スパイ

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 張り詰めた空気の中、金属がぶつかり合う音だけがこだまする。先刻まで聞こえていた喧騒はもう聞こえなくなり、まるでこの世界には俺とヤツしかいないかのように錯覚する。いや、それは確かにただの錯覚だ。油断してはいけない。防壁越しにヤツと下卑た笑みを交わす男に再び意識を向ける。つい前回の失敗が脳裏によぎり、意識が先走ってしまった。いくらターゲットとはいえ余計な感情を抱いてはならない。なんせこれは極秘任務なのだから。  前回はあの男の邪魔が入り任務に失敗したのだ。前回の雪辱を意識するあまりにあの男の存在を忘れてしまっては元も子もない。  「おい、本当にそんな手口で大丈夫なのか?この前は奴らに感づかれていたじゃないか。」  俺が潜んでいることにも気づかずにわざわざ手の内をさらすとは。保険を用意する必要もなかったみたいだな。 懐に入れたものを手の中で転がす。  前回の失敗の反省を生かして手を打っておいたのだ。俺の推測が正しければ、これが最悪の場合にヤツとの交渉材料となりうる。まあ使わずに済みそうだが。 「心配しすぎよ。それにこの前と同じじゃないわ。目的は達成できたけど、この前は仕込む前に奴らに感づかれたのが失敗だった。」 「ああ、もうこの前みたいなことは俺もごめんだ。追い詰められた奴らは手を付けられねぇ。」 「だから、今回はアレの隠し場所を変えたの。―――よ。あそこなら問題ないでしょう。」 「・・・だが、そこだと発見さえしてしまえば容易に回収できてしまう。そうだろう?」 「ええ、でもあんなところに隠すなんてそうそう思いつかないわ。そう。隠し場所さえ知られなければ問題ないわ・・・。」  すでにそのポイントに向かい始めたスパイには、最後に女が浮かべた微笑など知る由もなかった。  ここか。確かにここはどんな物好きでも来たがらないだろう。暗く狭い空間に無造作に並べられた物体は奇跡的なバランスで崩落せずにいるようだ。こんな危険な場所に長くいれば俺でも精神が摩耗してしまう。ーだが、見つけてさえしまえばあとは何も難しいことはない。一刻も早くブツを処分し・・・?! 軋むような音を聞き振り向くも、すでに先ほど通った扉は閉まる寸前。まさか。ヤツらには気づかれていなかったはず・・・なぜだ。いや、どうする。どうする。どうする。どうするどうするどうするどうする・・・!  「はい、捕まえた。もう野菜は渡さないわよ、今日こそは絶対に食べさせますからね」  階段下の物置でスパイは上機嫌な声の主に抱き上げられる。 「もう、またこんなことして。大事な指輪を持ち出すんじゃありません。・・・まったく誰に似たのかしら。」  実の息子を罠にかける母親以外に誰がいるのか。・・・あれか。昼間から家で洋画を見ているあの男か。まさか。あの年でモデルガンをもって鏡の前で恰好つけている男に似ているところなんてあるわけがない。おっと、それより逃げなくては。  処分に失敗した以上、アレは今日の夕食の何かに混入されるはずだ。何に混入されるかわからない以上、うかつに手を出せない。今日は基地で作戦を練り直すしかなさそうだ。  そうしてスパイは自室の机の下に設けた段ボール製の基地の中で弟たちと夕食ボイコットを敢行するのだった。
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