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山のあなたの空遠く
「幸」住むと人のいふ。
噫、われひとゝ尋めゆきて、
涙さしぐみ、かへりきぬ。
山のあなたになほ遠く
「幸」住むと人のいふ。
(海潮音 上田敏訳詩集 新潮文庫より)
俺の音読は酷かった。昨日の美幸とは月とすっぽん。美幸の音読が超高級クリームなら、俺のは母さんが焦がして鍋にこびり付いた砂糖だ。
でも、江藤先生には違って聞こえたらしい。
「懊悩がこもってるの、良いね」
オウノウって何だ?
宿題提出の時も、先生の反応は予想と違った。いつもはその場で漢字の直しや、内容が酷すぎるとやり直しが指示されるのに、俺の余白ばかりの提出プリントを見た先生は、少し考えてから小声で言った。
「空遠さん、明日は塾ないよね? 明日の放課後、先生の所に来てくれる?」
※ ※ ※
職員室に行った俺を待っていたのは、俺を見捨てて帰った大弥たちの予想したような、説教じゃなかった。
「――作者についての感想で良いじゃない。大体、指導方針はあるけど感想は個人のものよ。ただ、空遠さん中学受験予定でしょ? 本文への解釈は点数稼ぎの鉄則よ。で、普段ならその場で書き直しなんだけど、キミ最近とても悩んでいるみたいだから、どうしたのかなって」
どうやら、授業態度から色々と先生に心配されたらしい。
……言えるわけがない。隣の女子のことで頭がいっぱいだった、なんて。
「悩みは、別に」
「そう? ところで感想のお菓子って――」
先生が雑談のように話を続ける。するといつの間にか、友達への最近の戸惑いや、塾や勉強の悩み、色んな話題が口からスルスル出てきて、俺は先生と長く話し込むことになった。
ただ、美幸のことだけは言わなかった。
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