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吹き抜けた桜色
膝に手をついて、呼吸を整える。息をするたびに蹴られた背中が痛み、骨がきしむ。
国木たちの追跡を逃れるために、狭くて複雑な路地をあっちこっち走り回った。相当走ったというのに、少女はほとんど息を切らせていない。
「上手く撒けましたかね? あはは、先輩、疲れすぎでしょ」
そう言う彼女の頬は火照っており、髪の桜色と相まって、全体的に色合いが華やかだ。
「……いや、待て」
見惚れている場合じゃない。
「あー、まず」
「あ、ねえねえ先輩。あれ知ってます? 最近流行ってるんですって。フルーツサイダー」
彼女の指差す先に、『東京フルーツサイダー』と書かれたのぼりが立っている。キッチンカーでサイダーを売っているらしい。
「ああ、知ってる。飲んだことはないけど」
「すっごい美味しいらしいですよ。特にいちご味。シロップ漬けのいちごが丸ごと、ごろごろっとたくさん入ってるんですって!」
「いや、それよりだな」
「飲みたいなー。たくさん走って喉乾いちゃったし」
「あー……」
ちらり。とこちらを見る瞳には、全く隠す素振りのない期待の光がきらきら光っている。
いや、まあ良いんだけど。
「はい。えーと、助けてくれて、ありがとうございます」
お礼を言いながらいちごサイダーを手渡すと、少女は「どういたしましてーありがとー」とニコニコ笑い、遠慮なんて何もなくサイダーを受け取った。
桜色の唇が、細いストローをくわえる。細い喉が上下し、何口かのサイダーを嚥下したあとで、彼女は付属のスプーンで丸ごといちごを掬い上げ、口に運ぶ。
おいしーい! と大満足の彼女に、俺まで満足しそうになる。
……満足している場合じゃねえ。
「いや、あの、誰?」
当然の疑問を言葉にするまでに、こんなに時間がかかってしまうとは。
驚くべきことに、俺はこのやけにフレンドリーな少女の正体に、心当たりが微塵もなかった。
少女はちょうど咀嚼していたいちごを飲み込んだあとで、わざとらしく顔をしかめて頬を膨らませる。
「えー、先輩ったら常識ないなあ。人に名前を尋ねるときは、まずは自分から名乗るものでしょう?」
「あ、ああ。俺は……」
「待って! 言わないで! 当ててあげます! っていうか知っています!」
何なんだ、こいつ。ものすごいドヤ顔をしている。
「弦食イヅル先輩。そうでしょう?」
当たりだ。
「ダンジョンに一度も入ったことがないっていう!」
それも、当たりだ。
「ねえねえ、私と一緒にダンジョンに入ってみませんか? 私とだったら、きっと――」
……ああ、なるほど。こういう話か。
ある意味、俺は有名だ。国木の言う通り、ダンジョン童貞として。面白おかしい噂の種。
ダンジョンに入ったことないやつがいるらしいぜ。嘘。今時そんな人いるんだ。えー、この学校に? 誰?
ダンジョンに入ったことないって、就職とかどうすんだろうね。かわいそう。だれだれ? どの人? ほら、あそこに座ってる男子生徒。えー、そうなんだ。かわいそー。
なあ、ダンジョンに入れないってマジ? ちょっと入ってみてよ。どうなんの? あ、面白そう。見たい見たい!
「……助けてくれてありがとう」
脈絡なくお礼を言うと、少女は「へ?」と首をかしげる。
「お礼だったら、さっき聞きましたけど」
「悪いけど、俺、そろそろ帰るから」
好奇心や物珍しさで、見世物にされるのは御免だ。どうせこの子も、「噂のアレ」を見てみたかっただけなんだろう。それで、あんまり惨めだったから、あまりにも可哀想だったから、助けた。そういうことなんだろう。
「あ、待って……」
背後から追いかけてきた声を無視して、俺はバス停に向かう。少女はなおもついて来ているようで、「怒ってます?」とか「話だけでも」とかいう声が、肩越しに聞こえてくる。
全部。全部無視して、ちょうどやって来たバスに、滑り込みで乗り込んだ。
動き出したバスの窓から、綺麗な桜色が見える。彼女は何か言いたげにこちらを見ていたけれど、すぐにバスは動き出し、淡い春の色は車窓の外へと流れていった。
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