みどり(アナザーヴァージョン)

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第二章 楢本光男  みどり―楢本光男には、みどりという娘の忘れ形見があった。その娘も、そして孫のみどりも今はいない。娘は既に他界し、孫は行方知れずだった。 楢本は娘が高校生の時、離婚をしていた。岡山から東京へ単身赴任した時、そこでいい仲の女が出来たことが原因だった。その女とはそれからすぐに縁が切れたが、妻と寄りを戻すことは出来なかった。 ところが、それから少しして楢本の娘が東京の大学に受かったという連絡が来た。娘とはずっと会えないという思いがあったので、この吉報は楢本を歓喜させた。それから娘が東京に出て来ると、時々は、楢本と待ち合わせては、恵比寿や代官山などのお洒落なレストランで一緒の時間を過ごしたりしていた。それはまるで、堰き止めていた思いがいきなり流れ出したかのようだった。それからの四年間はあっと言う間だった。 やがて娘も大学卒業を目の前にして、ずっと先延ばしにしていた就職のことを楢本に相談し始めた。楢本の娘は、大学で化学を学んでいて、その知識を活かせる研究所に勤めることを希望していた。そこで楢本は、K霊長類研究所―K研究所―というところに勤めていた幼馴染で親友の前田昭雄に、そのことを相談したのであった。 「俺の研究所は霊長類と植物に関する研究をしているのは知っていたよな?」 「ああ、確か植物の二次代謝が霊長類にどうだとか」 「おう、よく覚えていたな」 「でも詳しくはわからん」 「ははは、そうだろうな」 前田の研究所は植物の二次代謝に関する研究を行っていた。楢本は、そのことは知っていたが、それがどのようなことなのかは、実はまったくわからなかった。 「お前がわからなくても、お前の娘がわかってくれれば問題はないよ」 「ははは、そうだな」 「でも一応改めて説明しておくか」 「いいよ。聞いてもわからないし」 「随分冷たいなあ。お前も幼馴染の俺の仕事を知っていてもおかしくはないだろう?」 「まあ、そうだけどね」 「それに、将来お前の娘が就職することになる所の仕事なんだから、寧ろ知っておくべきなんじゃないのかい?」 「確かにそう言われればその通りだな」 楢本は前田にそう言われて、その研究所で研究している事柄について、その触りくらいは知っておこうと思った。 「植物と動物は、どう違ってるかわかるか?」 「いきなりなんだよ?」 楢本は前田の唐突な質問に面食らった。しかし、前田は、さあ答えてみろと言わんばかりに笑顔で楢本を見ていたので、楢本は仕方なくその問いに答えた。 「色々あるけど、動物は動くものだろ? だから動けないということかな」 「ああ。植物がまったく動けないというわけではないけど、自ら移動は出来ないよな」 「ああ、そういう意味か」 「それから、その植物も動物と同じように色々なストレスを受けていることは知ってるか?」 「優しい言葉を掛けたり、心が休まる音楽を聴かせるとよく育つという話は聞いたことがあるよ」 「ああ、それそれ。植物は自ら動けないことから、害虫や病原菌、更には紫外線なんかも強いストレスになるんだよ」 「なるほど」 「それで、それらの外敵や、外部からのストレスから身を守るために、実は特殊な能力を持っているんだよ」 「ほう。どんな?」 「例えば、非常に多様な構造の二次代謝産物を生合成する能力なんかがそうなんだけどね」 楢本はここで既に前田の話にはついて行くことが出来なくなっていた。しかし、楢本に理解してもらおうと、一所懸命言葉を選んで話している前田に悪い気がして、思わず「うん」と頷いた。 「そして、俺たち人間が、そうやって植物が作る二次代謝化合物の中から、例えば、抗腫瘍活性を持つインドールアルカロイド類や、抗酸化活性を持つフラボノイド類、甘みを持つトリテルペン類など、人間の健康や福祉に役立つ有用成分を見い出して、昔から利用しているんだよ」 楢本は前田の話で、人間が植物の二次代謝能力を利用して、人間の役に立つものを作り出しているということは、なんとなくわかった。 「つまり、うちの研究所はそういうことをやっているんだよ」 「なるほど。お前の研究所がどんなことをしているのか初めて知ったよ」 「そうだっけ? 前にも話したような気がしたけどなあ」 「ううん。初めてだよ」 「そっか。じゃあそこで俺がどんなことをしているかも話してないな」 楢本は、これ以上話が難しくなると嫌だなあと思ったが、前田は楢本のそんな思いとは関係なく話を続けて行った。 「俺の仕事は、液体クロマトグラフィー・タンデム型質量分析計というものを使ってメタボローム分析というのをやっているんだよ」 「うんうん」 楢本のこの「うんうん」は、もうお前の話は理解できないから、話したいのなら勝手に話してくれ、自分はその話を遮ることはしないからということを意味していた。 「その分析結果を用いて、どんな二次代謝産物が、どの植物の、どの部位に、どれくらい含まれるかを調査して、植物が持つ新たな有用成分を同定したり、その生合成にかかわる遺伝子を見つけているんだ」 「早い話、それって何をやってるんだ?」 「早い話、医療、食料などに転用するための有用成分を植物から取得する研究をしているんだよ」 ここで、前田の話が一旦途切れたので、楢本はチャンスとばかりに自分の話を始めた。 「さっきの話だと、うちの娘をお前の研究所に入れてくれるという話だったよな?」 「え? ああ。勿論だよ」 楢本はその一言を待っていた。前田のことだから、決して嫌とは言わないだろうとは思っていたが、はっきりと彼の口から、了承したとの言葉を聞きたかった。 「第三研究部研究主幹といっても、研究員の一人くらいはなんとかなるからな。しかも、お前の娘はお前に似ないで優秀なんだろ?」 前田は楢本の娘だから間違いないという思いと、自分がよく知るあの子だから大丈夫という二重の信頼を持っていた。 「ありがたい。助かるよ」 楢本はやっと肩の荷が下りた気がした。妻との離婚が成立して、その後は一緒に住むことが出来なくなった娘のことを、いつも気にしていた。だから、東京の大学に入学すると聞いた時に、これからは娘に色々としてやれると思った。そういう意味で娘の就職先探しは、父親の使命であり、償いだと思っていた。 前田の研究所は、ある有名な製薬会社の研究施設としての顔があった。そこからの研究委託費や資金援助が、その研究所の運営資金の大部分を占めていた。楢本はそのからくりを前田から聞いたときに、あの製薬会社がバックにいるのなら、まず潰れることはないだろうと思い、それで娘の就職先をその研究所に決めていたのである。だから楢本は、前田からの任せておけという言葉を聞いて安心した。そして嬉しくなって、これから飲みに行こうと前田を誘った。前田は特に急ぎの仕事もなかったので、楢本のその誘いに乗った。それは一緒に飲むことが二人の友情の証であると思ったからだった。こうして、楢本の娘は、少し先の話だったが、前田のその研究所に就職することになった。
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