3人が本棚に入れています
本棚に追加
これが五分前だったら敷島がもう一度「常識で考えろ!」と怒鳴り飛ばしていただろうが、助役の手前、さすがにクラを睨みつけただけで遠慮していた。
クラは慌てて首を横に降った。自分のせいで拝島駅が混乱しているのだと皆に責められているような気がして、身が縮む思いだった。
「じゃあこの『下り第三列車指導員』とは誰の事かわかるかい?」
「……あの、それはたぶん、富士さんの……」
「そんなんじゃ何言ってんのか聞こえねえだろ!はっきり喋れや!」
堪え性のない敷島に横からどやされて、クラはすっかり萎縮してしまった。助役はは苦々しげに顔をしかめたが敷島をたしなめるわけでもなく、今度は彼に聞き直した。
「『上り第四列車の指導者』の適任者は君で、駅長は上りを先に出すと言ってたんだね」
「そうです」
敷島が胸を張って答え、自分がいかに嵐の多摩川橋梁で命の危険に晒されながら渡り切ったかを、聞かれてもいないのにアピールした。
「たとえ国が鬼畜米英に負けても、俺達日本人の心の中には木口小平(※)が住んでるんです。死んでも列車は走らせます、ってね」
太平洋戦争終盤、鉄道は米軍の格好の標的となった。一度ならず死線を潜り抜けた共通の体験を持つ助役と駅長代理は、この端的な武勇伝に自己投影しながら感じ入ったーーそもそも打合せ票の正誤とは全く関係ない事柄なのだが。
「確かに打合せ票も説明書きも、二枚とも小宮駅長の字だが……」
助役は二枚の紙を読み比べて言った。
「それにしてもこのメモ書きはやはり意味がわからんな。君、わかるか?」「いえ……」
メモ用紙が助役と駅長代理の間を何度も行き来する。
※日清戦争で戦死したラッパ手。尋常小学校及び国民学校の修身の教科書に取り上げられ、戦意高揚に利用された。
最初のコメントを投稿しよう!