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次の日の朝、教室でランドセルの中を見た俺は、思わずうめいた。
「やばい」
国語の教科書がない。家の机に置いてきたらしい。
昨日は隣の列だったから、今日は俺の列が確実に当てられる。親はもう出勤したし、国語は一限だから、教科書を取りに帰ることもできない。
家で真面目に宿題なんか、するんじゃなかった。
「クウ、おはよ」
左から控えめな声がかかる。
振り向くと、美幸だった。彼女は昨日の帰り際が嘘のように、落ち着きはらって国語の教科書を差し出してくる。
「教科書使って。私はタブレットに教科書の写真があるから」
俺の返事を待たず、美幸は誰にも見つからないようサッと教科書を俺の机の上に置き、そのまま一番廊下側先頭のアキ――明奈の席へ行く。
その背中をぼんやり目で追うと、こっちを睨む明奈と視線が交差した。
明奈はすぐにフンと首を背け、美幸に何かを訴え始める。おおかた、自分にいつも貸してくれる教科書を他人に貸すとは何事だ、とか言ってるんだろう。
美幸の迷惑になると思ったものの、俺はそのまま美幸の教科書で一限の授業を受けた。タブレットで教科書を見ている美幸に、江藤先生は何も言わない。
昼休み後と同じくらい退屈な朝イチの国語なのに、今日はやたらと目が冴えている。先生の声はちっとも耳に入らないけれど。
美幸の教科書は少し開き癖があるだけで、キレイだった。ページの余白に漫画を描いたり、数字を無駄に塗ったりはゼロだ。
そう、美幸は教科書に落書きなんかしない。物を大切にする。
昨日の放課後の美幸は、まるで違っていた。
まじまじと見た詩の上、昨日の黒い塗りつぶしは、もうない。隠されていた「あなた」の文字色が若干薄いのと、周辺の鉛筆の跡だけが名残だ。
きっと、これは美幸の無言のメッセージだ。昨日は何もなかった、俺は何も見ていない。多分、初めて教科書を貸してくれたのは、親切心からだけじゃない。
半ば無意識に、右手の親指と中指とをすり合わせた。中指の絆創膏の感触が、俺に過去を主張する。
美幸が隠したがっている秘密は何だろう。鉛筆の跡をなぞり、復活した詩の冒頭部分をどれだけ眺めても、昨日の微笑みの理由も、彼女が「あなた」を消した理由も分からない。彼女は何を――
「──では次、空遠さん」
「ぅはいぃ!」
突然の指名。意識するよりも早く返事をして、俺は文字通り飛び上がるように席を立つ。
周りから驚きの視線を集める俺に、先生は教壇からニッコリと笑いかけた。
「元気な返事で結構です。では、その意気で音読をお願いします」
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