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第七章 娘の死
楢本光男の娘が岡山に戻った後、楢本は何度娘の携帯に電話を掛け、そして岡山の家にも電話をしたかわからなかった。しかしその全てが空しくコールを聞くだけの作業になっていた。勿論岡山に娘を訪ねて行こうとも思った。しかし、元妻の手前、どうしてもそれが出来なかった。
そして楢本が、次に娘に会えたのは娘の葬儀の時だった。楢本はどんな嫌な思いをしても、娘に会いに行くべきだったと自分を強く責めた。
元妻は、葬儀の日程だけを伝えて、楢本に出席を促すこともなく、さっさと電話を切ってしまった。
電話が切れた後、楢本はまるで木枯らしの中にいるようだった。いつしか楢本にとって、娘が心の支えになっていた。と言うよりも、ずっと前から娘は、楢本の生き甲斐であったのだろうと思った。妻と離婚した後も、娘とは繋がっていたいと願った。だから、大学進学で娘が東京へ出て来ると知った時には、飛び上がらんばかりに喜んだ。そしてそれからの四年間、楢本は娘を身近に感じ、そして大切に接してきた。このような時間が永遠に続くわけがないことはわかっていたが、それでも楢本は父として、娘の霞をこの上なく愛していた。
それが突然娘が死んだと聞かされた。楢本の前から永遠に消えてしまったと告げられた。あんなに明るかった子が、あんなに元気だった子が、あんなにいい子が、どうして死ななくてはいけなかったのかと思うと、涙は次から次へと流れ出た。
翌朝、楢本は、岡山に向かう列車の中で、娘との対面のシーンを何度も繰り返して想像していた。それはそうすることで、実際に娘の遺体を目の前にした時に取り乱さなくて済むのではないかという思いがあったからだ。
事実娘は、とてもきれいな顔立ちをしていた。それは父親としての欲目ではなくて、一人の男として見ても確かにそう思えた。だから、もう息がないとわかっていても、きっと美しい顔で布団に横たわっているだろう娘の顔をしっかりと記憶に留めておきたいという思いがあった。
ところが、岡山の家に着くと、楢本は唖然とした。娘の遺体は既に焼かれた後で、そこには白い骨壷が仏壇に置かれているだけだった。
実は、娘は数日前に亡くなっていた。そして元妻の意向でさっさと密葬が行われてしまっていた。娘の死は、勿論楢本には受け入れがたいものだったが、それでも娘の最期の死に顔くらいは脳裏に焼き付けておきたいと思っていた。
「どうして?」
楢本はあまりの事態に、その場に膝を突いた。ところがそれを見た楢本の元妻は、楢本のその言葉の意味を取り違えた。
「産後の肥立ちが悪くてね。それで亡くなったの」
楢本はそれから東京に戻っても、娘を失ったショックからなかなか立ち直ることが出来なかった。それでも楢本は、前田には、せめて娘の就職の件のお礼をしなければいけないと思い、憂鬱ながら、その重い腰をあげて、前田の研究所に向かうことにした。
「久しぶり」
前田の第一声は、楢本の気持ちを軽くした。
「やっと来られたよ」
「葬儀は無事済んだのか?」
「ああ」
楢本はその話はしなくてはいけないと思いながらも、やはり触れたくない話題だったので、うつむいて「ああ」とだけ返事をした。前田にもその楢本の気持ちが通じたのか、それ以上その話題を振ることはなかった。それから楢本は、娘の葬儀の話には触れずに、娘の思い出を語った。いつしか楢本の目にだけではなく、前田の目にも涙が溢れていた。
やがて楢本は、前田の研究室に来てから、自分の気持ちが次第に穏やかになって来ているのを感じた。楢本は娘の葬儀の後、ずっと前田には連絡をしていなかった。それが前田に会いに来られるまでになって、そして今、彼の前で穏やかな笑顔をしていることに、自分でも不思議な感じを覚えていた。そしてそれは前田にしてもそうだった。前田は楢本のことをずっと心配していた。娘の葬式以来、音沙汰がなかった楢本のもとを何度訪ねようかと思ったが出来なかったので、今目の前に笑顔でいる楢本を見て安心をした。そこで、一瞬話が途切れた時に、気になっていたことを聞いてみることにした。
「赤ちゃんの父親は誰なんだい?」
しかし、楢本は笑って首を横に振った。
「え?」
「知らないんだ」
「知らないって……」
「娘は言わなかった。言わないまま逝ってしまった」
どうやらお腹の子の父親は、彼女の葬儀にも顔を出さなかったようだ。そしてそれは、葬儀に来られない関係だったのか、それとも葬儀のことを知らなかったのか、その理由はわからなかった。しかし、いずれにしろ、もう彼女とは何の関係もない存在だろうと思った。そして、結局彼女はその男との縁を切ったのだから、今更それを穿り返すようなことをして、何か嫌な思いを楢本にさせたくないと思った。そういう結論に達すると、最早その男のことは、前田にはどうでもいい存在になった。
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