12人が本棚に入れています
本棚に追加
第五章 娘の妊娠
楢本光男は、元妻の携帯電話の番号を知らなかったので、家の方の電話に掛けることにした。電話番号は前に記憶していたものを掛けた。それは自分がいた時から変わってはいないだろうと思ったからだった。
久しぶりの元妻への電話は、それはまるで、初めて彼女の家に電話をした時のように心臓がドキドキした。あの時は、彼女の父親が電話に出た。楢本は、「綾さんをお願いします」と言えなくて、その電話をいきなり切ってしまった。
あれから二十年以上の月日が経っていた。既にその元妻の父も、そして母も他界していたが、久しぶりの元妻への電話は、あの時の心境を思い出させた。
楢本の掛けた電話は、七回目のコールでつながった。
「あ、もしもし」
「あ、なに?」
「うん。娘、いや、霞、そっちへ戻ったろ?」
「ええ」
「大学辞めたんだよ」
「知ってる」
「理由も知ってるかい?」
「あなた聞いてないの?」
「ああ、いきなりいなくなったと思ったら、そっちにいるって留守電が入ってたから」
「そう。何も知らないのね」
「何も知らないから、今電話しているんだよ」
「そうね」
電話の向こうで、ため息が漏れるような音がした。
「それで、どんな理由なんだ?」
「霞、妊娠しているの」
「え……」
(あの子が妊娠?)
楢本は息が止まった。自分と会っている時には、男友達の話など、まるでしたことがなかったからだ。だから娘のことをずっと奥手なのかと思っていた。ところが、奥手どころか、男とそういう関係になって、妊娠までしていたのである。楢本は思考が止まった。
元妻の話では、その日、いきなり娘が岡山に帰って来たかと思うと、続けて大学も辞めて来たという話を始めたらしい。一体何があったのかと聞いても、どうもそれがはっきりしない。そこで、娘がお風呂に入っている隙に、娘の持ち物を調べてみると、財布から産婦人科の診察券が出て来たので、まさか妊娠でもしたわけじゃないよねと冗談交じりで尋ねてみると、娘はすんなりそうだと認めたらしい。そして、そのお腹の中の子を生むのか生まないのかと尋ねると、生むとはっきり答えるものの、その子の父親が誰であるかについては、堅く口を閉ざして何も明かさなかったらしい。今は言ってくれなくても、少し時間が経ったらきっと打ち明けてくれるものと信じて、それからはそのことについて一切触れていないということだった。
楢本は、その話を聞いて尚更、娘と会いたくなった。そして、娘と話をしたくなった。
「霞と替わってくれ」
「今はそっとしておいてあげてよ」
「霞の声を少しでもいいから聞きたいんだよ」
「霞のことを思ったら、そっとしてあげるべきでしょ」
「しかし」
「やっぱりあなたは身勝手な人ね。人の心配をしているようで、実は自分の気持ちを落ち着かせたいだけなんでしょ!」
元妻は、そう言って、さっさと電話を切ってしまった。楢本はどうしても今、娘の声を聞きたいと思い、すぐにでも電話を掛け直そうとしたが、その時ふと、先ほどの元妻との電話の近くに娘がいたのかが気になった。そして、もしそうなら、自分から電話が掛かってきたことに当然気がついただろうと思った。しかし、それでも娘が自主的に電話に替わろうとしなかったのなら、再びこちらから電話を掛け直しても、やはり電話口に娘が出ることはないだろうと思った。それで仕方なく、楢本はこちらから電話を掛けるのを諦めて、娘からまた連絡が来るのを待つことにした。
最初のコメントを投稿しよう!