それはなかった事にしてください

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 家に帰って着替えたあと私は冷蔵庫を物色した。  願い事の撤回をしてもらうのに手ぶらではだめだろう。 「美羽、どこか行くの?」  いつの間にか湊が横にいた。お供え物に選んだ巨峰を背中に隠す。 「ちょっと、友達んちにね」  ふ~ん、と湊は探るようにこっちを見る。 「もう暗くなるし、やめといたら? またサルが出るよ」 「あのさあ湊。今朝友達に聞いてみたけど、この近辺でサルが出たって話知らないってよ。ガセじゃない?」  強く出ると湊は少したじろいだ。やはり嘘だったか。ここ数日、どうも様子がおかしい。まさか6年にもなって一人で留守番が怖いわけでもないだろうに。 「そんな遅くならないようにするから。ちゃんと宿題やっときなさいよ。あと、なんか悩みがあるなら帰って聞いてあげるから」  いつものようにキモイよと返されるかと思ったら、なぜか驚いた眼をして小さくうなづいた。これはちょっとマジかもしれない。思春期の悩みは生意気な男子も気弱にさせてしまうらしい。  弟のことが少し気がかりではあったが、今回は後回しだ。私はとにかく本題を解決すべく、祠へ走った。  森の小径を入っていくと、祠の前に菊乃おばあちゃんがいた。しゃがみ込んで周囲の草を抜いている。  声をかけると顔をほころばせた。 「昨日まで温泉旅行に行ってて来れなかったからね。念入りに掃除しないと機嫌を損ねちまう」 「影丸はそんなに怒りっぽいの?」 「さあ、どうかね。この祠の祭神を影丸って呼び捨てにしても美羽は怒られたことないから、寛容な妖狸ではあるかもね」 「名前があるんだから、祭神とか妖狸より影丸って呼んであげたほうがいいと思うんだけど。まずかったかな」 「そんなことはない。小さい時から頻繁にお参りに来る美羽を、影丸様はきっと好いてるよ」  江戸末期、影丸という狸が里に下りてきて人を化かすようになった。100年生きた妖狸だ。夜道でしっぽのある男に誘われたと泣く娘の父親が、山狩りをかけて影丸を退治してしまったが、それ以来この地域だけ天災や疫病が続くようになった。祠を建てて妖狸を祀ったところ、やがて災いは収まり村は栄えた……というエピソードを何十回もおばあちゃんから聞いて育った。祠を立て手厚く祀ることで災いは福に転じさせることができるらしい。 「中学になっても美羽、時々来てあげてるよね。お供えが置いてあることがある。影丸様も喜んでるよ」 「あ……ほんのたまにね」  中学生になってからは、部活で疲れたりして、頻繁に立ち寄ることはなくなっていた。感謝されると逆に気が咎める。この春は、あの願い事をした一回きりだ。 「今日は巨峰のお供え? 豪勢だね」 「これはね」  詳細は伏せた上で「少し前にお願い事をしたんだけど、ちょっと不都合になったんで、取り消してもらおうと思って」と話すと、おばあちゃんは目を瞬いた。 「願い事をしてしまったのかい。妖気を鎮め封印するために祀った祠だから、さて、いったいどうなるんだろうね。妖狸は術で悪さはするが、願いを叶えるような温情は持ち合わせていないと思うよ。それにもし気まぐれで願いを聞き入れたとして、こんどは撤回なんて言い出したら、ひどく機嫌を損ねてしまう気がするんだが……。その撤回、やめるわけにはいかないかい?」  そういえば――、願うんじゃなくて拝むんだよ、と何度も聞いた気がする。その意味を深く考えていなかった。 「どうしよう……」 「いったいどんな願い事をした? 異性に関することならちょいと危ないよ。影丸は色気づいて女を化かして狩られた狸だから」  絶望的だ。もう終わりだ。祠に背を向け、ふらふらと歩きだす。 「美羽、妖狸がいたのは何百年も前だよ。おばあちゃんだって実際妖術を体験したことはない。美羽のその悩みは、影丸様とは無関係かもしれないから。あまり気に病まないようにね」  後ろでおばあちゃんが気遣いの声をかけてくれた。振り返って弱々しく手を振ったが、心は大洪水だ。  あれが妖術でないなら、何だというんだ。
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