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同じ空の下
*
教室の窓を濡らす、大粒の雨。
くかぁと欠伸をしながらそんな雨の様子を見ていたら、教卓の前に立つ教師に、名を呼ばれる。
「雨野さん」
呆れた声である。
授業中、話を聞かない私に、毎度毎度声を掛けてくれるのだから、根性はあるのだろう。
否、ただただ自分の持つクラスの成績が下がるのは嫌なだけか。
そればかりは私にはわからないが、取り敢えず真面目に話を聞くフリをすることにした。
「今日描いてもらうのは、『家族の画』です。普段は反抗してばかりかもしれない皆さんですが、今日は少し、感謝の気持ちを持って絵を描きましょう」
流石は小学校教師である。
正しいことを正しいと教えるのが教師の仕事で、個人でどう思っているかなんて、そんなもの放り投げる。
感謝の気持ちなど、持とうと思って持つものじゃあない。
確かに私達は反抗期かもしれないが、だからこそ、感謝の気持ちなどそうそう持てるものでもない。
況してや、私は家族に無関心である。
自分のことで手一杯な人間に、他の人に感謝をしろと言われたとしても、それは無理な話だ。
自分のことしか考えない私は、家族のことなど端から眼中にない。
まぁ、授業としてその『家族の画』とやらを提出しなければならないというのなら、まぁ提出をしよう。
しかしそれには「面倒臭い」意外のなんの気持ちも籠もっていないし、それを提出したところで、だから何だという話なのだ。
そう考えると、またも欠伸が漏れる。
こんな梅雨時に、ジメジメした空気感で、よくみんなは真面目に授業を受けらもんだ。
感心ばかりでなく、もう尊敬さえしてしまうかもしれない。
私は筆箱から鉛筆を取り出す。
すると、見計らったように前の席から白紙が回されてくる。
机の大きさ程の画用紙で、そこに家族を描けという。
きっと先生は、温暖な空気感の画を期待していることだろう。
が、『家族の画』であれば何でもいいわけだ。誰も、「笑顔の絵」だとか「楽しい絵」だとかは言っていない。
真顔でも、喧嘩中でも、何でもいいわけだ。
皆席を立ち、仲の良い友達と絵を描き進める。
私は欠伸を噛みしめることに必死で、画用紙は未だに真っ白なまま。
鉛筆は握ってはいるものの、芯が紙と触れたことは未だ一秒もない。
(みんな何描いてんだろうな)
なんて少しは思ったが、大体予想はつく。
だから誰の絵も見ないし、見ようとも思わない。
自分に与えられたこの画用紙を、取り敢えず何かの絵で埋めることに専念した。
が、やはり何も描けない。
すると、私の席に向かって一人の女が向かって来た。
どこかの国と日本のハーフで、全体的に色素が薄い。
銀髪のあの頭は、誰が見ても日本人だとは思わない。
くりんと丸いあの青い目も、ふわりと揺れるあの綺麗な髪も、母親譲りだ。
「戦ー、何か描けてる?」
私は首を横に振った。
「眠い」
その返答に、クスッと笑って、隣の空いていた椅子に座る女子。
彼女の名は晴島玉乃。
私の唯一の友人と言える存在であるのだが、外見も性格も全くの正反対。
類は友を呼ぶとか、似た者同士は仲が良いだとか言うけれど、私達二人はそれの真逆を往く存在だ。
「玉乃は描いてんのか」
私が絵を覗き込もうとすると、彼女はバッと腕で隠した。
「ダメダメ。見せないからね」
「なんでだよ。下手なのはもう承知済みだから」
「ヒドすぎるじゃんそれは」
すいっと紙を奪い、中の絵を見る。
「あぁあっ!!」
焦ったように紙を奪い返そうとする玉乃だが、あの低身長が高身長の私から取り返せるはずもない。
「ほほーう。やっぱりお前、兄貴大好き人間だよな。流石はブラコン」
真顔でそれを言ってのけると、彼女はプンスカ頬を膨らませた。
「そういうと思ったから、見せたくなかったの」
絵には、母、父、玉乃の三人と、玉乃の兄の陽翔が描いてある。
父と母は二人で一輪の花を見つめているようだが、その後ろで玉乃と陽翔は手を繋いでニコニコ笑っている。
花畑にこの笑顔。
純粋な小学生らしい、というか、玉乃らしい作品だ。
「まぁ、大体こんなもんだと思ってた」
玉乃にシュパッと紙を奪い取られ、私は自分の画用紙を眺める。
「陽翔と私の兄貴、同い年で仲良かったよなぁ」
ふと、そんな独り言が漏れた。
ハッとしたときにはもう遅く、隣を見遣れば玉乃が真剣な眼差しでこちらを見つめている。
「やっぱり戦、翔くんいなくなって寂しいんだね」
翔くん。
翔。
雨野翔。
あの無愛想且つ不良気味な私の兄貴。
想像しただけで、一瞬にして心に霧がかかる。
考えないようにしていた。
考えれば、彼を憎んでしまいそうだったから。
だけど、やはり『家族の画』となると、彼も描かなければならないのだろうか。
悶々と思考を巡らせるも、毎日毎秒脳はお休みモードのため、答えは見つからない。
「じゃあ戦もブラコンじゃん」
玉乃は口を尖らせた。
先程のやり返しのつもりだろうか。
「別に、寂しかねぇよ。寧ろいなくて清々するくらい。あんなの、いたって毎日いらつくだけだし」
「ふぅん。まぁ、もう大学生だもんね」
「そー、そー。独り立ちの時期だしね」
鉛筆を指でくるりと回す。
が、勢い余ってコテンと机に落ちた。
その鉛筆を玉乃が拾い、大きな瞳で私を見つめてきた。
迫力があり、ついふいっと目を逸らしてしまう。
「本当にそう思ってる?」
賑やかな教室が、一時、しんと静まり返った気がした。
が、気がしただけだった。
私の頭に細い針が刺さるように、その言葉はスッと入ってきた。
「嘘言ってるとでも思ってんのかよ」
いつも通りに答えたつもりだったが、彼女はあの迫力満点の顔で私を見つめてくる。
だが、数秒後にはいつもの笑顔に戻って、
「そっか」
と鉛筆を私の手に握らせた。
結局その時間、私の画用紙は常に白かった。
心にかかった霧も欠伸で誤魔化して、気にしないことにした。
玉乃のあの顔は、今まではあまり見たことがない。
だからなのか、頭に刺さったあの細い針はなかなか抜けない。
次の国語の時間も、ぼうっと窓の外を眺めていた。
図工の時間より、雷の数も、雨の量も増えた気がする。
ここは三階だから下はあまり見えないけれど、この雨じゃ、浸水し兼ねない。
あまり心配という感情を抱く人柄ではないから、そこは全く気にしていないが、帰り道でスニーカーがびしょびしょになるのは避けたい。
ポジティブなのかネガティブなのか、自分でも少しわからなくなったなぁ、なんて思って欠伸をしたら、またも先生に名を呼ばれた。
*
教科書を一人で読ませられる、という、晒し首か公開処刑かわからない、どちらかを強いられ、無事着席した頃には眠気は覚めていた。
軽く十ページはある物語文を音読させられ、読む方はこうもつかれるが、もし私が聞く方だったら、秒で寝ているだろうと無駄に自分を客観的に見た。
私が着席した頃丁度、リズミカルな音とともに、全国放送が流れた。
授業中に放送が流れるなど、緊急事態しかないのだが、どうしたのだろうと皆が耳を傾ける。
「只今、大雨により、一階が浸水しかけています。危険なので、全員体育館に避難しましょう。繰り返します____」
浸水。
先程適当に考えていたことだった。
三階ならあまり心配はいらないものの、一階の少しだけでも浸水したとなると、それは大変だ。
下校も難になるし、それに、町全体が避難指示を出すこととなる。
避難指示が出されると、勿論どこかへ避難しなければならない。
それは私からして、「面倒臭い」以外の何でもなかった。
(正直、教室でも良くないか)
とも思った。
が、それだと毛布や食料などの配給が大変なことや、人がいるかいないかなどの確認が困難な状況に陥るため、皆が体育館へ避難になったのだろう。
国語の教科書を閉じ、至急ランドセルを用意し、皆で体育館へ直行した。
その際体育館への路では、生徒たちがざわざわと話していた。
「避難、する必要ある?」
誰かが独り言のように言った。
それに対して、玉乃は私の隣で声を上げた。
「うーん、まぁ、一階だったら浸水しちゃうから絶対避難しなきゃだめだよね。二階より上になると、浸水自体はないだろうけど、この学校は山の近くにあるから、土砂災害とかが起きちゃうと危ないんだよね。土石流とか、ピンポイントでここ当たるよ、多分」
「へぇー」と興味深そうに頷くクラスメイトだが、私は白い目で玉乃を見た。
「何その目」
玉乃はぷすっとまた頬を膨らませる。
「否、玉乃がそんなこと知ってるなんて、もう今日みんな土石流で死ぬんじゃない?」
私が単刀直入に言うと、軽い拳でポコポコ玉乃が私を叩いてくる。
「ヒドいっ、ヒドいよっー!!」
「だって万年テスト平均点以下じゃん」
「否定しないけどヒドいよっ!!」
そんなことを話していると、体育館へついた。
一度クラスごとに整列し、人数確認。
それで避難したことが証明されると、体育館の段ボールで分けられた個室のようなところへ向かう。
一部屋の広さは、二人が座って少し余裕があるくらいの広さ。
決して広いとは言えない。
私は、玉乃と二人で部屋に入ることにした。
部屋に入るとすぐ、玉乃の携帯が震えた。
「あ、お兄ちゃん、今ここ向かってるって」
「あれ?陽翔、大学は?」
「今日は大雨で休みだったんだよ」
「あぁ、なるほどね」
玉乃と陽翔は10歳差の兄妹だ。
そんなに年が離れていようと、仲は途轍もなくいい。
大人っぽい顔立ちの玉乃は、陽翔と歩いているのを見ると、年の差カップルに見えなくもない。
腕を組んで歩いたり、ひとつの買い物袋を二人で一緒に持ったり、本当に恋人同士のようだ。
(前それ言ったら変な空気感になっちまったから、もう言わないけど)
私とて、反省はするのである。
冗談で「お前らカップルかよ」と言ったはざだったが、ふたりとも黙り込み、物凄く変な空気感になった。
あのときの衝撃と気まずさは今でも忘れない。多分、一生忘れない。
*
「あ、来た来たっー!」
大きく玉乃が手を振る相手は、低身長な茶髪の男性。
にこりと微笑むときの顔や、あの陽気さは確かによく玉乃と似ている。
彼こそが玉乃の兄、晴島陽翔である。
あの茶髪は染めているわけではなく、もとから色素が薄いため、こうなったのだ。
やはり顔立ちは言わずとも整っており、この三人でひとつの部屋にいるとなると、周りからの視線が痛い。
美女と美男子に囲まれるこの私の居た堪れなさ。
味わってみないとわからないこの恥ずかしさ。
居心地悪いにも程がある。
居心地が悪いのは、美男美女というだけではない。
ふたりはなんやかんや仲の良すぎる兄妹だ。
ただ、少し度が過ぎることもあるかもしれない。
兄妹とは、こういうものなのか。
頬を染め合って話す仲なのか。
私にはわからんが、まぁ、私達兄妹のように、仲が悪すぎるよりはマシであろう。
「雨どんなだった?」
玉乃が陽翔に聞いた。
「凄かったよ。下も大分浸かってた」
「ひぇー……。もう浸かってるんだぁ」
「今日帰れねぇじゃねぇか」
「帰らずにこのまま避難体制でいろってことでしょ?」
「面倒臭」
ざわざわと騒がしい体育館内。
もとから雨で湿り気の多く、良い気分ではなかったが、それにこの大勢の人が集まり、さらに気分は悪くなる。
「騒がしいなぁ」
思わずそうつぶやくと、陽翔が笑った。
「戦ちゃん、人の多いところ苦手だもんね」
「そうそ」
「……ペットボトルとか毛布とか、配給してるらしいから、取りに行こっか」
陽翔が立ち上がろうとするが、私は止めた。
「いい。一人で行くよ」
それには二人もわかった、と頷き、私を見送った。
配給所は二箇所あり、どちらもあまり人がいなかった。
飲み物などは大抵みんな持参しているし、毛布は、そんなに寒い時期でもないため、必要ないからだ。
体育館のガヤガヤ感から抜け出し、スーッと大きく息を吸う。
(雨だからか、深呼吸で心が軽くならない)
心の霧を晴らすためには、寝るか深呼吸だと思っていた。
別に、そんなに深追いしたりするような霧じゃないはずなのに、霧は全く消えてくれない。
しかし、霧とは普通、時間が経てば自然消滅するものだ。放っておいたらどうせ自分は、違うものに夢中になっているに違いない。
ペットボトル三本と、毛布三枚を持ってもとの場所へ戻る。
「雨野さん」
聞き慣れた声がして、振り返ると、そこにはあの担任がいた。
「何か用ですか」
早く帰りたい、と内心思いながらも、一応ちらりと担任を見る。
と、「ハイ」と手渡された一切れの紙。
両手が塞がっているが、腕で荷物を抑え、それを受け取る。
「なんですかこれ」
「避難所の受付で渡されました。言伝じゃないでしょうか」
「誰?」
「名前は知りませんが、若い男の人でしたよ。避難所の受付したので、多分体育館内にいると思います」
「はぁい」
適当に返事しながら、個室へ戻る。
二つ折りにされた横長の紙切れを右手に握り、帰ると、玉乃と陽翔の二人は不思議そうにそれを見つめた。
「なにそれ?」
「私も知らん」
そう言いながら胡座で座り込み、ペラっと髪をめくる。
「は」
それが感想であった。
書かれた内容は、
『同じ空の下』。
跳ねの多い刺々した、まるで書き手の性格を表すような字。
紙の右端には「翔」と書かれている。
翔。
雨野翔。
私の兄。
もう何年も何年も会っていない。
顔も見ていない。
声も聞いていない。
彼が今、どこで何をしているのかも知らない。
そんな彼が、この言伝を書き、この場にいると言う。
頭の中は整理が付かず、ごちゃごちゃになる。
心は霧どころか大嵐。
まるで今の天気のようだった。
「え、翔から?なんで??」
陽翔も目を丸くしている。
彼は翔の連絡先は知っているものの、返信は愚か、既読すらもつかないらしい。
また、同学年の幼馴染ともあるのだが、彼の行方は知らない。
ふと、嫌な思い出が頭をよぎる。
私が幼い頃、翔が家出をしたときの思い出だ。
それを振り払うように、瞼を閉じて首を振り、紙を閉じる。
「あいつもどうやらここにいるらしい。文面の意味は兎も角、私はあいつに絶対に会いたくねぇからな。こっから動かねぇ」
腕を組んで段ボールの壁に背を預ける。
二人はそんな私の様子を、心配そうな目で見つめる。
「翔くん、この辺りに家出してたのかなぁ」
玉乃がいつも通りの間抜けな声でそう言った。
ふと彼女を見れば、その目はあの、頭に細い針が突き刺さるような目だ。
「……そうなんじゃねぇの」
私は立ち上がって彼女から目線を外す。
「どっかいくの?」
陽翔に聞かれ、首を縦に振る。
「ちょっと気分転換に散歩でも」
なにか言いたそうな二人だったが、特に何も言わず、というか、私が背を向けて何も言わせず、私と彼らは行動を別にした。
*
気分転換のはずだった。
否確かに、そのためにこうやって歩いている。
が、少し度が過ぎたようだ。
体育館内では、翔とやらに会う可能性があったため、そこを散歩場所にはしなかった。
だから「じゃあ外に出るか」という発想に辿り着いた私も私で馬鹿だったと今なら思える。
私は今、どこにいる?
周りを囲む無数の木々。
ビニール傘に打ち付ける大粒の雨。
踏めばぐにゃりと歪む土歩道。
学校のそばの、あの神社辺りから山に登ったのは覚えている。
山と言っても、こんもりした土くらいのもので、そんなに山と言えるほど山でもない。と思っていたが、そうでもなかったらしい。
雨によって視界が白くなり、目の錯覚とやらを起こしたらしい。
大分な山道である。
(そろそろ帰りたいんだけどなぁ。髪ゴムなくしたし)
ふと気がついたときには、いつも髪を団子に結っている赤いリボンがなくなっていた。
リボンと読んではいるものの、それはただの赤い布切れで、それがなければいつも髪を結えない。
今日はどこかでそれを落としたようで、いつも毎日髪を結んでいる私からすれば、髪が邪魔で邪魔で仕方ない。
だから早く帰りたいのだ。
だがしかし。
私は地理というものが不得意なのであった。
方角やら標高やらはさっぱりわからず、もちろんといういうことは方向音痴。
どの道から来たのかもわからなければ、どの道に行けば帰れるのかもわからない。
ただ、じっとしていては100%帰れないのはわかっているため、適当にぶらぶら歩いている。
まだ梅雨の時期で、雨が降ると少し寒い。
傘一本では雨すべてを凌げるわけでもなく、服は案外濡れている。
ひゆひゆ風が吹き付け、少し寒気も感じる。
(誰か来てくれればいいが、こんな避難指示も出てる大嵐で、わざわざ危険性の高い山に来ねえよなぁ)
と自分で思って、あれ、と気が付いた。
(……危険性の高い、山……)
体育館へ避難する際の玉乃の話を思い出す。
『この学校は山の近くにあるから、土砂災害とかが起きちゃうと危ないんだよね。土石流とか、ピンポイントでここ当たるよ、多分』
はたと今気付いた。
そうだ。
土砂災害。
私はなぜ山にまで登ったのだろうか。
馬鹿だろう。
なんて幾ら考えても、それの答えが出るわけでも、解決策が出るわけでもない。
これなら玉乃のほうが賢いではないか。
なんだか自分が自分で恥ずかしいぞ、なんて思いながら、歩く足を速める。
この道に行けば危険性が低いのかなんて全く知らないし、悪い予感しかしないが、じっとしているとそれはそれで嫌だった。
焦りと、恥ずかしさと、不安と、怒り。
もしかしたら土石流に飲まれて死ぬかもしれないという焦り。
なんとなくわかっていたのに、自分から危険なところへ足を運び、帰れなくなったという恥ずかしさ。
このまま夕暮れまで帰られなかったらどうなるのか、という不安。
それと、怒り。
この感情が自分に対してなのか、それとも他の誰かに対してなのかはわからない。
多分、どちらもだ。
『同じ空の下』という意味不明な文面を残す、という遠回り且つまどろっこしいやり方の翔に対しても怒っているし、そんな文面を残した翔に対して、「直接会って言えばいいじゃないか」という考えを抱いた自分にも怒っている。
それはなぜかというと、私はプライドが高いからだ。
自分はなるべく冷静でいたいし、周りに振り回されたくもない。
そうなったとしても、私は余裕であるように、周りに見られていたい。
それを損害するのがあの言伝だ。
あの言伝に対して私が「直接会って言えばいいじゃないか」という考えを持ったのなら、それは、まるで翔に会いたいようである。
会いたいのか会いたくないのかは正直自分でもあまりよくわからないが、周りから見て、「会いたくない」と言っている自分が“プライドが守られている自分”だ。
そのため、そのプライドを守るためにはそんな考えは捨てなければならない。
だから、怒っているのだ。
何事にも「面倒臭い」と文句をつける私だが、実際は私が一番面倒臭いじゃないか、なんて思いつつも、その考えを折るという選択肢は端からない。
やはり、自分が一番面倒臭い。
*
「遅いねぇ」
「うん、遅い」
その頃、私、玉乃と兄の陽翔は、体育座りで戦の帰りを待っていた。
だけど、待てども待てども彼女の姿は現れない。
散歩と言いつつも、体育館を散歩したなら、結局お兄さんの翔くんに会ってしまうのだから、“翔くんと会いたくない戦”なら、散歩するのは逆効果なんじゃないか、と一人げに思う。
「探しに行ってみる?」
お兄ちゃんは眉を下げて言った。
私とは似ても似つかないお兄ちゃん。
私は日本人とフランス人のハーフ。
だけどお兄ちゃんは、フランスの血は入っていないから、純日本人風な見た目だ。
つまり、私とお兄ちゃんは、兄妹といっても、親の違う義兄妹。
お父さんと、お兄ちゃんと血の繋がったお母さんとの間に生まれたのがお兄ちゃん。
だけどその後お父さんは離婚して、今のお母さんと結婚した。
その際生まれたのが私。
だから、お父さんは同じだけど、お母さんが違うっていう、複雑な関係が私とお兄ちゃんの間にはある。
だけど、何も悪い感じはしないし、寧ろ周りの血の繋がった兄妹よりも仲がいい気がする。
だけど私は最近、少しお兄ちゃんと、家族とは少し違った感情を抱くことがあるかもしれない。
それが兄妹としては普通なのか、それとも普通じゃないのか、それはわからないけど、多分普通じゃあない。
少女漫画が恋愛ドラマでよくある『キュン』っていう効果音。
あの効果音は、よく理解できる。
私はお兄ちゃんと話すとき、時折この効果音を自分の心臓が発している風に聞こえる。
それはつまり、恋愛というものをお兄ちゃんにしているのか。
それはしていいことなのか。
わからないし、気付いたときは「私大丈夫かな?」なんてちょっと心配になったりもした。
だけど、自分の気持ちを自分から変えることなんてできないのだから、もう気にしないことにした。
お兄ちゃんもお兄ちゃんでそういう風に思われるのは困るだろうから、お兄ちゃんにもそれは伝えない。
これから気不味くなるのはごめんだしね。
それに、お兄ちゃんに伝えたところで、どうなるわけでもない。
普段の恋愛であれば、好きになって、付き合って、ゴールには結婚することがある。
だけど私は、お兄ちゃんとは血縁関係にあるため、結婚できない。
結婚をしたいとも思わない。
私はただ、お兄ちゃんにこういう気持ちを抱いて、こういう風に一人で満喫しているのが楽しい。
これが全くの赤の他人だったら、って考えたら、それは付き合うとかの選択肢もあっただろうけど、私はそれを望んでいない。
今の立ち位置が、ちょうどいいんだ。
「心配だし、探しに行こっか」
ニコリとお兄ちゃんに向かって微笑む。
お兄ちゃんも私に微笑みかけて、立ち上がる。
「迷子にならないように」
といって、彼は私に手を差し伸べる。
「うん」
その手を喜んで握る。
何度も繋いだ、温かい手。
十歳も差があるのだから、手の大きさも全然違う。
(お兄ちゃんは、キュンキュン対象だけど、恋愛対象じゃないかな)
なんて一人で思って笑う。
これについて悩んでいるわけでもないし、私はやっぱり幸せものだ。
なんて、親友が行方不明のときに思うことじゃあないけれど。
でも、私は彼女を信じてる。
彼女は迷子になりやすいし、一回迷子になったらまさにその名の通り迷宮入り級の方向音痴。
だから散歩とかにはあまり行かせせたくないけれど、彼女はなんやかんや運が良い。
『同じ空の下』と書かれたあの紙も、戦は悪い風に捉えていそうだけれど、お兄ちゃん曰く、物凄く良い風に捉えていいらしい。
「翔はね、やっぱり心配してあれを書いたんだよね。言葉の意味はあんまり良くわからないけれど、あの紙が戦ちゃんの手に渡れば、それが無事だという合図になる。それに心配でもないとあんなの書かないでしょ」
ウフフと楽しそうに笑うお兄ちゃん。
確かに、そうかもしれない。
仲介役のあの担任の先生に、「妹の戦は無事ですか」なんて聞いたって、先生は受付をしていたんだから、どこにどういるのかなんてもうわからない。今みたいに、勝手にいなくなっている可能性だってある。
心配していないならわざわざ安否確認も取らなくていいし、何より、あの『同じ空の下』。
悪い意味ではなさそうだよね。
「戦ちゃんもだけど、翔も言わずとも知れた素直じゃない人間だから」
私の隣でお兄ちゃんはそう言った。
そうだね。
直接会ったら、久しぶりに会うのもあって、恥ずかしくて何を言ったらいいかわかんないよね。
それに、ただただ戦が無事なのか知りたいだけなら、顔を見てああ良かったってなる。
だけどそれじゃあ、「相手のことを心配している」他に、どんな理由があって顔を見るだけ、っていう行為をするんだろう。
戦も確かに素直じゃないし、やっぱり二人も兄妹なんだなぁ、って染み染み思う。
そんな風に、戦と翔くんの話をしていたら。
「あれれ。噂をすればなんとやら」
楽しそうに笑うお兄ちゃんの顔。
その目線の先には、普段の戦のように、面倒臭そうに目を半分だけ開いた、黒髪の青年、翔くんがいた。
*
私、戦は未だに帰れずにいた。
あれから随分と時間が経った。
大体一時間くらい経っただろうか。
正確な時間は、携帯の充電がないためわからない。
普段から充電が少なく、よく電源がきれ気味だったが、こういうときにはとことん不便である。
充電があれば、玉乃やら陽翔やら、誰かに場所を聞いたりすることも可能だった。
否しかし、迎えに来てもらったりするのは流石に気が引ける。
それはあいつらを道連れにしようとしているようなものだ。
まぁ何にせよ、今後はきちんと充電をしておこうと一応決心したのだった。
と、急に視界が斜めに歪んだ。
一瞬何が起こったのか自分でも分からず、「えっ」と言おうとした口のまま硬直。足元だけは土に流されて動いていた。
ハッと我に返ったとき、ちゃんと理解した。
雨によって緩んだ地盤。
私が踏んだ事によってそれは悪化し、ついに土石流となって流れている。
といっても、ニュース沙汰になるほどの土石流でもなく、咽まれてしまう、という心配はない。
ただ私が心配しているのでは、足が咽まれ、そのまま向こうにある大木に勢いよくぶつかるということ。
あの杉らしき木に、この土石流の速さでダイブしたのであれば、当りどころがどこであろうとも、多分死ぬ。
(死ぬかもしれない)
なんて、演技の悪いことを思った。
だって、本当にどうしようもないのだ。
この土石流から抜けようと足掻いても、土を刺激して、速さをもっと速くしてしまうだけ。
だからといって、どこか掴まる事のできるなにかがあるわけでもない。あったとしても、手に持っている傘が邪魔だ。
運が良ければあの大木は避けられるが、その後に続く木々にぶつかるだろう。
そうなれば、最悪死。
軽傷でも、打撲なんかをして、多分、自分の足で体育館へ戻るのには一苦労どころか、二苦労、三苦労あるだろう。
しかしなぜだか妙に冷静になり、何な焦りもなくなった。
と、その時。
「何やってんだよバカっ!!」
そんな怒声と共に、大雨の中、傘も刺さずに、土石流に向かって垂直に走ってくる男。
この期に及んで、ああ嫌だ、なんて思ってしまった。
そいつは私をバッと腰から抱き、土石流から離れようと跳んだ。
木にぶつかりそうになりながらも、なんとか土石流からは逃れられた。
今になって何故かドクドクと心臓が脈打ち、少し息が荒くなる。
ふとあの大木を見れば、土石流は大木から二手に分かれるように流れている。
スピードも落ち、あまり大事には至らなかったようだ。
ホッと一人安心していると、腰回りをぎゅっと掴まれ、あれれ、と嫌なことを思い出してしまった。
(そういやこいつに助けるたんだった。一番嫌なやつに)
顔を見たくなく、背中側にいるそいつにとことん背を向ける。
べちょりと泥に今二人で寝転んでいる状態だが、怪我がないならまぁいいだろう。
……否、後ろのそいつに怪我がないとは限らんな。
助けてもらった手前、ガン無視して、そしてもしも怪我をしていたとしたら、それに対してなんの興味も示さないのは流石にだめか。
(しょーがないっ)
私は思い切り寝返りを打つつもりで、後ろを振り向いた。
が、すぐに視界が暗くなった。
一瞬「?」マークを頭の上に乗せた私だったが、すぐに状況を理解した。
そのそいつとやらが、私を抱きしめていた。
私はそいつの胸の中にいて、そして私も彼も何も言葉を発さない。
つまり、気不味い空気。
「これ何?」と言いたいところだが、そんなことを言えるほど肝は座っていない。
とりあえず、離してくれるのを待とうと思い、そのままじっとしていた。
が、彼が私の耳元でそっと囁いたのだった。
「怪我は?」
最後に聞いた声よりも、随分と低くなっていた。
前に聞いたときは、私は八歳頃。
こいつは十八歳頃。
まだ高校を卒業したばかりの彼は、今よりも子供らしい、幼く高い声でこう言って私の前をあとにした。
「おじゃましました」
あのときのことは今でもよく覚えている。
高校を終え、大学にそのまま進学するだろうと思っていた翔は、大学に進学せず、働く道を選んだ。
それに親は最初から最後まで猛反対で、ずっと、大学進学を勧めてきた。
しかし気がつけばもう高校は卒業していた。
もともとバイトとして、高校の近くのスーパーでは働いていた。
しかしそれだけでは暮らしていけるはずもなく、親は、暫くの間は金を出すため、就職先を見つけるよう彼に言い渡したのだった。
しかし、進路のことで両親も揉めに揉めていた翔は、「家出してやる」なんてことを日頃から言っていた。
私は、そのころも既に仲は良くなく、別に彼がどうしようと構わないと思っていた。
そんなときだった。
本当に彼は家出をしたのだ。
両親は仕事で朝からおらず、その日は私と翔二人で留守番をしていた。
「家出する」なんて唐突に言い出して、リュックサックと大きなバッグを持って玄関に立っていた彼を見て、私はひどく心が痛かった。
翔は親のことが気に入らないらしく、意見が合わないため親戚の家に家出した。
私は、なんだか置いていかれた気になってしまった。
親は私にそれなりの愛情は注いでくれたし、親になんの不満もなかった。
しかし、ふとした瞬間、周りにあったはずの赤い糸は、私と彼ら全員を繋いでいない。
ぷつんと音を立てて切れていて、気がついたときにはみんな、私に背を向けてどこかへ歩いている。
切なく、悲しかった。
翔もそのうちの一人で、彼は家を出るとき、「行ってきます」ではなく「おじゃましました」と言って出ていった。
まるで、友達の家にでもいたような言い方だった。
「俺の帰るべき場所はここじゃない」。
そうその一言で私に伝えてくるようで、余計に胸が苦しかった。
翔が家を出てからだった。
私が今のように、素直であることや何でも面倒臭がること、それに、プライドが固くなったこと。
親はあんなに翔と口論していたくせに、いなくなったら悲しみに浸って私とすらも口を利かない。
しばらくすれば全くいつも通りに見えたが、よくよく見れば目の下にはくまがあったり、ふとした瞬間にため息をこぼしていたり、ストレスが溜まっているのだとわかった。
私は幼い頃から案外賢かったため、人が疲れているときに怒らせては、面倒なことになるとわかっていた。
そのため、そうやって疲れた母父を怒らせないために、日々自分を取り繕って生活していた。
その時できた癖が、人の感情を読むことや、自分を取り繕う癖。
人の感情を読むことは次第に面倒になっていった。
態度や言動で大体、その人が今何を思っているのかはわかるが、そうすることで、周りの人の感情を読むという癖がつき、こちらが疲れてきた。
そうすると、感情がわかることも、その癖も、面倒になる。
するともう何もかもが面倒に思えてきて、一度面倒なことを放ってしまうと、もうすべて面倒。
それが今の私の一部だ。
そして、自分を取り繕うことで、プライドの塊として私は成り立った。
相手にとって自分がどう受け取られるかで、相手の対応は変わる。
例えば、疲れた親を私が怒らせれば、親は私を怒る。
それが面倒だったため、自分を取り繕ったのだが、取り繕う際、周りからの目線を気にする。
親から見てこういう言い方は怒りの元兇だとか、親から見てこういう行動は癒やしの効果があるだとか、人から見た自分を気にする。
だから、「周りから見た自分はこうでいたい」という“プライド”が大量にできた。
なんて、昔のことを考えていたら、うん?と頭を捻る。
(ってことはちょっと待て。どこまでがプライドでどこからが本当の私の感情だ?)
ポンポンポンと大量に出てくる、私の何かに対する感情。
玉乃のことは、親友として好きだ。
それはそうだろう。
それにプライドはない。
陽翔のことは、友人として好きだ。
それのプライドは、私と陽翔が隣に並んで、恋人同士に見えないようにすること。
あいつはどれこれ構わず笑顔を振りまくから、誰といようとまるでカップルだ。
私はその被害に遭いたくない。
そのため、誰かと三人以上であるいたり、できるだけ私は真顔でなんの言葉も交わさなかったり、そういう工夫をしている。
であれば、翔のことはどう思っている?
『嫌だ』『顔を見せたくない』『いたって苛々するだけ』というのは、多分嫌いなはず。
だが、多分それはプライド上の感情だ。
実際今のように抱かれていたって、嫌な気持ちにはならない。
本当に嫌いな人であったら、嫌で嫌で仕方なくて、今すぐにでも飛び出すだろう。
(じゃあ、本当は……?)
「まさか、怪我したのか」
彼は私の肩を掴み、まじまじと私の顔を見始めた。
その様子に少し気不味さを感じ、ふいっと目を逸らす。
「してないし。……翔は?」
「俺の心配はいいから。つかお前、こんなところで一人で危ないと思わねぇのかよ!」
その口ぶりに、久しぶりにリアルでカチンときた。
「いや、危ないなんて知ってるわ!」
「じゃあなんでここ来たんだよ!……まさかお前、死のうと……」
「するわけねぇだろバァーカ」
「何だよ戦お前、ホント可愛くねぇ」
「可愛さ求めてねぇし」
「そーゆーところが可愛くねぇの」
「だから求めてないって!」
口喧嘩をするのも幾年ぶりだ。
懐かしさにしんみりしていると、思わず二人とも黙ってしまった。
またも気不味くなり、今度は同時に二人で違う方向へ首を傾ける。
それからすぐに翔が私を抱き寄せた。
「無事で、良かったと思う」
“思う”って何だ、と言いたくなったが、そう言ってしまう気持ちがなんとなくわかる。
素直になれず、そう言ってしまうのと、プライドの感情か本物の感情かわからないため、“思う”と言ってしまうのだ。
私がそうだということは、もしかしたら彼もそうなのかもしれない。
彼も、素直じゃなかったり、プライドの感情があったりするのかもしれない。
所詮私達は兄妹である。
「久し振りに会えて、なんか、良い気がする」
私はぼそりと呟いた。
雨の音に紛れて、聞こえなかったかもしれない。
だけど、それを言ったあと、心做しか抱きしめる力が強くなった気がする。
(こんのバァカ)
*
「うわぁぁああーんっ、良かったぁ」
「うえっ、」
体育館へ戻ると、即玉乃に抱きつかれた。
防水カーディガン着ていたため、服はあまり泥に濡れなかった。
そのため玉乃は思う存分私に抱き着く。
「ちょっと、物凄く邪魔」
白い目で見るが、彼女は微動だにしない。
「おい」
「戦のバァカ」
「はぁ?」
突然の悪口に、ため息をつく。
玉乃はむすっと頰を膨らませてこちらを見る。
「やっと、本当に戦が出てきた」
「はぁあ?」
遂にそこまで脳はやられてしまったのか、なんて適当に思っていると、玉乃が急にポロポロ泣き出した。
「はぁあっ?」
焦りに焦って、思わず顔に出てしまう。
顔をひきつらせて、冷や汗をかく。
(なんか悪いことしたか……?)
思い当たる節が多すぎて、いつのことで泣いているのかさっぱりわからん。
「戦さ、いっつも嘘ばっかり言ってたよね」
(あぁ、そのこと)
プライドの感情のことだ。
玉乃には特に多く言っていたかもしれない。
「あれ、キツかった。親友なのに、本当にこと言ってくれないんだ、って。たしかに戦は人に自分から弱みを見せる方じゃないけどさ、ちょっとくらい、頼ってくれてもいいじゃんね」
グスン、と鼻を啜りながら訴える彼女の言葉には、心がこもっていた。
たしかに、そうだ。
玉乃にはかっこいいところを見せていたかった。
かっこいい私でいたかった。
だからか、プライドの感情を強く出しすぎた。
そのプライドの感情に気付き、それを嘘だと捉えた彼女は傷付いた。
……鈍感に見えて、意外と敏感な人間だったのだ。
だから、プライドの感情を彼女に伝えたときは、大抵彼女は怖い目をした。
頭な細い針が刺さるような、そんな目。
あれは、キツかった証なんだ。
「それに、怒ってた」
意外である。
怒ってもいたそうだ。
「だって、私は戦に頼りっぱなしなのに、戦は全く私を頼ってくれないもん!そりゃ怒るよ!」
「ハイハイ、そりゃごめんねー」
綺麗な銀髪を撫で上げ、彼女の目を見る。
「これからは?」
「ハイハイ、頼る頼る」
「例えば?」
「……昼休み、購買に焼きそばパン買いに行かせる」
「それはパシリじゃんっ」
「えぇ、じゃあ、」
私は玉乃を抱きしめた。
友人を抱いたことなんてなかったが(一方的に抱きしめられることなら幾度となくあったが)、私はやけに心が暖かくなった。
「戦?」
玉乃は首を傾げる。
「ちょっとだけ」
「こうさせていて」まではは、恥ずかしくて言えない。
だけど玉乃はそれを言わなくても、クスッと笑ってそのままいてくれた。
(ありがとう、玉乃)
*
体育館の隅で、抱きしめ合う玉乃と戦。
そんな様子を、個室からみつめる翔と陽翔。
「俺達もあれやる??」
ニヤニヤで聞いてくるのは陽翔だ。
翔は冷めた態度で「なんでだよ」と答えた。
「俺達は、ああしなくても心が通い会えるだろ」
「ふふん、心が通い合っても、LINEは通い合わないよねぇ。何年も前に送ったやつ、未だに未読なんですけど」
「だってお前、既読スルーしたら怒るじゃん」
「返信してよ」
二人してクスッと笑いをこぼした。
翔に関しては、笑うのはいつぶりか。
「ずっと、戦ちゃんに会えなくて寂しかったんじゃない?」
またからかうような笑い方をする。
「ちげーし」なんかの言葉を期待していたのだろうが、帰ってきた言葉はあまりに意外だった。
「まぁ」
「あらら、心機一転、的な?めちゃくちゃ素直でらしくない」
「だって、素直になんないと色々まずいことなるじゃんか」
「ああ、戦ちゃんが空振って土石流に拐われそうになった、っていうね。たしかにあれは、翔の素直じゃなさがことの発端だったね」
「そうそ。だから、もう紙の言伝は一生やらねぇや」
「単極端だなぁ」
「……危険に、晒しちまったからな」
ぼそりと、小さな一言だった。
(その言葉が小さくなるんなら、結局素直じゃないんじゃない)
と、陽翔は面白くなった。
笑いながら翔の肩に手を置き、「ねぇ」と語りかける。
「別に、無理に素直になろうとしなくてもいいんじゃない?」
「そうならそうがいい」
「そうだよ、絶対。だって、素直じゃないのも性格でしょ?変えようとして変えられるもんでもないしね」
「……まぁ」
「素直じゃなくても、戦ちゃんを守ろうとすればできるでしょ?“ケイサツかん”になりたい翔くんは」
からかうように笑うと、翔は真顔になって陽翔の頭をわっしゃわっしゃ撫でる。というか、髪をぐしゃぐしゃにする。
「あぁっ、翔もやっぱり覚えてたんだっ」
「お前はいつも覚えなくていいことを覚える」
「あれでしょ、小学三年生のとき、将来の夢の作文で“ケイサツかん”って書いたんだよねぇ。んもぉ、今とは違ってめちゃくちゃ可愛いぃ〜!」
「うるっせぇんだよ。お前は確か“コックさん”とかだったよな。あの、入選したやつ」
「あれ?そんなの書いたっけ?」
「覚えてねぇのかよ」
“コックさん”になりたいという夢を持ち、今は大学で調理について学んでいる。
古今東西様々な料理を研究し、自分の店を建てようと努力をしている。
「最近は、順調か」
「うん、順調順調!暇なときに豪華な“パワフルケーキ”っての家で作ったらね、みんなびっくりして美味しいって言って食べてくれたんだよ」
「暇なときに豪華なケーキ作るって、やっぱ魂、料理だな」
「そーだよ。翔は最近どう?」
「俺はね、親戚の家に住みながら働いてる」
「何のお仕事?」
「近所のレストランの正社員と、コンビニのバイトと、居酒屋の助っ人と、カフェの店員」
「うぇ……。頑張ってるね」
「頑張らないとやっていけない」
「アハッ、翔らしいね」
翔は心を決めたように、強い目をした。
「……これから、料理系の仕事をしたいんだ」
その目を見つめ、呆気に取られる陽翔。
「もしお前が店を出すときは、店長を支える補佐になるよ」
「心強いよ、ありがとう」
にこりと笑って、翔の見つめ合う。
*
あれから数週間が経った。
あんなに暗かった空は、こんなに青く広く晴れ上がり、あんなに降った雨は、地面を濡らして太陽に綺麗に照らされている。
「早く提出してください」
担任に言われてしまった。
あの大雨の日の絵だ。
テーマは『家族の画』。
未だ真っ白な手元の画用紙。
みんなもう帰ったのだが、私は絵を提出できていないからと、放課後先生と秘密の七時間目。
「描けたら職員室もってこいよー」
「はぁい」
何を描こうか。
迷って悩んだ末、ちゃんと描き出せた。
私は絵を職員室に持っていくと、
「お前、なんかあったのか?」
と心配されてしまった。
*
私はあの言葉の意味を知っている。
『同じ空の下』という言葉の意味だ。
翔は、数年も顔を合わせないほどに、気持ちも体も離れていた。
だけど、絶対にいつも繋がっているものがあった。
空だ。
空は私と翔を繋いでくれる。
あの日見上げた三日月も。
あの日仰いだ青空も。
あの日降った大雨も。
全て、翔と繋がっている証だった。
地球は丸い。
だから、すべての空は繋がっている。
だけど、場所によっては晴れていたり、でもあっちは天が降っていたり、天気は様々。
だからそれと掛けて、「俺はこっちで頑張るから、お前はそっちで頑張れよ」なんて、エールの言葉にも聞こえた。
私の考え過ぎかもしれないのだが、私はこの言葉をもらったのは一度だけじゃない。
翔が家を出るとき、言っていた。
「同じ空の下にいるんだから、結局家で手も繋がってんの、ダルいね」
と、あのときは悪い意味で言っていた。
あの頃の私にはよくわからず、いつもの無視とやらをした。
(今思えば、止めてほしかったからああ言ったのかもしれん)
だが、それはそれで良かったと思っている。
結局過去は今と未来に繋がっているのだから、彼が今、陽翔とともに店を建てようと努力していることを思えば、良かったんじゃないかと思えてくる。
(同じ空の下……)
ふと、窓越しに空を眺める。
青く澄んだ綺麗な空だ。
まるで、私の心を写し取ったみたいに。
あの絵の題名は『同じ空の下』。
私は今日の空模様を描いた。
それは私の心模様。
今日の私だから描けた、最高傑作だ。
「同じ空の下」
*同じ空の下 完
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