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第八章 心の変化
楢本光男にとって、娘の死はただただ悲しかった。娘の思い出だけを追い掛けていた。周りの知人は早く忘れろと言って来たが、楢本はそれを拒否した。楢本には最愛の娘を忘れることなど決して出来なかったからだ。勿論もう二度と娘が戻って来ることはないとわかっていた。わかってはいたが、娘の面影にすがることで、楢本は日々の生きる糧を得ていた。
それが或る日、楢本は、自分の心の内に奇妙な変化が生じていることを感じた。それは、悲しみに打ち拉がれる一方で、何か別のものに支えられている自分を感じ始めたからだった。それは、はっきりとはわからなかったが、今までになかった何か新しいものだった。それは何だろうと思った。それは娘の死を克服したということだろうかと思った。しかし、それはそうではなかった。娘の死を乗り越えることは、楢本には出来なかった。死を忘れることは出来ても、乗り越えることは出来なかった。しかも楢本は、その忘れることさえも拒否していたのだから。そうだとすれば、それは娘の死に代わって、何か別のものが楢本を支えるようになっていたということだった。
みどり―それは、娘が生み出した忘れ形見の存在だった。娘の生んだ子が、娘に替わって彼を支えるようになっていたのだった。
楢本がそのことに気が付いたのは、孫の写真がきっかけだった。それは、娘の葬儀の時に、帰り際、あわてて撮った唯一の写真だった。それは、娘の葬儀の祭壇や遺影を写そうと思って用意していたデジタルカメラの中にあった。実は楢本はその存在をすっかり忘れていた。娘の葬儀の思い出は辛く、嫌なことしかなかったので、楢本はその時に写した写真の事も思い出すことはしなかった。そしてそれを心の奥に丸ごと封印していたのだった。
ところがその日、楢本は岡山に持って行ったデジタルカメラの中に、祭壇に飾られた娘の遺影が収められていることを思い出して、それを見ようとしたところ、その写真の片隅に、近所の女性に抱きかかえられた孫の姿を発見したのだった。
楢本はずっと孫の存在を無視していた。それは、娘の子であっても、どこの馬の骨とも知れぬ男との間に生まれた子だったからだ。そして、楢本は孫の存在を呪ってもいた。それは、孫の出産が娘の命を奪ったからだった。しかし偶然発見したその嬰児(みどりご)の姿を一目見て、まるで新芽のような溢れる生命力を楢本は感じた。そして、その瞬間、楢本の中に、何か生きる希望が広がって行くのを感じた。
それからは、孫の存在は、娘が生きた証であり、唯一自分と娘とを繋ぐものであると思えるようになった。楢本は今では孫の存在を寧ろ祝福していた。すると、突然楢本は前田に会いたくなった。会って孫のことを話したくなった。それで楢本は、後先考えずに前田の研究室に電話をしていた。
「名前は『みどり』っていうんだ。かわいかったよ。元妻の手前、会いに行くことは出来ないけど、大学は東京に来させる。そして娘と同じ道を歩ませて……そうだな、就職先はお前の研究所に頼むよ」
楢本の輝いた顔が、電話の向こうの前田にも伝わった。
「わかったよ。お前の孫の就職は任せておけよ。でも、お前もそれまでは頑張ってくれないとな」
「ああ。頑張るよ」
「ああ。ファイトの『ファ』だよ」
「え?」
「ああ、これか? 歌だよ」
「あ、そうだったな、その歌はお前の応援歌だったな」
「お前に『みどり』なら、俺には『ドレミの歌』だよ」
「なんか関係あるのか?」
「似てないか? みどりとドレミ」
楢本の生気が前田にそんな冗談を言わせたのかもしれなかった。まだ一歳にもならない赤ん坊のことなのに、楢本の期待と夢とは、もう二十年以上も先の未来を見ていた。
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