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9 陛下の訪れ
部屋も落ち着き、平穏な日々が過ぎる。何かしなければならない義務などはなく、掃除や身の回りのことは小秋と子芹がやってくれる。私が掃除をしようとすると、小秋は自分の仕事がなくなるからやめてくださいと懇願された。庭を掃こうとすると、子芹が自分がやらないとここから追い出されるからやめてほしいと哀願してきた。ありがたいことに?読書三昧の日々を送ることが出来る。小秋と子芹の手が空き次第、字を教えた。そのうち三人で本の感想でも話合えたらなあと、こんな毎日も悪くないと思った。
一カ月過ぎたころ、慌てて小秋が部屋に転がるように入ってきた。
「張采女さま、張采女さま! 大変です!」
「あらあら、いつもみたいに翠玉でいいのに」
親しくなってきた彼女は普段は『翠玉さま』と呼ぶのに今日は改まっている。
「今、他所の侍女と話していて、そろそろこちらに陛下がいらっしゃるそうです」
「え? 陛下?」
小秋はうんうんと大きくかぶりを振っている。陛下のお渡りのことなどすっかり頭から消えていた。
「新しく入られた方々のところにはもうお渡りになったようで、もう翠玉さまのところだけだと」
「そ、そうなのね。じゃあいつもより部屋をきれいにして着飾っておくしかないわね」
小秋はまたうんうんとかぶりを上下に激しく振った。そんな話をして三日と経たないうちに陛下が何人かのお供を連れて私の部屋にやってきた。
「下がっておれ」
お供と小秋を下げさせ、二人きりになる。
「立ちなさい」
跪いている私の両手を持ち立たせてくれた。初めて陛下と見つめあう。瞳の色が明るい茶色で優しく感じられた。とても緊張しているのに、安らぎを感じる。触れた指先も優しく羽のように軽く温かい。
「普段は何をしてすごしておる?」
「あ、は、はい。書物を読んでいます」
「書物か」
「ええ」
「たくさんあるのかな?」
「こ、こちらへどうぞ」
陛下を本棚に案内する。陛下は私の手を握ったままゆっくりと歩く。
「ほうっ。なかなかの蔵書量だな」
「持ち込んでよいと言われたものですから」
部屋をぐるりと見まわして陛下は「何か不足はないのか?」と尋ねられた。
「いえ、十分です」
「遠慮することはないぞ」
本当に不自由はしていなかった。しかし後で小秋に話すと、他の女人たちはいろいろ陛下にねだったそうだ。
一冊の本が出っ張っていて落ちそうになっていたので、慌てて戻そうとすると逆にバサバサと落ちてしまった。
「ご、ご無礼を!」
陛下の足元に落ちてしまった本を慌てて拾う。運の悪いことに、もう一冊頭に落ちてきた。
「あ、や、やだ」
「ふふふっ」
陛下は品よく笑って、頭を直撃した本を拾い、ばらけてしまった髪をそっと耳にかけてくださった。
「す、すみませんっ!」
耳に髪を掛けながら陛下から本を受け取ると、一瞬、陛下が固まっているように見えた。髪飾りがとれ、頭が鳥の巣になったようで、こんなみっともない女人など初めて見たのかもしれない。穴があったら入りたい気分だった。
「気にしなくてよい。翠玉のところは居心地が良いな」
「そ、そうですか。それなら良かったですが」
「そろそろ戻るとしよう。今度はそなたが朕のもとにくることになるだろう」
言葉を反芻する。そうなのだ。私は陛下の妃だった。現実感がなくぼんやりしていたが、陛下は私の夫なのだ。陛下が立ち去った後、ぼんやりつっ立っていると小秋が「いかがでした?」と嬉しそうな顔で聞いてくる。
「お優しい方でよかったと思う」
「ええ、ええ。やっと翠玉さまの番ですね。がんばってください!」
何をがんばるのだろうか。寵愛を得ることだろうか。とりあえず陛下に疎まれることなく、他の妃ともめないようにすることが平穏さの秘訣だろう。
「それにしてももう少しお花を飾ったり香を焚けばよかったですね」
小秋が残念そうな顔をする。他の妃たちは陛下の訪れの際に歌や楽器の披露をしたり、美しく装ったりしたようだ。そうすることは基本中の基本だと、私も書物で知っている。しかしそのような素養がない私がやったところで粗が見えるし続かないだろう。とにかく粗相をしないだけで精一杯だ。してしまったけど……。
三日もすると陛下からの御達しがあった。夕げの後、寝所に参れという内容だった。
「いよいよですね!」
小秋が興奮して私の髪を梳かす。
「そうね……」
「浮かない顔ですね。もっと喜ばれるはずですよ」
「あ、緊張しちゃって」
「今日はとにかくゆっくり過ごして湯あみをなさればいいですよ」
「そうね」
陛下の寝所に呼ばれることはこの上ないことなに気が重い。とても素敵でお優しく麗しいのになぜだろう。それでも抗うことはできず、あらがう理由もない。成り行きに任せるしかなかった。
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