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第一部
第一章 樹海
みどり―ここは青木ケ原の樹海。富士山北西麓に広がる一面の緑で、自殺の名所として有名であるが、一方で豊富な動植物の生息地としても知られる所である。植物で言えば、ウラジロモミ、ツガ、ヒノキ、アセビ等が多数繁茂し、動物では特に野鳥が多数生息している。その中でオナガ、ツグミ、ヒヨドリなどは数が多い種である。
楢本光男は、その森を一人進んでいた。緑に包まれた世界で、何か心の中で必死にもがいていた。そして、生を与えてくれるはずの緑が、今自分からその生を奪おうとしていることに、何か滑稽なものを感じていた。
美味しい空気、安らぎ、温暖化防止。植物にはいいことだらけのイメージが連想されるが、ここでは絶望だとか、死だとか、終わりだとかいうような、マイナスのものしか感じられないのは何故かと楢本は思った。
すると突然、鳥の鳴き声が樹海の森に木霊した。その木霊が次第に大きな波紋となって広がった。すると、楢本はその輪の中に自分が小さな存在として取り込まれたのを感じた。
その瞬間、楢本は、森の静寂さを初めて認識した。楢本は、その静寂さの中でたった一人の自分を感じると、突然、凄まじい孤独感が込み上げて来るのを覚えた。そしてその波紋がパタリと止むと、その静寂さは次に恐怖に変わった。しかし、楢本は、その恐怖を不思議に思った。それは、自分がまだ生にしがみつこうとしているから感じるものではないかと思ったからだ。
楢本は、自分が遊歩道から、かなり外れていることはわかっていた。もしかしたら、道に迷ったのかもしれない。もしかしたら、もう戻れないかもしれない。楢本はそう思うと、先ほどの生への執着とは寧ろ逆に、森の奥へ、奥へと進んで行った。そしてこれが、青木ケ原の樹海なのだ、とそう思った時にはもう遅かった。後ろを振り返ろうとしても、最早どちらが前で、どちらが後ろかがわからなくなっていた。とにかく止まろう。ひとまず止まろう。楢本はそう考えた。大声を出す気力はなかった。だから、心の中で叫んだ。
「止まれ!」
しかし、止まることは出来なかった。止まることが怖かった。止まったら、それで終わりのような気がした。もし進むことを止めたら、暗闇の中から何かが出て来て、そこで全てが終わりになる気がした。するとその時楢本は、突然何ものかに後ろから肩をつかまれた気がした。それは恐怖という冷たい手の感触がした。その瞬間楢本は、前に駆け出していた。駆け出したが、前に横たわっていた大きな木に足を取られた。否応なしに、そこで横転し、大地に放り出された。
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