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第2章 家族の肖像
やがて会場スタッフが何かを設え始めた。
遺影に向かって左側に支柱が据えられ、白い布をかけられた板状のものが丁重に置かれた。ちょうど遺族席と反対の位置だ。再び会場が騒めき始めるが、妻の佳澄は落ち着いたものだった。どうやら承知の上らしい。
「あれは絵か?」
「遺言状が絵とは、三船さんも歳のわりに洒落た真似を……」
人々が口々に囁く中、スタッフがひと息に白布を取り払う。
刹那、広い会場にどよめきが走った。前の席の客は身を乗り出し、後ろの席の中には立ち上がる人すら見える。人々の興奮を抑えるように、堤の冷静な声が響いた。
「もちろん我が国の法律では、絵画は遺言状足り得ません。これはあくまで、皆さまに最後の絵をご覧いただきたいという故人の希望でございます。正式な遺言状は私がお預かりしておりますので、今からこの場で読み上げ……」
「あり得ないわ!」
滔々とした堤弁護士の言葉を遮って、甲高い声が響き渡った。会場中が水を打ったように静まり返る。誰もが固唾を飲んで見守る中で、妻の佳澄が立ち上がっていた。その顔は遠目でも判るほど、はっきりと蒼ざめている。
「あり得ない、とは?」
堤弁護士が慇懃に訊ねると、佳澄は般若のごとき様相で睨み返した。
「三船の遺志ですって!? これが三船の最後に描いた絵だと言うの!? 堤さん、あなたが『当日、お見せする絵がある』って言ってたのは、この絵のことなの!?」
「左様でございます。以前より三船様から、このとおりにするよう申しつけられておりました」
平然たる堤の返答に、今度は佳澄の顔が燃えるように上気する。
「何てことなの……! 私が……妻の私がいないじゃない!」
会場の空気が、まるで氷のようにかちりと固まった。
人の背丈を越える大きなキャンバスに描かれていたのは、親子四人が並んだ家族の肖像だった。言うまでもなく三船一家を描いたものだ。
前列には二人の子供が並んでいた。まだあどけない兄妹だ。より幼い妹の手をしっかりと握っている。三船自身は、後列に立っていた。いつもの仏頂面はどこへやら、かすかな笑みらしきものを浮かべている。その手は守るように息子の肩へ置かれていた。
だが会場の視線はまったく別の部分に集中していた。
その三船の左に、一人の若い女性が描かれていたのだ。若いと言っても三十過ぎぐらいだろうか。よく見ると三船自身もずいぶん若い頃の容貌だ。
「ありゃ、前の奧さんじゃないか?」
「今も昔も大層な年下妻で、三船さんも結構なもんだな」
今や遠慮のない詮索があちこちで囁かれ始める。
「三船の妻は私のはずです! なのに何でこんなものが今さら……! この絵は偽物です。三船の描いたものじゃありません!」
そう叫ぶや声を上げて泣き崩れる佳澄に、慌てて親族が駆け寄る。だが堤はちらりとその姿に目をくれるのみで、構わず言葉を続けた。
「私が故人から伺ったのは、公の席でこの絵と遺言状を公開すること、という一点に尽きます。なぜこの絵なのかという、ご家族の深い事情までは伺っておりません」
堤は冷静に言い放つと、胸のポケットからまっさらの白い封筒を取り出した。騒ついていた会場が一瞬で沈黙する。
「――では、故・三船源太郎氏の指示によって、遺言状を公開させていただきます。
一、すべての作品は、○○美術館へ寄贈する。但し、最後の作品である『家族の肖像』を除く
二、自宅の土地・家屋は、妻・佳澄に譲る。但し、本人が住む希望のある場合のみ……」
佳澄が息を呑んで顔を上げた。だが堤は躊躇なく読み進めていく。
「三、残るすべての現金資産、及び作品『家族の肖像』は、娘・美那子に委譲する
以上の手続きは、専任弁護士である堤正人氏によって……」
「認めないわっ!」
血を吐くような佳澄の叫び声が、満席の会場に烈々と響き渡った。
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