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「小宮駅さん、お疲れ様です。どうぞ中へ」
「やれやれ、助かったぜ。八王子さん、若いのにいい勘してんな」
乗り込んで来た敷島は雨風に髪を乱し煤に塗れたクラの顔を見ると笑い出し、
「お前はいつにも増してひでぇ顔だ」
と、辛辣な軽口を忘れなかった。汽車が再び走り出す。
「ああやっぱり、馬鹿みてえに早ええや。鉄橋渡る時ぁ、戦争に取られて大陸行ってた時よりキツかったぜ。もっと早く来てくれってんだよなあ」
若い機関士は運転に集中しているが、人のよさそうな助士は愛想良く
「こんな若い姉ちゃんが助けに来てくれたんだ、感謝したらよかんべ」
と答えた。
「なに、女の癖に気は効かねえし、まるで愚図で駄目だい」
上機嫌な敷島は立て板に水の毒舌ぶりを発揮してクラをこき下ろした。命の危機から解放されてよほどほっとしたのか、あるいは感謝の辞のつもりなのかもしれないが。
ーーやっぱりこの人、苦手だ。
「それにしても拝島駅の連中、全員ビビっちまって伝令も寄越さねえつもりかね。これだから街の連中は」
敷島がわざわざ危険な鉄道橋を渡らなければならなかった理由は簡単である。この当時の農村部や地方の街道で、大きな川に人や車両用の橋が架けられていることはまず無かったのである。
ではどうやって川を行き来していたのか。平時であれば多摩川橋梁の袂には中洲伝いに「築地の渡し」と呼ばれる木橋が架かっていて地元の人の生活の足となっていた。
現在の拝島橋の袂に渡し場があった渡し船も、地元の生活の足としてまだまだ健在だったのである。
だが今朝は、普段は中洲を縫って、人々の暮らしに寄り添うように流れている多摩川が一転、川幅一杯に増水して荒れ狂っている。渡し船は危険だとかそういうレベルではなく、渡し場や橋ごと川の底だ。とっくに海まで流されているかもしれない。
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