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あたりをつけた無数の線から、これだと思う線を選んでなぞっていく。レイヤーの表示切り替えでラフを消して、清書の出来栄えを確認する。またラフを表示しながら線を選び、ラフのレイヤーを非表示にする。有名な先生は一発描きで出来る作業も、私は確認しながら進めないと駄目だった。漫画家としてデビューして、周囲から先生と呼ばれるようになっても、私の優柔不断さは直ってくれない。
資料を確認しようと棚に手を伸ばした時、一冊のスケッチブックが転がり落ちた。バサッと羽ばたくような音を立てて、無造作にページが開ける。やれやれ、急いでいるのに。重い腰を上げてスケッチブックを拾い上げる。ページに描いてあったものを見て、私は動きを止めた。
懐かしいデザイン画がそこにはあった。りんちゃん、この漫画に出てくる主人公の幼馴染として出てくるはずだったキャラクターだ。
新人賞を取ったら、受賞作が読み切り作品として掲載される。けれど応募作がそのまま掲載されることは稀で、普通は掲載前に編集者のテコ入れがある。私の場合、王道な恋愛ものを描いていたわけだけど、幼馴染の存在はノイズになると担当さんから言われた。ヒーローとヒロイン、そこに別の子が入ると三角関係をミスリードさせてしまう。読み切りという尺を考えても、幼馴染の登場を削った分二人の気持ちをしっかり描いた方が良い。編集者の指摘は的確で、ぐうの音も出ないほど納得出来た。
けれど私にとってりんちゃんは大切な娘だった。消していいのか、迷って、迷って、迷って迷って迷って、決められなくて、時間だけが流れた。一週間が経った時、担当さんが痺れを切らして、幼馴染を登場させるならデビューは見送ると言ってきた。それで、りんちゃんを消すことを決めた。読み切りの評判次第では連載にこぎつけられる、そしたらりんちゃんを出せばいい、担当さんはそう慰めてくれた。
登場をなくしても殺すわけじゃない。優柔不断な私にとって救いの考えだった。けれど読み切りの評判が上々で、連載が始まって、単行本の出版が決まるほど続いても、りんちゃんが出るタイミングはなかった。それどころかヒーローの幼馴染として別の子が登場している有り様だ。名前はあいちゃん。甘えたで、ちょっとおませな女の子。控えめでお利口なりんちゃんを出すよりも面白くなるからと、担当さんに言われて作った。お陰で漫画の評判は上々だ。りんちゃんはいよいよ居場所をなくした。
デビューはしたかった。子供の頃からの夢だったから。けれどそのために、私はりんちゃんを日陰へ追いやってしまった。もう三年も前のことなのに、チクッと胸が痛くなる。スケッチブックの絵に触れれば、この子と作品を作っていくんだと目を輝かせていた頃の自分に引き戻されるかのようだった。
担当さんははっきり言わなかったけれど、連載を経た今ならわかる。りんちゃんは、作品を退屈にするノイズだった。ペン入れの時に選ばれない線と同じで、いつか必ずと候補に上げても本番までには消えている子。よく考えたら当たり前だ。初恋の甘酸っぱさに揺れるヒーローとヒロインの物語を面白くするには、ヒーローを応援する都合のいいお友達ではなく、恋路を邪魔するライバルが必要なのだから。りんちゃんなんていなくても、初めから話は成立していた。
でも、だけれど。優柔不断な私が顔を覗かせる。
りんちゃんの居場所は本当にないんだろうか? 私の中で色んな表情を見せて、動き回っていたあの子はこのまま消え去るだけ?
ああ、嫌だな。スケッチブックを握る手に力がこもる。
でも一体どうしてこんなに嫌なんだろう? 念願のデビューを果たしたのに。りんちゃん以外は描きたいものが描けているのに。
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