椎名くんは卒業しない

1/6
22人が本棚に入れています
本棚に追加
/6ページ
「あ」  突然、何かに気がついたような顔つきで、彼氏の椎名くんが呟いた。 「どうしたの、椎名くん」 「桜咲いてる」  三月のひかる空に顔をあげる椎名くん。  開花予想はまだ先だと報道されていたけど、今年は思ったよりも暖かい日々が続いたせいか、早咲きの種類の桜はもうそこかしこで花を開かせていた。  グラウンドの並木にもうっすらとした桃色が息づいている。  最後の教室からそれを見守る。  私たちの卒業式、直前の朝だ。 「春だねえ」 「縁側で緑茶すすってるババアみたいなこと言うなあ、藤川は」  椎名くんがこの日最後の制服姿で笑う。  しんみりしたくなかったからわざと普遍的なことを言ってみただけなのに。  とはいえ、私と椎名くんは春からも同じ大学に通うことが決まっているので離れ離れになったりはしないけど。  椎名くんの家で一緒に合格発表を見て、それぞれの名前を見つけた時は歓喜して思わず抱き合ってしまったなあ。  もし椎名くんが一人暮らしをしていたら、あのまま大人の階段を昇っていたかもしれない。  でも椎名くんの家にはボイパが得意なお父さんと四人目の子供を産んだお母さんと相撲部屋の修行が辛くて戻ってきちゃった元力士のお兄さんと看護学校に通っているお姉さんもいたからそれ以上イチャイチャすることはできなかったんだけどね。 「あのさ、藤川」  ふと改まった口調で椎名くんが言った。 「せっかくだから、この春にいろいろなことを卒業しようと思うんだよね、俺」 「いろいろなこと? 例えば何?」 「そうだな……例えば、公園の砂場で泥だんごを作るのはもう今年で終わりにしようと思ってる」  いまだに泥だんご作ってたのか、椎名くん。  それはもっと早く卒業していてほしかったわ。
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!