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第十三章 木村霞
秋田が木村霞と出逢ったのは、高校から進学した大学でだった。二人は同じ研究グループになり、お互いがお互いの優秀さを認め合うと、自然に寄り添う気持ちが生まれた。今までは親の期待に沿うべく、一心に勉学に励んでいた秋田が、女性を初めて意識した瞬間だった。そして研究室の助教授の出版記念パーティーで、秋田が飲み過ぎた彼女を介抱したことが、二人の距離を一気に近づけることになった。
「私ね、彼とつきあってたんだ」
秋田はその彼とは誰のことだろうかと思った。
「それなのに、学部長の娘さんと結婚するんだって。なんかお決まりのパターンよね」
彼女はそう言うと、いきなり帰ると言い出した。彼女は一人では歩けないくらいに酔っていたので、秋田は仕方なくタクシーで彼女のマンションまで送って行くことにした。
ところが彼女を送り届けてすぐに帰ろうと思ったところ、玄関先で急に彼女が戻しそうになったので、靴を履いたまま、トイレまで彼女を抱きかかえて連れて行くはめになった。
それから彼女の気分が少し落ち着くと、秋田はキッチンのテーブルの上にあったコップに、流しの蛇口から水を汲んで彼女に差し出した。
「ありがとう」
「彼って誰だい?」
「あ……」
秋田は本当は彼女にそんな話をするつもりはなかった。きっと酔った勢いであんなことを口にしてしまったのだろうと思った。
「助教授の……」
「ああ」
秋田にはそれ以上名前を聞く必要はなかった。いや、寧ろその名前は聞きたくはなかった。だから、秋田は彼女の口を手で遮った。そして、秋田は、これも酔った勢いだと自分に言い聞かせながら、彼女をぐいと引き寄せて強く抱き締めた。彼女の体は一瞬硬直したが、次第に溶けて行くように秋田の中で柔らかくなった。
秋田と彼女との付き合いはこうして始まった。勉学一筋だった秋田は、遂に二十歳にして彼女と呼べる存在が出来た。それは、秋田にとってはぎこちなかったが、至福の時であった。
それから少しして、あの助教授が婚約破棄になり、九州の方へ飛ばされた。秋田は彼女が何かの働き掛けをしたのだろうかと思ったが、敢えてそのことを彼女には聞くことはしなかった。彼のことはどうでも良かった。
ところがその後、二人の間で大きな問題が生じた。秋田が彼女のマンションに半同棲をする形になって、それから半年くらい過ぎた頃のことだった。トイレから戻って来た彼女が秋田に何かを突きだした。
「見て」
秋田はその差し出されたものを見た。すると、それはスティック状になった何かだった。
「妊娠検査薬が陽性になった」
秋田はそれで事態が呑み込めたが、思考は止まった。
「どうしようか?」
彼女はそう秋田に問い掛けたが、秋田の思考は止まったままだった。それは考えることを拒否しているかのようでもあった。考えることが最も得意で、考えることでは人に後れを取ったことがなかった秋田が、今はまったく思考作業を停止してしまっていた。
「生む?」
彼女は更に秋田にそう聞いて来た。秋田はもし生んだらどうなるのだろうかと思った。
そしてそれを、彼女に問い掛けそうになった。そしてそれが言葉となって口から出そうになった時、秋田はそれを慌てて止めた。そんな愚かな質問は秋田のプライドが許さなかったからだ。
「堕ろす?」
一瞬言い掛けた言葉を秋田が呑み込んだことを悟って、彼女は更に質問をした。
堕ろす―秋田は彼女のその言葉で瞬間救われた気がした。もし妊娠がなかったことになるのだったら、それはそうして欲しかった。けれど人を一人殺すことになることには変わりはないと慌てて思い直した。胎児は人ではないとか、人だとか、そういう議論は別にして、自分の遺伝子を受け継いだ生命を絶ってしまうことには恐ろしい罪悪感があった。
「どうしようか?」
彼女は尚も執拗に秋田に決断を迫った。秋田は耳を塞ぎたかった。そして思考を止めたまま、ずっと氷の中にでも閉じ籠もってしまいたかった。
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