上げるところに、観察眼の鋭さと、おおらかな優しさを感じた。 「そうだ、さっき学くんがよくこの店に来るのかと訊かれましたが、店にはそうしばしば寄るほうじゃなかったですよ。でもツアーとかで東京を離れたりしない限り、ほとんど毎日会っていましたね。僕は体を悪くしてからお酒をひかえてるので、学くんの運転係りみたいなものでした。学くんの仕事の帰りに迎えに行って、そのままどこかに連れていったり。でも大抵は、僕のうちに遊びに来ましたよ。学くんは家に一人にしているとすぐふさぎ込んでしまうので、僕はかまわずにはいられませんでした」  一日の仕事を終えた森さんの低い声はすこしかすれていて、店内の薄暗いあかりの元で話しを聴いていると、眠たくなるくらい心地がよい。学は、ほんとうにいい人と知り合ったんだなと思った。音楽好きで、おだやかな、世話焼きのバーのマスター。  森さんは話しをしながらカクテルを作って出してくれた。バーで酒を出されてお気遣いなくというのも妙かと思い、ぎこちなく礼を言って、口に運ぶ。香りに覚えのある果実の味が広がる。ほのかに甘く、美味い酒だ。 「ほとんどの時間を、森さんと過ごしていたのですね。あの学がそんなに人になつくなんて、珍しい」  つい子どもの頃の学のことを思いながらそう言ってしまったが、もしかして失礼だったかもしれないと思って肩をすくめる。だけど森さんは、ひっそりと笑うだけだった。 「どうやら学くんは、昔から変わってないみたいですね」 「そうかもしれませんね。もちろん変わったところもあるのでしょうが、僕からしてみればあいつ、何も変わってませんよ」  そしてそんな学を傷つけ、線の向こう側に押しやってしまったのは自分なのかもしれないと思うと、息がつまりそうになった。  だけど、きっと、どのみち学はあのままではもたなかった。学は、遅かれ早かれいつかああなっていただろう。ひきがねだって、自分ではなかったかもしれない。 「もちろん、学くんは最初から僕に心を許してくれたわけではなかったですよ。初めて会ったのはもう随分むかしのことですが、学くんはバンドのデビューのストレスで痩せて崩れそうなほど細く、青白くて、プロモーションビデオで見る以上に奇麗で絶句しました」  その話しを聞いて、ふと、初めてテレビで学を目にしたときのことを思い出した。音楽番組のコーナーでほんの十数秒、アーティチョークのプロモーションビデオが流れただけだったが、あの、学が映った瞬間の感覚は忘れられない。まず歌声が聞こえて、思わず画面を見ると、十五のときに別れたときより少し大人になった学と目が合ったような気がして、全身に痛いほどの寒気が走った。それは、とうとつに昔の思い出にとらわれてしまったからでもあったが、学の容姿端麗にも原因があった。学は、妖しいほどの艶やかさを惜しみも振りまきもせず、どこか遠慮がちに、体に許したぶんだけを備えていた。幼いころから可愛いと絶賛されていた顔立ちは、憂いを帯びてくるおしいほどのものになっていて、その一つの芸術品とも呼びたくなるうつくしさに全身があわだった。すぐにそれが学だと分かった。歌声に被せるように、ナレーターが「ボーカルのマナは……」と説明し始めたのがぼんやりした意識の中で耳に入ってきて、人違いでなかったことがすぐに判明した。 「ええ、僕も驚きましたね。学の、挙動不審で内気なところが、プロモーションビデオの中ではさっぱり見られませんでしたから。そうするとこんなにかっこいいやつだったのかって、溜め息つきましたよ」 「じゃあ、逆ですね。僕の場合は、テレビで見たときは、こいつ、澄ましてやがるなって思ったんですけど。会ったときに、ほんの少し会話しただけですぐにその内気さに気づきました。確かに、隠しようのない挙動不審でしたね」  森さんは初めて会ったときのことを思い出したのか、目を細めて笑った。ほんとうに、いとおしくてしょうがないというような笑みだった。 「学くんは人を振りまわせるだけの器量も度量もないくせに魔性だから、厄介ですよ。僕は学くんと出会ったばかりのとき、妻と上手くいかなくて離婚したばかりで、それがまたいけなかった」  森さんは、学について語るときだけ、熱情を噛み殺したように焦った口調になるくせがあった。どうやら、なついてくれた近所の子どもと遊ぶように学の相手をしてくれていたわけではなかったようだ。友情とも愛情とも違う、もどかしいような感情をひたすら深めて、寂しがりの学の心を満たせる存在になっていったのだろう。  そんなことを考えながらじっとこちらが黙っているものだから、森さんは肩をすくめて、自嘲するように笑った。 「お気づきだと思いますが、僕は尋常でなく学くんのことが気に入りでした。学くんはよく、あんまりにも森さんのところに行ってばかりで迷惑かけてるんじゃないかと心配してましたが、とんでもない。僕のことをすこしおかしいかと思うかもしれませんが、僕だけに寄りつくようになってくれて、どれほど有頂天だったことか」 「いえ、別におかしいとは思いませんよ。むかしの僕も似たようなものでしたから。学には、かまい過ぎる人がきっと必要なんです」 「そうなんでしょうね。学くんは僕を頼りにしてくれていましたが、僕は、酒で何度もやらかしているし、妻には逃げられるし、ほんとうに駄目なやつなんです。なのに学くんはそんなことは気にもかけず、こんな僕に、遠慮までしながら、必死に手を離されないよう、すがるんです。ほんとうにどうして、あんなに……純粋でいられるのでしょうね」  森さんは笑いながら、思わず目がうるみそうになったのを隠すようにうつむいた。学が一方的に森さんの世話になっていたわけではなく、森さんにとっても、学は支えになっていたのだろう。 「そんなに学のことを気にかけてくれたのに、あいつには分からなくなってしまうものなんですね。もう一度同じように面倒みてやったら、かすかにでも思い出したりしないものでしょうか……」  学がこの人のことをもう思い出せないなんて、あってはならないほどかなしいことだ。今まで森さんと過ごした時間、思い出を置きざりにしてまで、学は今居るそこにいかなければならなかったのだろうか。そう思うと、それはアーティチョークのメンバーも同じことなんだと思って、心中はますます辛かった。今まで一緒にバンドをやってきたメンバーがああいうことになってしまって、やっぱりかなしかっただろうし、責任感もあっただろう。  しかし森さんはこちらを見て、笑っただけだった。苦笑いのようにも見えたが、この人は常にそんな感じの笑い方をするので、どういった心情からくる笑いなのかよく分からない。 「僕はね、ほんとに駄目なやつなんです。ずるいんですよ。学くんが僕のことを忘れてしまったらしいと分かったときは、もちろんショックでしたが、それより、もう一度出会いなおせることのほうが都合が良いって思っちゃったんです」  もう一度出会いなおせるということばを聞いたとき。脳裏に、妻の顔が浮かんだ。妻は、結婚して子どもが生まれた今でも初々しい恋人のようなところもあるし、一方で付き合う前の悪友のような関係も残っていて、いい友達でもあり愛してる人でもある。もしも妻が突然自分のことを忘れてしまったら、やっぱり、自分も出会いから始めることを考えるだろう。そう考えた瞬間、つぶされるように胸が痛んだ。はじめましてと言うときのことを考えると。どうしようもなく切なかった。妻に、誰なんだろうって不審がられながら、ぎこちなく挨拶を返されるのだろう。想像するだけで悲しすぎる。  だけど森さんは、その切なさより、出会いなおせる期待のほうが勝るという。おそらく、今まで以上に学にとって唯一無二の存在になるようにやりなおす方法を、考えているのだろう。この人なら、もしかしたらそれもたやすいことかもしれない。 「学くんは心を開くことが苦手だったし、人気バンドのボーカルとあっては……僕には、少し遠すぎる存在でした。どれほど学くんが遊びに来てくれたって、ふと目を離すと手から離れていってしまいそうだといつも思ってました。今では身寄りもなく、異国で入院するひとりの患者に過ぎません。これでようやく同じ目線で物を申せる、好きなように出会いからやり始められるって、思っちゃうんですよ。かけがえのない存在になれるんです。ほんとうは学くんのことに胸を痛めたり、熱のこと心配してあげたりしなきゃいけないはずなのに。都合のいいことばかり考えて、喜んじゃうんです」  グラスを拭く手を止めずに淡々とそう語る森さんは、特に恥じてる様子もなく決して意地悪そうでもなく、ただ、とにかく正直だった。あまりに気取らない森さんの様に、思わず感嘆してしまう。森さんは変なことを言っているわけではない。人間なら誰しも思ってしまうようなことを、自分のことばでまっすぐ話しているだけだ。なかなか簡単に出来ることじゃない。森さんは、こんな若輩の自分にまで、上からものを言うこともなく、対等に語ってくれる。それは学の持っている無垢な素直さみたいなものではなく、紆余曲折の人生経験があるからこそ、辿り着いた正直さなのだろう。  このバーに入ってきたときに感じた活気と、出たときに気づいたまばゆいほどの魅力は、森さんの人徳から成されたものなんだ。自分だってこの近くに住んでいたら、森さんと喋りに店に来たいときっと思う。 「じゃあ森さんは、学を追ってイギリスに行くつもりなんですね?」  ええ、と即答して森さんは目をつむって頷いた。まるでずっと前から決まっていた予定を確認するかのような仕草だった。 「しかし、突然店を閉めるわけには行きませんからね。それに、いきなりイギリスに行ってもしょうがないですから。幸い、昔の知り合いがイギリスでの仕事の話しをいくつかくれたので、それを検討しながら準備しているんです。この店と、常連さんのことだけはどうしても気がかりですが、不思議と……心の重くなるほど置いていけないものはないんですよ」  それはきっと、向こうには学がいるからだ。あとは、森さんの身軽さというのだろうか。ここまで丸腰だと残すものに執着もなく、新たに出会うものが喜んで受け入れるべきものでも、立ち向かわなければならないものでも、楽しみだろうと思う。それでも決して地に足が着いていないわけではない。おそらく準備とは、書類の絡むような契約の整理とかその程度のことだろう。 「それに、家もろくに持たないようなのって憧れてたんですよ。今まで長くこの店に引きとめられすぎたから、財布と、好きな音楽と、本と……あとはレミーだけ連れてふらふらしたいって思ってたんです。ああ、レミーっていうのは学くんの描いた絵にも居た、黒のラブラドールレトリバーのことなんですけれどね。僕の相棒ですよ、僕よりしっかり者で。学くんはレミーのことも大好きで、よく散歩にも連れていったし、一度はアーティチョークのプロモーションビデオにも出演したんですよ。きっと、今の学くんもまた、レミーと仲良くなるでしょう」  この上なく楽しそうに森さんが笑った。  たまらなく格好いいと思った。学が森さんになついていたのにも、納得できる。  そして、この人が学のところに行ってくれるなら、もう大丈夫だろう。  だって、自分が付きっきりになったところできっとまた、傷つけてしまう。 「森さん、お酒もう一杯下さい」 「はい。また、おまかせでいいかな」 「お願いします」  森さんは手際良くカクテルを作って出してくれた。今度はウォッカベースの、先ほどのものよりアルコールの強いカクテルだ。それを半分くらいまで一気に呑む。 「森さんはもう、駄目ですね。すっかり、学にひっかかってる」  軽い調子でそう言うと、森さんは肩をすくめて笑った。 「ツクルくんにもね、同じようなこと言われましたよ。あの子はほんとうに、察しが良くて怖い」 「ああ、ツクルとも知り合いなんですね」 「アーティチョークの全員と一応面識はあるけど、学くん以外で一番話すのはツクルくんですね。といっても、そんなに会ったこともないですが」 「ツクルも、今は学が気になってしょうがないみたいですね。学って、むかしからそうなんですよ。何もしてないのに可愛がられて、むかつくって思ってました」  森さんは不意をつかれたように声を上げて笑った。それは、こちらの拗ねたような口調が面白かったようでもあり、子どものころの学を想像してしまったからのようでもあった。 「学くんにそんな言い方できるのは、きっと世界であなただけでしょうね」  確かに学のこととなるとみんな甘いので、そんなふうに言う人はいなかった。それに学にあれこれ言っていた老夫婦はもう居ないし、幼馴染はもはや自分だけなのだ。そう思うと、悪口を言えるのすら自分だけというのが急に切なく思えた。でも、ずっと前からむかつくって思っていたんだ。ようやく口に出来たのが爽快だった。  だけどそれと同時に、また学に会いたくなってしまったのが、どうにもおかしい。 「それにあいつ、困ったことがあると助けるまで泣いてぐずったり、かばって盾になってやらなきゃいけなかったりして。言いたいことがあるけど言えないみたいに内気で、ほんと、いらいらしてたんです。入院したって聞いたらそりゃあ見舞いには行きますけど、僕とあいつ、もういっかい友だちにはなれなかったと思いますよ」 「それはどうですかね。学くんが転んだら、起こしてやりますか?」 「まあ、それは」 「一緒に歌のレッスンをするのは?」 「もちろんやりますよ」 「充分じゃないですか」  森さんは微笑ましくて仕方ないというふうに笑った。なんだかばつが悪かったが、何も言わずにカクテルの残りを飲み干す。 「静樹くんは、もう、学くんを訪ねるつもりはないのでしょうか?」  酔いのまわってきた頭がその質問をぼんやり処理し始める。自分で考えた結論とは別に、心が素直な答えを出してしまう。ほんとうはどうしたいのか、アルコールで理性に抑えのない脳は正直だ。  だけど、自分ではもう、そうしないと決めていた。 「会わないつもりです。たぶん……あいつのために、そうした方がいい」  決めたことだったのに、そう口にした途端悔しいくらい哀しくなって目がうるんだ。きっと自分は、学に優しくばかりはできない。もし、しいちゃんとして学の相手をするだけで充分だと言われても、きっと無理だろう。もう、あのころの学としいちゃんではないのだから。それに、容易に傷つける相手として、学は脆すぎる。ちいさな発言にも気をつけないといけないなんて、そんなのは友達と呼べない。看護師や保育士のように学に接するなんていうのも、嫌だ。そんな同情は、学のためにも、絶対嫌だった。  なんとか涙が落ちないように堪えて、息をつく。森さんは、うっすら微笑んだままそんな俺を見つめていた。 「良くなることはともかく、学くん、どうか悪化しないといいですね」  森さんがとても優しくそう言った。ほんとうに、そうだといい。学が自分を守るためにああしているのだから、以前の学に戻るよう期待するのは酷だろう。それより今は、体調に異常が出ないよう願うばかりだ。何度も高熱が続いては体への負担も大きいだろうし、ツクルの言っていたようになることなんか想像もしたくない。  森さんがいてくれて良かった。森さんはきっと学がどうなろうと側にいてくれるだろう。  もう学は大丈夫だ。こんなに想ってくれている人がいるのだから。 「あの……どうか、学に良くしてやってください」  なんと言っていいのか迷って変な挨拶になってしまったが、そう言って頭を下げた。森さんは無論だというように「ええ」と返事をする。  お会計をお願いしたが、森さんは、お酒のお金をどうしても受け取ってくれなかった。森さんの気持ちも分かるが、こちらだってどうしても払いたい。いよいよ意地の張り合いになるかと思ったとき、森さんは「お代はほんとうに結構ですから、子どものころの学くんの話しを聞かせてもらえませんか?」と言った。そのくらい話しても構わないけどお金のことは別だと咄嗟に上手く言うことが出来ず、結局丸めこまれる形になった。森さんは、ほんとうに、じょうずだ。  それから、懐かしい話しが始まった。話しているうちに、忘れていた色々なことを思い出していく。ただの学校生活や、なんだか間が抜けていて笑える話し、広くておとぎ話に出てくるような屋敷のこと……こんなにむかしの話しをしたのは初めてだった。森さんは、何を聞いても面白いというふうに笑っていた。  そうしていよいよ夜も明けるころになって、このあとホテルのチェックアウトの時間もあるし、何より時差のせいで自分は疲れ切っていた。それを察したらしい森さんが、自分を外まで送り出してくれた。五時をまわって、空は明るんでいる。 「お気をつけて」  そう言われて咄嗟に手を差し出すと、森さんも手を出して握手に応じてくれた。そして振り返って、スティル・オブ・ザ・ナイトを後にする。  早く家に帰ろう。  切なくもなったわけでもなく、焦るわけでもなく、ただ、そう思った。  それから時が経つにつれやがてテレビや雑誌で学の名前を見かけることはなくなって、しばらくして体調不良は公式に発表され、それと同時にアーティチョークの学を除くメンバーのソロ活動が始まった。ツクルはイギリスに残って今までとはまったく違うジャンルのバンドを始め、ショウトさんとタゴさんは日本に戻って仲の良い他のバンドのメンバーたちとプロジェクトを組み、タゴさんはそれ以外にもアートの活動を始めたようだった。  メディアで学の名前を見かけることがないと、まるで学は存在していないようだった。どこかでなんとか元気で幸せでいるよう願いたいのに、何故か静かに横たわって寝てばかりいる想像をしてしまう。ツクルに聞いた脳の機能の大部分が停止するという話しのせいか、たまに夢に出てくる学は、何も喋ることが出来ない。  そしてあれから数ヶ月が経ったある日、あの時のように突然ツクルから電話がかかってきた。 「実はですねえ、しいちゃんのこと。今、死んだって話しになってるんです」  いつの間にか自分が死んだということになっているということに、不思議と抵抗がなかった。むしろ、学の中でそうなったことに、妙な安心感があった。どうやら、学の症状の経過を見てツクルと森さんで話し合った結果、そういうことにした方がいいという結論に達したらしい。学はとても悲しんだというが、友人の死を一生懸命に受け入れようとはしているという。時間はかかるだろうが、何らかの前進にはなるだろうと話したツクルは、少し元気がなかった。学の意識の中でとはいえ、しいちゃんを救えなかったことを悔やんでくれているのだろうか。ツクルはあれで案外気にしてしまうたちだと思うので、その決断を間違っていないと思うと伝えて、しっかりと労った。  森さんは、学の側にいるのは自分一人で充分だと思っていそうなので、しいちゃんが消えてくれてやりやすいと思っていることだろう。  もしも今後の学の症状の経過によっては、死んだこともなかったことにするかもしれないという。この世界のどこかで自分が死んだことになったり生き返ったりしているのは変な感じだったが、学のためになるなら好きにして下さいと伝えた。もう会うことがないのなら、どちらでも同じことだ。それなら、学にとって都合のいい方にしておいてくれてかまわない。  そしてそれからさらに時の過ぎたころ。不思議な贈り物があった。ひとつは、未散からだ。前から描いていた学の絵が完成したが、贈るはずだった学も森さんも近くにはいないので俺に受け取って欲しいということだった。無神経な行為でないか心配だと手紙に書かれていて、「とんでもない」と思わずその場で呟いてしまった。それは油絵で、学が浜辺を歩いている絵だ。学は額のあたりに手を添え、風でなびく髪を邪魔そうにはらっているようにも、日差しを避けようとしているようにも見える。ゆったりとした白い服が風で学の体にまとわりついて、華奢な体のかたちを浮かべていた。淡い色遣いがとても綺麗だ。すぐに、未散にお礼の電話をした。  それからほんの数日後、今度はツクルから封筒が届いた。手紙には、学がようやく親友の死に向き合うようになったというようなことが書かれていた。そして、学はまず「しいちゃんとの思い出」と言って、一緒に海に行ったときのことを絵に描いたという。その絵が同封されていた。それが、おかしなことに、あの未散の絵に酷似していたのだ。学のポーズや服の皺の付き方はよく似ているという程度だが、砂浜にかかる波のラインが未散の描いた絵のものと端から端までぴったり一致していた。おそらく、未散の描いたものが写真の模写で、学の描いたものは、その写真の記憶を頼りにして描いたものだろう。学は昔から、遠足に行ったあとの思い出を画用紙に描くと建物の窓の数を正確に覚えていたり、教室の絵を描いたときに並んでいた本の背表紙までそっくりそのまま絵にしたことがあったり、そういうふうに局部的に驚異的な記憶力をみせることがあった。  だけど、学の描いたその絵には決定的におかしなところがあった。「しいちゃんと海に行った思い出」の絵のはずなのに、学がもう大人であること、もう一つはそのとなりに大人になった自分も描かれていたことだ。絵の中の自分は、あの再会をした春の日とまったく同じ格好をしていた。ご丁寧に、首にかけたタオルにヤマガミ工務店の文字らしきものも書かれている。  自分と学が一緒に海にいったのは小学校に入ったばかりのころなので、この絵は思い出でもなんでもないことになる。それでも、その絵からはおそろしいほどの執着心みたいなものを感じた。未だにあの春の始めに会ったときのことを、悪夢にでも見るのだろうか。それとも、忘れたくないのだろうか。どちらにせよ、学が完全にしいちゃんを忘れることは出来ないのだろう。  まあ、それはこちらも同じだ。  それにしても面白いことに、絵の中の自分は、学より半歩ほど前を歩いて学に向かって手を差し伸べている。それを見るとしみじみ思うが、学にとって、しいちゃんだけが世界の全てだったこともあったのだろう。未だにその思い出にすがることがあるというのは、学が自立出来ていないことの証拠ではあったが、学の生い立ちを思うと同情するしかなかった。もしも子ども時代のその経験が今の学を作ってしまったとしても、仕方無い。もうどうしようもないこと。  少し悩んだが、その絵は送り返すことにした。手元に持っていたくなかったわけではなくて、自分よりも、学に必要なものの気がしたのだ。海辺のその絵の神々しいほどの雰囲気の中で、自分の描かれ方に尋常でないものを感じる。もし辛い時にこの「思い出」にすがって楽になる夜が来るなら、そのときのために学の元にあったほうがいいだろう。学はもはや、自分に手をとってもらうことを必要としているわけではなく、学が作り上げてしまったしいちゃんに執着しているように思える。  そういうこともあるだろう。今の自分には、憐れにも羨ましくも思えなかった。学の人生は学のもので、ふつうの人と少し違っているかもしれないけれど、学にはそれが向いていたのだ。  学や森さん、皆がイギリスに行ってしまって、一人になってしまった未散をずっと気にかけ小まめに連絡をとっていたが、未散は去年から勉強を始めて美術大学を受験し、春からめでたく美大生になった。美大にはいろんな人がいて、友だちがたくさん出来て嬉しいと、くすぐったそうに電話で報告してくれた。一度、長期の休暇に滋賀まで来てくれて、人見知りをするはずのうちの娘とすぐに打ち解けて仲良くなった。娘も未散ちゃん、未散ちゃんと、幼稚園では見せたこともないような笑顔をみせてなついていて、未散が描いてくれた手作りの絵本を今でも毎晩読んでいる。  いいニュースばかりではない。妙な来訪者もあった。その男は弁護士だと名乗って、あの、屋敷の土地の権利関係について調査していると言った。自分はほんとうに何も知らなかったので追い返したが、その後で気になって少し調べてみると、どうやら表向き土地の権利関係を調査する一方で、あの老夫婦について、黒い噂を追っているようだった。弁護士というのは嘘で、マスコミ関係者だったのではないだろうか。今、思えば、老夫婦は桁外れな金持ちだった。ほんの少しの法律違反ぐらい出てきてもおかしくはないだろう。もう大人になって、大きくはないが一つの会社を持っている自分は、おかしいことには思わなかった。でも、このニュースがもう学の耳に入ることがないというのは心から安堵する。  繊細な学は、そんなことを聞いてしまったら、きっとひどく傷ついたろう。  自分は、相変わらずだ。朝には妻の作った飯を食べ、昼には親父からもらった仕事をして、夜には娘と遊ぶ。たまに、あの学に振り回された数日間のことを思い出す。イギリスの夕陽、病院で遊ぶ白人の子ども、アーティチョークのメンバー、未散のアトリエ、そして、静かなのにきらきらしていて魅力的だったスティル・オブ・ザ・ナイト。すべてがむかし遊んだおもちゃのように愛らしくて切なく懐かしい。そして、気づいた。もう、学との思い出にとりつかれてはいないことに。
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