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雨が降り出した。
佐藤佳苗はレインコートのフードをかぶる。横殴りの風が吹き付けて、濡れたナイロンが左頬へ冷たくあたる。
台風が近づいているのも知っていたが、故郷の稲香町へ帰ってくるしかなかった。
強くなりだす風に、足元をすくわれないように、ローヒールの靴をゆっくりすすめる。歩道は水が溜まる場所もあるが、避ける気力はない。
佳苗が稲香町を出て美容師になり、店を持つまでは良かった。
(向いてなかったのかなー)
自分のお客様というのをつかめなかった。それでも、店を経営したのだ。
(うぬぼれてた。たかが25歳で店を持つなんて。先生にも助言されたんだ)
親の援助もあり、オープンにこぎつけたが、友達からも言われてる「気が強い喋り方」が裏目にでたらしい。
(噂好きな女性起業社長を怒らしてしまったんだ。分かってるのにねー)
女性は、嫌いになったら、とことん嫌いになるのは知っている。噂が広まり、お客様も来なくなる。たった半年で閉店だ。人間関係、とくに商売すると、むつかしいことだらけだ。
(もう良いか。前向きな性格だと言ってたな翔太は)
鈴木翔太と高校生の頃付き合っていたが、「東京に行くから」と別れてしまった。連絡もしない絶交みたいな喧嘩別れ。やはり気が強いというか、甘え下手であまのじゃく。遠距離恋愛はしたくなかった。
初体験はそのあと、良い格好しいのつまらない男。店を持つ夢の邪魔ばかりするので、すぐに別れた。
稲妻が銀色の雨粒を照らす。
佳苗は現実に戻る。
(ちょっと行ってみるか)
実家へ戻る前に、翔太の祖母が経営してた食堂が近くなのを思いだす。台風の風も強くなる中で、レインコートはあまりにも寒い。毛糸のセーターをつけても、心の寒さはしのげない。
「翔太。匂いでもかすかに感じさせて」
つぶやくのは、まだ恋心はあるのだろう。会ってはくれないと思うが、片想いならいいはず。
(愛して欲しいとは言えない。あの人の近くに居たい。ただそれだけ)
「優しくて親切な、佳苗さんが好きだ」
そう言ってたのは高校のころから。そんなに悪い気はしないし、付き合ったのだが、最初から、優しくて親切か分からないでしょ、と何回も言った。褒めれば良いと思っている男なんだ、たぶん。身体を許してない、ちょっとした引っ掛かりは、自分の幻想をみていると思ったから。
角を曲がると向かい風。雨のせいかぼやける視界。フードを指で支える。仕事で大切な指も、手入れをしなくなったが、爪が伸びすぎたのに気づいた。
時の流れで町も変わったのだろう、食堂の場所に、鈴木居酒屋と看板はあるが、重そうな鉄のドアで閉まっていた。やはり台風接近のためだ。
軒先で思いにふけるつもりで壁にもたれる。渦巻く風がスカートをはためかせるが、雨は凌げる。店は変わったが、ここで幾度も翔太と軽いハグはした。それはしあわせと呼べるのだろうと気づく。
走る靴音、スニーカーか。
小学生ぐらいの子供が軒下へ走ってきた。
「こんな日に、どうしたの」
大人の変なやつなら、蹴っ飛ばすつもりだったが、さすがに子供へは対応もかわる。
「ここどこ。どうなってるの」
犬みたいに息を吐きながら喋る少年。何かわけがわからないことをいうし、半ズボンにTシャツはないだろう。
「鈴木居酒屋、だったかな。その軒下。落ち着いて」
頬がぽっちゃりとふくらんだ少年はパニックになっているらしい。
「なんで。急に、雨だ。風が」
「落ち着いてってば」
少年の両手を、あやすように引き寄せる。彼が震えているのも伝わる。
「濡れちゃったね。拭いてあげるから」
タオルはない。ショルダーバッグを外して、セーターを脱ぐ。雨がなんとか、風がつめたいなどと言ってられない。
腰を落として、同じ目線になり、セーターで少年の身体を巻く。こするより、まず水分を吸収させるのだ。
少しは落ち着いたように佳苗をみつめる。ちょっと長めの前髪から滴る雫は雨のせい。
「自分で拭いて」
セーターを渡すと、ショルダーバッグから木綿のハンカチを取り出す。
ハンカチで少年の髪を包み、水分を取ると、柔らかく、すくうように頭皮から少年の髪を撫でる。
「お姉ちゃん。泣いてるの」
落ち着いたのか、少年が見つめて言う。そうか、瞳がぼやけたりするのは、雨のせいばかりじゃなかった。
「お姉ちゃんは失敗しちゃってね。でも大丈夫よ。坊やも嵐の中で遊ぶなんてさ。あまり無茶はしないの」
自分自身にも、無謀なことをするなと言っている。
「天気は良かったよ。何かが光ったとたんに、急に雨が降ったんだ」
ちょっと、言うことがおかしい。昨日から曇っている。いまは雷が合唱を始めてもいる。
「大丈夫。お姉ちゃんが、坊やのうちの人に話してあげるから。お家は近いのかなー、覚えている? 」
少年はハンカチを右手に持ったまま、言う。
「ここの二階。ここは食堂なんだ。なんで消えたの」
「そうねー」
確かにそうだ。佳苗が東京に行くときも居酒屋ではなかった。幼いころの記憶しかないらしい少年。
「覚えてないのね。いいよ、お姉ちゃんが一緒に、ついていってあげる」
記憶喪失かなにかだろう。
少なくとも、こういう天気で外に子供を出すものではない。保護者責任を放棄したのか親は。
嵐の日に、小学生を外で遊ばせる親へ、ひとこと言いたい。「鈴木」とついているから経営者は翔太の関係者と思う。
「この子は翔太の従兄弟か甥かな」
話す口実もできたと、なぜか会うのを期待もして呟く。しばらくは、叶わない恋でもしていたほうが、生きていけるはず。
「えっ。しょーたが何? 」
少年が驚いたように言う。
「いいのよ。シャッターは閉まってないから、中に人はいるはず」
セーターを少年から受け取り、ショルダーバッグとレインコートを小脇に挟む。
「大丈夫。任せて。坊やをほったらかした人たちへ、文句を言ってあげる」
立ち上がりドアに向かって立つ。
稲光が近くで輝いてドアが光る。
雷が鳴った、耳が震えるほど近い。これは、落ちた。
「大丈夫だからね」
少年へ振り返ると、居ない。驚いて道へ飛び出してないか。
「まさか、雷に」
雨の中へでた。乾きかけた全身を雨が打つ。レインコートもセーターも脱いだ肌にあたる風は冷たい。それより。
「坊や、どこ」
ちょっと大きな声で呼んでみた。
歩道を打ち付ける雨が弾いているが、人影も見えない。
「そんなに遠くまでは行けないはず」
あたりを見回す。
(近くの子なら。知っているか、ここの人は)
鈴木居酒屋が開いているなら、聞いたほうが早い。
重そうな鉄製のドアに取っ手がある。ノブを回してみると、鍵はかかってない。
風で押されるが、両手で引っ張って中へ入った。
人が動く気配はする。
「小学生が居たんですが。ちょっと尋ねたくて」
「待ってたよ、佳苗さん」
聞き覚えのあるような声。ドアを離して、振り返る。
お多福顔の男が椅子に座っていた。
「翔太さん。なんで」
風でドアが音をたてて閉まるが、それは重要でもない。
「分かってたよ。まずは見てごらん」
翔太は立ち上がって、大きな本というか、アルバム帳を手にしている。
「それより。外に小学生がいたから。急にいなくなって」
「それな。もう帰ったから」
いつも分かったようなことを言う2歳上の元彼。頼れる部分と、余計なお世話と反発するときもあった。かなり我儘もしたと思う。
離れたカウンター席からも、ちゃんと戻ってきたわよ、と声がする。翔太の母と父なのは、会ったこともあるからわかる。
なにかおかしい。ここは話を聞いてみよう。
「何を見せようと。アルバムみたいだけど」
テーブルに置いたアルバムを翔太がめくる。
「あっ。この子。外に居た。早いっ。いつ写したの」
「俺が小学生のとき。急に何かが光って、雨が降ったんだ。いまさき話したの、覚えているんじゃないか」
「へっ。そんなSFかファンタジーみたいな」
「現実だよ。だから言っただろ。佳苗さんは優しくて親切だと」
やっと信じたかというように微笑む。
「うん。それなら、しかたないか」
ほかに言い方もないのかとも思うが探せない。少なくとも、翔太へ気がかりだったものは消えた。
あの小学生は、3年生か4年生だと思う。佳苗が高校生で大人の兆候もでてから、へんに親しそうに近づいてきた男が翔太だ。
あのお姉ちゃんだ、と確信したと説明する。
「俺の初恋だった、あの出会いは」
それで、待っていたと。時間跳躍とか移動だと疑問も残るが、現実に空想の科学は勝てない。
翔太の父も近くにくる。母がドアを開けると、ハンカチを拾って持ってきた。やはり、経緯をしっているから、ハンカチのこともわかるのだろう。
佳苗の父とは釣り仲間で、佳苗が帰ってくることを知ったらしい。それに、台風接近。
「あの日は、今日だ」と予想したようだ。
家族で出迎えたかっこうらしい。
「突然、ずぶ濡れで帰ってきたから」
翔太の母が、祖父が面白がって写真をとったと話す。半信半疑だったが、なぞは解けたと納得する。
それでさ、と翔太は改まった口調。
「いまなら分かると思う。助けてくれてありがとう。それでさ。あのさ」
翔太にしては歯切れの悪い口調。
「なんなの。うん。私、分かった。翔太さんはずっと見守ってくれてたんだ。好きだよ」
やり直せたらやり直したい。そういう雰囲気だが、どうかなー。
翔太は何かを決めたように言う。
「佳苗さんっ。俺と結婚してください」
親を横にしてのプロポーズ。
無くしたのを補って、あまりある未来が始まった。
了
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