それはなかった事にしてください

　小学校からひょろっとして頼りない桐野だったが、心根はとても優しく常に紳士的だった。中学になりクラスが違っても、他人への気配りを目にするたび胸がそわそわした。いい奴すぎる。そこは譲らなくてもいいのに。要領が悪いとずっと思っていたが、自分から貧乏くじを引きに行ってる気さえする。
　3年で同じクラスになり、門倉たちにいじられる桐野を度々目にするようになってから、イライラはつのる一方だった。笑ってないで一度でもいいから言い返せよ、小突かれたら殴っちゃえよ弱虫。
何時しか怒りは門倉よりも桐野に向いてしまっていた。
なんだこのイライラは。訳が分からない。

　感情が抑えられなくなったある夜、気づけば外に飛び出していた。

　家から5分のところに森へ続く脇道があり、小さな祠があった。1キロ離れた一軒家に住む祖母、菊乃おばあちゃんが代々見守ってきた祠だ。妖狸を祀っていると小さなころに教えてもらった。人が手をかけてやらないと低級霊の住処になるからと言って、いつも掃除を欠かさない。幼い私はよくわからなかったが、狸の置物が可愛かったせいもあり、ちょくちょく立ち寄って、お供えを上げていた。
　１５０年以上手厚く祀られている祭神は、御利益も大きいはず。おばあちゃんの祖先は神職で、おばあちゃんも若いころ巫女だった。ごく薄いけど私にも神と通じる血があるかもしれない。
　無理くりこじ付けながら、私は祠に手を合わせて強く強く願った。
「門倉なんかビビるほど桐野を強くしてやってください、お願いします！」
　ポケットに入れていたハートのクッキーを数個祠に供え、私は幾分すっきりした気持ちで家に戻った。
　それが８日ほど前だ。

　やはり私のせいだ。
　とはいえ、いくら何でもトラなんて飛躍しすぎてる。ありえない。
　このとんでもない術を解いてもらわねば。今すぐ。
「美羽、何やってんだ」
　玄関ドアの取っ手を掴むと背後で声がした。小6の弟、湊だ。
「ちょっと出かけてくる」
「今日、森の方でサルが出たから夜は外出するなって至急の回覧板が回ってたぞ」
「サル！」
　あいつらは凶暴だ。近所のおばさんが噛みつかれて入院したこともある。
　両親は仕事で帰宅が遅いから外出を咎められることはないが、サルに出くわしたら怖い。
　今夜祠に行くのはあきらめるしかないか。その代わり明日は一日私がしっかり桐野を守ろう。
　決意して拳を握りしめる。
「美羽、学校でなんかあった？　悩みがあるなら相談に乗るよ」
　湊がいつになく心配そうな声を出す。
「は？　バカ言ってないでお子様はさっさとご飯食べて寝なさい」
　声を荒げて怒鳴ると、弟は頬を膨らまして奥に引っ込んだ。
　キツく当たり過ぎただろうか、とも一瞬思ったが、私の脳内は今、それどころではなかった。