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その時、僕は久しぶりの風呂でうれしかったものの、飯らしい飯を食っていなかった事もあり、9歳と言う年齢なりに「のぼせないかな?」という思いが頭をよぎっていた。
案の定、近所の幼なじみらと一緒に「福の湯」に向かい、湯に浸かったまでは良かったが、上がって服を着始めたと同時に意識が遠のき、板敷の床に大の字で伸びてしまう。
そうした経緯もあり「福の湯」のおばちゃんが、床に伏せっている状態の母と二人暮らしの僕を不憫に思い、倒れた翌日からおばちゃんの所で夕食を食べられるよう、取りはからってくれた。
その時分、幼なじみの高木俊之一家が、時折、おかずなどを持って来てくれる以外、全うな食事とは縁がなかった。
よって、飯を提供してくれるというふってわいたような幸運に嬉しくて仕方がなかったのだが、元々、寂しい境遇という事もあり、おばちゃんにもひと言「有難う」と礼を言うのが精一杯だった。
おばちゃんは、自身が銭湯、旦那さんが印刷工場を経営しているという、毎日、目の回るような忙しさの中、生きている人だった。
おばちゃんは早めに工場の工員8名の夕食の準備に取り掛かり、仕上げた後、銭湯の方の仕事に移る。
よって、夕食は工員8名と旦那さんと自分の計10人で取るのが常だった。
「おっ、坊主いる、いる。どうだった、学校は?」
「全く!そんな事、今、子供に聞くなよ。これから楽しい飯なんだからさ。
今日はカレーか。これが又うまいんだよな」
「道夫君、はい。カレー大盛りな。たくさん食べるんだぞ」
工員さんは皆いい人達で、僕は、兄貴とも言える工員達と共に、日々、楽しい夕食の時間を持つことが出来た。
終戦の翌年に生まれた僕は、あたり一面ぶち壊された日本の風景がまざまざと記憶に残っていると言う訳ではなかった。
しかし工員さん達の中には、命からがら戦火の中をくぐり抜けて来た人もおり、
子供ながらに、その横顔に、何か見てはいけないものを見てしまったような思いを抱いたものだった。
その人は高橋さんという工員だった。
東京大空襲で、両親、兄弟の家族6人を失ったという高橋さんは、他の工員の様に軽口を叩く事もなく極めて寡黙な人だった。
そんな高橋さんではあったが、夕飯時、席が隣り合わせになると、決まって
「おなか空いたね」
とはにかみながら言ってくれ、それだけで同じ釜の飯を食べた者同士として認めあえた気がした。
今思えば、その一言で、ただでさえ美味しいおばちゃんの料理が、より一層、美味しく感じられたように思う。
高橋さんは僕が育ち盛りと言う事もあり、トンカツや唐揚げの時には、気前よく自分のおかずを、二つ三つ、僕の皿に分け与えてくれた。
ー高橋さん、今、どこで何してますか?僕は、神学校を出て、横浜で牧師としての職に就いていますー
ーそして時々、高橋さんの整った寂しげな横顔を思い出して、おばちゃんの美味しい料理に皆で舌鼓を打っていた時代に思いをはせていますー
又、高橋さんの「おなか空いたね」が聞きたい。
それは無理な相談だな…と思いつつ、僕は、今日の講話の大筋をまとめ上げ、会衆らが待つ礼拝堂へと出ていった。
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