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この時点で八高線の単独駅である小宮は、隣の八王子や拝島と比べても陸の孤島ぶりが際立っていた。現状把握のためには嫌でも伝令を送らざるを得ない状況だったのである。
そして多摩川を渡る手段は鉄道橋以外に無かった(※)
とはいえ、普段は日帰りで都心に出られる便の良さだ。この時代にしては開けている地域だったと言えよう。
「遠方(信号)、停止ー」「遠方、停止ヨシ」
「場内、停止ー」「場内、停止ヨシ」
機関士が指差呼称し、機関助士が確認の為に再度復唱する。
六時二五分頃、クラと敷島を乗せた7051単行機関車は無事、拝島駅に到着した。予想外の列車到着に驚いた信号手が慌てて駅長代理を呼びに走った。そしてーー冒頭に戻る。
※ちなみに人が線路が立ち入る事自体について、この時代はかなり寛容だったと言える。
遮断機付きの踏切は傍の小屋にいる警手が手動で遮断器を上げ下げする仕組みで都会の真ん中くらいにしかなく、踏切の無い地方路線の多くが生活道路と交差していた。地域によっては列車運行の合間に、人々が生活道路として鉄橋を渡っていた例もある。
当然ながら人身事故も多かったようだが、最低限の処置だけで列車の運行が優先されたとも言われる。
(この四年後、初代国鉄総裁である下山定則が礫死体で発見された事件でも同様の扱いであった)
戦争の影響もあるだろうが、人権に対する感覚や死生観が今と異なっていた事は否めない。
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