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目を覚ましたのは二日後だった。足を踏み外して、そのまま死にかけた私を介抱したのが燕子花だった。瞼は重く、手足は糸が切れたように感覚を失っていた。頭には霞がかかってぼんやりしている。金縛り。しっとりと花のようなにおいがする。いまは何時だろうか。暖かい。
「これは人の骨、兎の骨、大きな蜥蜴の骨、獣は少ないが、骸骨ばかり」
遠く、低い調子の声が聞こえる。大人びた少年のような涼しい声。聞き覚えはないが、心地良い。打ち捨てられたゴム人形の体は、痺れが切れて、徐にびりびり痛み始める。微かな香水の匂いが空気と一緒に動く。今日は何日だったか。もう一度眠ってしまおうか。声が近づく。
「熱は下がり切っていない。傷は良くなったかな。失礼」
布団がさっと取れ払われて、頭が冴える。夢か。夢ではないのか。骨が軋んで身動きがとれない。失くしていた腕を優しく持ち上げられて、やっと血が通う。柔らかい。全身に無数の傷ができたようにじわじわと痛い。肌寒い。瞼が薄く開いて、眩しさに怯んだ。
髪の短い少年が、冷たい指で私の手の甲を撫でた。やっと目の覚めた私は、わけがわからず短く息を吸いこんだ。少年の色素の薄い瞳が震えて、ぼけた焦点が合う。
「意識が戻りましたか。ご自分のことがわかりますか」
あの涼しい声、右の手を握ったまま、少年はこちらを覗き込んだ。さらさらと黒い髪が滑り落ちる。切れ長の目からは何の感情も読み取れない。綺麗な人。何事か言おうとしたが、掠れた風の音がするだけで声が出ない。少年は少し口元を緩めて首を振った。甘い匂いがする。
「無理に話そうとしないで。包帯を変えますから、少しじっとして」
そう言うとまた私の腕を持ち上げて、解けかけた包帯をするすると外した。見覚えのない小さな部屋、木箱のような部屋だ。狭い空間に、紙切れや瓶や大小の箱が敷き詰められている。まだ夢を見ているのだろうか。さっきの夢は嫌にはっきりしていた。冷たい山、気味の悪い木々と凍りついた地面。包帯の下は痣と切り傷だらけで痛々しかった。少年は傷口に何かの液体を塗り、慣れた様子で新しい包帯を巻き付けていく。気恥ずかしい。
「だれ」
かろうじてかさかさの言葉になった。少年は手を止めてこちらへ向き直った。
「燕子花といいます」
「カキツバタ……」
からころも、きつつなれにし、つましあれば、はるばるきぬる、たびをしぞおもふ、燕子花は手当を続ける。
「ここは私の家です。川のほとりで、倒れたあなたを見つけました」
淡々と話しながら、私の足を恭しく取った。彼の手は冷たい。まだ夢を見ているようだ。燕子花は何枚か布を巻きつけたような、着物のような不思議な格好をしている。夢か幻覚か、そうでなければ、私の願いが叶ってしまったのか。都会の喧騒、家族、同級生、理由もなく悲しい世界から、遠くへ飛んでいってしまいたいと願い続けた。
「水が少ないのは幸いでしたけれど、大怪我をしているし、体は恐ろしく冷たくて、死んでいるのかと。この山はむくろ山、死の山です」
「むくろやま……」
静かな山だった。掠れ声でおうむ返しをする私に、燕子花は初めてくすくすと笑った。淑女然として控えめな、どこか高慢な感じのする笑い方で、不思議と似合った。
「あれほど綺麗な死に顔を見たことはない。思わず引き上げてしまいました。よく命があったものです」
包帯を巻き終わると、また布団を被された。それから満足に動けるようになるまで七日ほどかかったが、燕子花は甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。
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