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何をしたわけでもないのに疲れた気分で兄弟の新居を辞去したあと、美紗緒は関口とともにパーキングへと向かった。鍋で温まった分、行きよりは寒さを感じない。キーでロックを解除して運転席へ向かおうとした時、
「美紗緒さん」
初めて名前で呼ばれた。今までずっと「紅野さん」だったので、さすがに美紗緒も驚いて立ち止まった。
「俺、今日すごく楽しかったです。鍋もうまかったけど、それ以上に雰囲気が良くて、すげえ心地よくて。澤野先輩とお兄さんがほんとに仲良くて、ああ、いいなあって思ったんです」
「うん、そうだね」
「俺、実はすごい心配してて、あの……澤野先輩のこと、あの頃本当に辛そうだったから、また独りで――」
「うん」
美紗緒は両手をコートのポケットに入れて、なんとなく俯いた。
去年の夏、明良は自ら消えようとした。修一を苦しめることに耐えられなくなって、修一の前から永遠に消えようとしたのだ。
「でも今日あの二人見て、すごく安心しました。俺なんかが言うのは変だけど、きっともう大丈夫だなって、そんな気がして」
嘘のない言葉が嬉しくて、美紗緒は微笑んで頷いた。
その顔を見て、関口がまぶしそうな顔をする。
「美紗緒さんにも俺、そうやって笑ってて欲しいです。ずっと見てきました。選手だった頃、思うように結果が出なくて苦しそうだった時も、あ、これはテレビで見ただけですけど。それでそのあと澤野先輩に紹介してもらって、こうやってお話しできるようになってからもずっと見てきました。あなたはすごく素敵な人です。クールに見えるけど、すごくあったかい人です。俺にとって、すごく大切な人です。あのお兄さんが澤野先輩のこと見守ってるみたいに、先輩がお兄さんのこと誇りに思っているみたいに、俺はあなたを見ていたい、だから、あの、」
関口は美紗緒から二歩下がり、初めて会ったときと同じようにバッと大きな身体を九十度に曲げて、こちらに手を伸ばした。
「大好きです! つきあってください!!」
時が一気にあの日に巻き戻った。
その時も同じ姿勢で、関口は美紗緒にまっすぐに手を伸ばしてくれたのだった。
『俺、あの、関口って言います。小学校から水泳やってて、あ、今は写真部なんすけど、紅野さんの活躍すごい見てて、そしたら澤野先輩が従姉だって、あの、つまり、すげえファンですッ』
握手に応じると、顔を真っ赤にして喜んでいた。ひと目でその善良さが分かる青年だった。
その頃自分は長い間修一に片思いをしていて、修一以外目に入っていなかった。明良を疎ましく思って意地悪をしたこともある。そんな自分が惨めで情けなくて嫌いだった。だからそんな風に想ってもらうことがむしろ苦痛だったのだ。
けれど今はあの頃ほど自分が嫌いではない。自分自身や他人にいつも向けていたシニカルな視線もずいぶん鳴りを潜めた。
そのどっちの時にも関口は変わらずにそばにいた。柔軟でありながらブレない。結局はそれが一番強いのかもしれない。
自分はこの告白をどう感じただろうかと美紗緒は思った。
そしてすぐに、嬉しい、と思った。
自分にはあの二人みたいな激しい恋はできないし、きっと似合わない。
けれどそれでいいと思う。関口といる時、気づけば笑っていた。そういえば今日、帰り際に明良にも指摘された。曰く「美紗緒姉ちゃん、なんか感じ変わったね。すごく優しい」とのことだ。よく聞けば失礼な話だが、素直な褒め言葉なのだろう、…多分。
関口の隣にいると、いつも自分が少しだけ優しくなる気がする。悪くない感覚だった。これも一つの幸せかと思う。いや、きっとこれが、一番の幸せなのだ。こんな上等な男に愛してもらえるという幸せ。
美紗緒は一つ深く息を吸うと、手を伸ばしてしっかりと関口の手を握り返した。
「はい、よろしくお願いします」
その途端ヒャッとおかしな声がして、握った手が大きく跳ねた。
美紗緒は目を丸くし、それからまた優しい気持ちになって、小さく笑った。
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