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雑炊を食べ終わると、気の抜けたような時間が訪れた。
修一と関口はソファに移り、好きなものを飲みながら映画の話などをしている。
「美紗緒姉ちゃん、ちょっといい?」
「なに」
ダイニングテーブルでソーダを飲みながら携帯をいじっていた美紗緒は、明良が改まった顔で向かいの椅子に座ったのを見て、携帯を置いた。
「ん?」
「あの、この部屋のこと、ほんとにありがとう」
「もういいって、散々感謝されたよ」
「うん、でも何度でも言いたいくらいすごく感謝してるんだ」
「まあ、修一にあそこまで真剣になられちゃ、こっちもそれなりに応えないとねえ」
「……え?」
「提案したのはあたしだけどさ、場所とか間取りとかその他もろもろの条件を出してきたのはアイツだからね。自分はいいから、誰かさんのために通いやすい場所にしてくれとか?」
そう言うと、明良は一瞬泣きそうな顔をした。この顔が以前は憎らしかったけれど、今はいじらしいとすら思う。この顔が見られるなら多少の負担も面倒もいとわない、という修一の気持ちが分かる気がして美紗緒は苦笑した。危ない危ない、自分にそっちの気はないんだ。……いや、明良は男だから別に普通なのか、などと微妙に混乱していると、明良は姿勢を正して深く頭を下げながらもう一度お礼の言葉を言った。
「だから、礼なら修一に言いなって」
「うん。でも美紗緒姉ちゃんには他のことも感謝してるから」
「え?」
「オレが今こうやって兄さんと一緒にいられるのは、美紗緒姉ちゃんのおかげだと思うから」
かすかに明良の声が震える。ああ、と美紗緒は思った。明良は修一から多分すべて聞いたのだろう。最後の最後に自分が修一の背中を押したこと、両親も友人も知らないこの兄弟の秘密を自分だけが共有し、最後まで見届けると誓ったことを。
「美紗緒姉ちゃんが知ってくれてる。それがどんなにありがたいことか、身に染みて感じてるんだ」
美紗緒は黙って従弟を見つめた。修一とはあまりにも違う繊細な容貌と細い身体。そのどこにこれほどの情熱が潜んでいるのかと今でも驚くことがある。けれどその情熱にこそ美紗緒は魅了されたのだ。憧れは時に嫉妬に変わることもあるが、その逆もあるのだ。
「もう分かったよ、皆まで言うなって。――で? もうすぐ春休み終わりでしょ。修一とどっか行ったの?」
「そんな、オレはここで兄さんと過ごせるだけで十分すぎるくらいだよ」
「まあ健気なことで。でもさ、デートくらいしたらいいじゃん」
「えっ」
「いや、そんな驚くことないでしょ。え、まさかデートしたことないとか言わないよね」
「それは……、でも京都行ったときもオレが無理やりついてったし、兄さん怒らせちゃったし、あ、でもこの部屋を初めて見せてくれたときに代々木公園に行ったよ、ちょこっと居ただけだけど……」
何を思い出したのか、明良はちょっと顔を曇らせ、そのあと恥ずかしそうに独りで笑った。女子中学生か。
「誘いなさい。いますぐ」
「え、どうやって」
「デート連れてってって言えばいいじゃん」
「でも」
「ん?」
「……迷惑かも」
「あのねえ」
美紗緒はため息とともに額に手を置いた。
「男が好きな子から誘われて迷惑なワケないでしょ。なんなら車貸すから。一日思いっきり遊んで来い。あんたはちょっと遊ばないとダメだわ」
「え、兄さんて運転するの?」
美紗緒は絶句した。この兄弟はどうなってるのだ。普段一体何を話しているのかまったく想像がつかなくなってきた。
「――当たり前でしょーが、営業やってんだから」
「あ、そっか、……カッコいいだろうな」
俯いてはにかむ明良に美紗緒はイラっとして、同時にときめく。
美しさと可憐さにますます拍車がかかっている。
これじゃあ修一も気が気じゃないだろう。
なるほど、いよいよ囲い込みに入ったということか。
関口から、明良がなんだか時々寂しそうに見えると聞いて、二人暮らしを提案したのは自分だが、物件探しはむしろ修一の方が熱心だった。熱心すぎるくらいだった。美紗緒はその理由をやっと今、本当に知った気がした。
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