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第十二章 秋田元の兄
みどり
―秋田元は「緑」の持つイメージや、それに表される植物というものが好きだった。だから、彼女とのデートではよくハイキングに出掛けた。特に二人でハイキングに出掛けたのは、新緑が美しい季節だった。彼女はハイキングで森林浴を楽しんでいた。その思い出が秋田にはいつまでもあった。
秋田には二歳違いの厚という兄がいた。二人はとても仲がいい兄弟だった。兄は勉強もスポーツも万能だった。その兄が突然、秋田が中学一年の時に、近くの川で溺れて亡くなった。兄の友達が水際を歩いていたところ、突然足元が崩れて川に流されたところを助けようとして、川に飛び込んだことが原因だった。
兄は両親には自慢の息子だった。だから両親の悲しみは計り知れなかった。そして弟にしても憧れの兄だった。だから秋田も兄の死に、生きる目標を失った。今まで何よりも楽しかった夕食の団らんも、それからはまるでお通夜のようだった。いくらご飯を噛みしめても、何の味も感じられなかった。そんな食卓で、よく母のすすり泣く声が聞こえた。両親の笑顔はなくなり、家族の会話もなくなった。これが、いつも会話に満ち溢れ、あれほどまでに明るかった家族なのかと愕然とした。秋田はこんな生活が一体いつまで続くのかと思った。そして、もし兄が生きていたらといつも思っていた。
それがある夜、何かの物音に秋田が目を覚ますと、秋田の部屋の隣のリビングの電気がついていて、どうやらそこで両親が何か話しているようだった。秋田が何気なく机の上の時計を見ると深夜の二時を回ったところだった。一体こんな時間に何をしているんだろうと、両親の話声に耳をそばだてると、微かながら父の声が聞こえて来た。
「あいつの百ヶ日には納骨をしよう。いつまでも悲しんでいては仕方がない。元のためにも、いつまでもあいつのことで止まっていてはいけないと思う」
「でも、私は厚のことが忘れられなくて」
「忘れろとは言っていないよ。忘れるんではないよ。あいつは亡くなったって、私達の息子には変わりはないんだから。でも、そろそろあいつを自由にしてあげようよ。私達があいつを縛り付けていては、いつまでも天国には行けないよ」
「いつまでも遺骨はここに置いて置きたい気持ちですが」
「それに私達には元がいるではないか。あいつだって素晴らしいやつだ。いつまでも私達が悲しみに明け暮れていたら、将来のあるあいつには、決していい影響はないよ。厚のことは忘れない。けれど元のこともしっかりと考えてやらなければいけない。あいつの将来も厚に負けないくらい私達は期待しているのだから」
秋田は、両親のその話を耳にして、涙が溢れて来た。兄の死は勿論悲しかった。兄の死を悲しむ両親の姿を見ることも辛かった。けれど、自分にこんなにも期待を寄せてくれている両親の気持ちを知って、それがとても嬉しかった。秋田は今まで自分は兄の陰に隠れた存在だと思っていた。兄の輝く光を浴びるだけの存在だと思っていた。そして、兄を称賛するのが自分の役割だと決めつけていた。ところが両親は、自分にもその輝きを認めていた。その輝きを自分が発することを期待してくれていたのだった。それが嬉しかった。秋田は兄の分まで精一杯頑張って、そして両親の期待に応えようとその夜、堅く誓った。
それから秋田は中学、高校と進学にかける情熱を燃やした。学業は常に学校で一番だった。予備校主催の公開模試でも三番から順位を下げることはなかった。そうして秋田は兄の亡き後、両親の祝福と称賛を一身に受けた。結果、大学進学は本人も両親も第一に希望するところに叶った。
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