山で

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 燕子花は行商をしているようで、木箱は巨大な荷車だった。エンジンもなければ、牽引車も馬も牛もいない。これを、燕子花はしなやかな細腕で曳くそうだ。あの華奢な背中にどれほどの力があるのか。車内にはたくさんの荷物ががちゃがちゃ押し込められて、力自慢が叩いたって動きそうにない。私の寝ている布団も、怪しい小物に囲まれている。黒ずんだ小さな骨、何かを詰めた透明の瓶、がりがりと音のする黒い箱、干からびた虫のようなもの。床には藁半紙みたいな薄い紙が散らばっていて、鮮やかな色の、奇妙な化け物が描かれている。昼でも夜でも変わらず薄暗い。自分もこの不気味な収集品に加わったような感じがする。あそこにふたつ、みっつ、よっつ踊っている、陶器の人形。壁にかかった、人に似た骨格。妙な想像をして、一人でいると不安に駆られた。燕子花は長い時間を外で過ごしていた。戻るのは私を世話するときだけで、眠っているところも見なかった。  ものを食べられるようになると、どろどろの粥みたいなのを出された。あたたかくて、少し塩の味がする。喉を通った熱は、ゆっくりと腹へ落ちて、夢ではない。現実でもない。体はまだ少し痛む。私は何故ここにいるのか。  いつだったか、ふたつ上の生徒が事故で記憶を失ったことがあった。みんな一斉に嘆いて、兄はあの頃しょっちゅうその話をした。朗らかな人気者の、人格がまるでかわって、家族も友人も消えてしまった。そんなセンセーショナルな事件も、三月で話題に上がらなくなった。私が突然いなくなったとして、悲しむ人がいったいどれほどいるのだろう。    セーラー服はぼろぼろで着れたものじゃないから、燕子花が着物を貸してくれた。私の知る着物ではなくて、角子を結った、飛鳥の王子のような衣装だ。ゆったりした生成りの肌着に、曇りの日没のくすんだ紫と、熟れた果物の鮮やかな赤を重ねて、柔らかい細い帯を締める。肌着の手首足首を結って、袖口からひらひら白が覗くのが、華美なブラウスのようだ。布地はどれも使い古しで少しくたびれているが、金色の糸で蝶や蛾や色々な虫が刺繍されて、明らかに高級な晴れ着に見える。彼のお下がりか、それとも収集品のひとつだろうか。何の曰くがあるんだか考えるとぞっとしない。  荷車の外には黒々とした森がぽかんと開けていて、小さな川が流れている。私の沈みかけた川だろう。近くから湧き出しているようで、水は冷たく清涼だが、不気味なほど魚も蟹も虫も何もいない。昼間は暖かく日が注ぎ、葉は静かに震え、月の夜には神秘的に白く光っていた。太い木々は自由に枝を伸ばして堂々たる姿だった。本当にあの悪夢の山かと、疑うほど美しい。土には白く乾いた骨が混じり、生物の気配はなく、異様な清潔さに冷たく死が滲んでいた。 「あまり近付けば、また引き摺り込まれてしまいますよ」  冷たい流れに指先を浸けていると、愉快そうに声をかけられた。彼がいつからそこにいるのか、どこへ行くのか、私には何もわからない。この森のことも、川のことも、むくろ山のことも何もわからない。 「ここには何か住んでいるの?」 「何も生きてはいませんが、死がいます。あなたも追われたように」  あれが死。 「燕子花さんは、どうして捕まらないの?」 「隠れるのにもこつがあるんですよ」  立ちあがろうとして、ついよろめくと、静かに手を取られる。また、死に捕えられるところだった。燕子花の手は、山のように沈黙している。水を触っていたから、私のほうが冷たい。彼の柔らかい手のひらには、傷も肉刺もない。大荷物を引き摺った跡はひとつもない。燕子花はそのまま私の手を引いて、恭しく驚異の部屋へ仕舞った。
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