吹き抜けた桜色

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 豚肉の焼ける良い香りが立ち上る。  豚肉に火が通ったら、硬めの野菜を投入。キャベツの葉の部分は最後。  当たり前にこなせるはずの調理過程を、必要以上に反芻しながら夕食を作る。そうでもしていないと、余計なことばかり考えてしまいそうだった。  今日は色んなことがありすぎた。色んな感情に翻弄されすぎた。  どうせパッとしない人生なら、せめて平坦に生きていきたい。トラブルもなく、怒りとか悔しさとか、そういう感情にも振り回されず暮らしたい。  そんな俺の願いを、あらゆるものに踏みにじられた。そんな1日だった。  そんなことを考えながら夕飯を作り、ちょうど野菜と豚肉のポン酢炒めが出来上がった時、インターホンが鳴った。玄関から「ただいまー、開けてー」という声も聞こえる。  俺はインターホンに応じることなく、直接玄関へ行って鍵を開けた。 「おかえり、あわいさん」 「ただい……って、うわ、なにそれ痛そう」  あわいさんは、俺の頬を指差して目を丸くした。国木たちに殴られた頬が、しっかり腫れてきている。 「喧嘩した」 「珍しいね。ちゃんとやりかえした?」 「1発だけ」 「お、えらいぞー」  あわいさんは俺の頭をがしがしと撫でて、「お腹すいたー」と言いながら奥の部屋へ上がっていった。俺は撫でられて乱れた髪を手櫛でなおして、玄関の鍵をかけ、あわいさんに続いて部屋に戻る。  あわいさんは、俺の未成年後見人――要は、保護者だ。  母親はおらず、父親もダンジョンに潜ったきり帰ってこなくなり、親戚縁者にも心当たりがなかった俺は、12歳にして天涯孤独の身となった。  そんな俺を引き取ってくれた女性が、あわいさんだ。父親の知り合いだったとは聞いているけれど、どういう関係だったのかはよく知らない。  ゆるっとしたテンションの人だけど、国家公務員として異空間管理庁に勤める、なかなかのエリートだ。実際、わりと何でもそつなくこなす。  料理だって、あわいさんの帰宅が特に遅くなる日は俺が作ってるけど、それ以外の日はちゃんと栄養バランスの取れたご飯を作ってくれるし、保護者としての義務は果たしてくれている。  片づけは苦手みたいで、すぐに部屋を散らかすけれど。  俺がトラブルに巻き込まれた時も、ちゃんと心配してくれるし、時には俺以上に怒ってくれる。 「それにしても、イヅルくんが喧嘩かあ。いつもは冷めた態度で、嫌味も悪口も受け流しちゃうイヅルくんが、殴り合いの喧嘩ねえ……逞しく育ってくれて、あわいさんは嬉しいよ」 「保護者として、暴力沙汰は咎めるべきなんじゃ……」 「えー、青少年なんて喧嘩してナンボじゃないの? よっぽどムカついたんでしょ?」 「うーん……まあ、不正の片棒かつげとか言われたら、さすがに」  夕ご飯を食べながら、今日あった出来事をかいつまんであわいさんに説明する。あわいさんはウンウンと頷きながら聞いてくれ、俺が国木を殴ったシーンになると「ナイス逆襲!」とサムズアップした。それで良いのか保護者。 「舐められっぱなしだと、ろくなことにならないからねえ。でも、3対1じゃ結局ボコボコにされたんじゃない? 骨とか内臓とか、いっちゃってる感じない? 念のため、明日は病院に行こうか」 「いや、たぶん大丈夫。湿布貼っとけば治るよ」 「そう?」  あわいさんは、さっきまで浮かべていた微笑を引っ込めて、真剣な顔で俺を見た。その紫色の瞳には、薄っすらとした悲しみが浮かんでいる。 「イヅルくん、自分の運命を呪ってはいけないよ」 「……うん」  そういえば、あわいさんと一緒に暮らし始めた最初の日も、あわいさんは俺に同じことを言った。  ――自分の運命を、呪ってはいけないよ。  唯一の肉親である父親をダンジョンに奪われ、そのダンジョンには自分は入ることが出来ず、同級生にも世の中にも置いて行かれる運命。  でも、呪ってはいけない。これが俺の運命だ。俺の運命を呪うということは、俺自身を呪うということだ。 「分かってる。ごちそうさま」  空になった食器をシンクに重ねて、風呂の支度に入る。「お風呂から上がったら、湿布貼ってあげるからね」と言うあわいさんに適当に返事をして、俺はタオルと着替えを持って、脱衣所のドアを閉めた。 「……分かってる」  呪ってはいけない。でも、呪わずにはいられない。  俺を置いてダンジョンへ行ってしまった父親を。父親を奪ったダンジョンを。遊び半分でダンジョンへ潜り、俺を見下して蔑む奴らを。  そして、俺をダンジョンへ行かせてくれない、俺自身のスキルを。  俺が、どうしたって俺の運命を呪ってしまうことを、あわいさんも分かっているんだろう。だから、あんなに悲しそうな顔をする。 「……ごめん、あわいさん」  熱い湯に鼻まで沈む。体中の傷が、ひりひりと沁みて痛い。  やり場のない苛立ちと情けなさを、呼気に交えて吐き出してしまう。ぶくぶくと泡立つ水面をぼんやり見ながら、俺は自分でも気が付かないうちに、あの少女のことを考えていた。  桜色の、あの少女。あの子だけが、憂鬱だった今日の中で、きらきらと色を持って輝いていた。  まるで、春の桜並木を駆け抜ける、暖かな春風のように。 (……いや、どっちかというとあれは、春の嵐だったな)  国木の顎にバッチリ決まっていた、2発目のグーパン。1発入れるだけじゃなくて、2発目もかますって最高だよな。しかも顎に。あんなめちゃくちゃ良い笑顔で。  あんな見事なグーパンを見せてくれたんだ。もし彼女が俺のことを興味本位で見ていたのだとしても、今になって思えば、そんなのはどうでも良いことのように思えた。  今度会ったら――もし、また会えたら。  逃げるように帰ってしまったことを謝ろう。そして、もう一度サイダーを奢って、それから、少しくらい彼女の話を聞いてやろう。  ああ、それにしても、あの時の国木の顔。鳩が豆鉄砲を食ったような顔って、ああいうのを言うんだろう。 「……ふふ」  思い出し笑いをすると、お湯がまたぼこりと泡立った。
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