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1 本屋の娘
翠玉 父の葬儀を済ませ、粗末な家に戻る。家財は父の薬代に消え、わずかばかりの書物が残った。
「もっと本が読みたかったな……」
我が家は書店を営んでいて、家にはたくさんの本があった。父が体調を崩してから、売り上げはもっぱら医師に支払われた。
私も写本をしながら手伝っていたが、父の看病もあり思うように稼ぐことはできなかった。幸なのは父が苦しまずに眠るように逝ったことだ。
『翠玉や。本の中だけじゃなく、外の世界もみるのじゃぞ。わしが死んだら都に出るといい。お前は才気があるしちゃんとやっていけるじゃろう』
父の最後の言葉を反芻し、荷物をまとめる。
「さて、都に行ってみようか。本もきっとたくさんあるだろうから」
ここの町もそれほど田舎ではないけれど、本屋を切り盛りできるほど客はいない。女が一人でやっていくには仕事がなさすぎる。結婚するという手もあるがめぼしい相手もおらず、父が死に財産もない私を娶ろうという奇特な人もいないだろう。
とりあえず静かに本を読める時間がある生活が出来たらと願っている。都まで歩いて10日ばかり。今あるお金と手持ちの本を売りながらなんとかたどり着けるだろう。
家を出てから思ったより早く都にたどり着けた。親切な商人が馬車に乗せてくれたからだ。お礼に本を一冊上げようと差し出したが、笑って興味がないからいいと断られた。商売をやっていると孫子の兵法は役に立つのにと残念に思った。
都は想像通りに賑やかだった。
「本で読んだ通りだなあ。それでこのあたりで……」
きょろきょろ賑やかな人通りを歩いていると、ぶつかってきた男がいた。
「痛っ」
「おっとごめんよー」
男はぶっきらぼうにそういってすっと人込みを抜けていった。私は胸元に手を置く。やっぱり財布を取られた!
「待ちなさい!」
もちろん追いかける。さっき歩いてきた道を引き戻し、男がするっと入っていった横道の一本前の道を左に入る。そっと様子を伺いながら進むと、私を巻いただろうと安心した男は手の中の財布をにやにや眺めていた。
ここで声を掛けてはいけない。また逃げられるだろうから。ちょうどいいところに、長い棒とそれを下げるかごがあったので、後で返しますとつぶやいて借りた。棒を両肩に乗せ、かごをを下げ男の隣を歩く。男は私の顔なんか覚えていないのだろう。物売りが通ってると思うくらいで、気にせず財布の中身を確かめ始めた。
よし。ここで私は棒を持ったまま身体をくるっと反転させ、男の首に棒をしたたかに打ち据える。
「ぐぉっ!」
男は声をあげ、うずくまる。その頭にかごをかぶせた。
「な、なんだああっ!?」
混乱している男の手から財布をもぎ取った。良かった。取り返せて。そのまま男の尻を棒で打つ。すると「ひいいいっ」と悲鳴を上げ、かごから頭を出して一目散に逃げていった。
「かごもって行かれなくてよかったよかった」
棒とかごを元に戻し、財布を今度は腹に入れた。
「本で読んだ通りだったなあ」
人は逃げるとき、なぜか左側に曲がるようだ。なので私は男の逃げ道を予測できた。まあ、今回は出来すぎで、本当は財布を取られないほうが望ましい。
しかし本で読んだことと、実際の経験では体感が全く違う。男を打った時の弾力。男の悲鳴。心臓がとてもドキドキする。
「父さん、本と実際とはなんか別のことのようね」
頭でっかちの私を心配していた優しい父の目を思い出した。家では泣かなかったのに今、涙があふれだした。
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