それはもういらない

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 カリ……カリ……と、なにかを削る乾いた音が響く。  薄暗く埃の匂いに満たされた、どこかの廃墟の片隅に彼女はいた。  誰もしらない。本人すらもここがどこなのかわからない。興味もない。  彼女の理性は既に瓦解していた。  カリ……カリ……。  彼女が両手に抱えて顔を寄せているのは、ひとの頭だった。昨日今日ではない、とうに干からびて木乃伊(ミイラ)と化したものに、彼女は虚ろな瞳で爪を立て齧りついている。  それはかつて彼女と交際していた男。熱愛と抑圧の狭間で壊れ凶行に走った彼女の罪のかたち。 「彼くん、彼くん、彼くん」  錯乱した意識は、もはや名前も思い出せない最愛の男とひとつになろうと力の限り抱きしめる。  それだけでは飽き足らず歯を立て、爪を立て、擦り、削り、砕き、咀嚼し、飲み込む。  こんな行為になんの道理があろう。  他者と、死者と、どうしたところでひとつになどなれようはずがない。  それでも、そうせずにはいられない。  執念であり。  呪いであり。  祈りであった。  少しずつ、少しずつ小さくなっていく彼。歯も爪もひび割れ、堪えがたい痛みを経て混ざり合う錯覚にこそ喜悦を得る。  長い時間を掛けて一心不乱に執着する彼女は、じわりと衰え死へと近付き続けた。  そして全てを飲み下し、死に至る恍惚に身を委ねて力尽きる。  しかしその最後の刹那に、彼女の脳裏を過るものがあった。 「あ、あ、あああっ」  それは彼の姿をした化け物。  彼女の記憶を読み取り彼の面影を真似たという怪異。  ふたりの(あいだ)に入り込んだ異物。  だめだ、死んではだめだ。あれをこの世に残して死ねるものか。  彼への愛が、その姿を盗み取ったものに向ける憎悪へと転化され、今際(いまわ)(きわ)で爆発的に燃え上がった。  募る想いは臨界を迎え、(ことわり)を超えて現実を変革する。  彼女の双眸に宿った彼が嗤った。  突然息を吹き返したかのように元気良く立ち上がる。少し(とう)の立った年頃だったはずの彼女は今や瑞々しい少女の有り様となっていた。  胸からずるりと溢れ出た蒼い炎は混ざり切れなかった彼の魂。  もはや名も姿も失った彼を手のひらに受け止め愛おしげに頬を寄せる。 「さあ彼くん、一緒にあの化け物を退治しに行こうね♪」  この世界に残された彼の最後のひとかけら、その面影を完全に消し去ることで初めて彼を永遠に自分だけのものに出来る。  少なくとも彼女にとってはそれが真実だった。
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