1章(2)

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1章(2)

 質の悪い脂と軟骨がふんだんに使われた爆弾ともいうべき肉団子を四日かけて食べきった頃、藍豪(ランハオ)の部屋に客人が訪ねてきた。  客人が建てつけの悪い扉をガンガンと叩き、催促するように鍵のかかったドアノブをガチャガチャやるものだから、藍豪はすっかり機嫌を損ねながら扉を開ける。 「お前――」  五日前にも来ただろ、と言いかけて口を(つぐ)む。藍豪より頭ひとつ分ほど低い位置にある男の顔は、げっそりと頬がこけて土気色(つちけいろ)になっている。五日前に見た時は、まだここまでひどくはなかった。飛び出さんばかりに見開かれた目は充血しており、なにかを探すように藍豪の部屋を覗き込んでいる。  男は薄汚れた上着のポケットからごっそりと紙幣を取り出すと、眉をひそめる藍豪の手に無理やり握らせた。紙幣は雨や汚物で汚れたようにぐっちょりと濡れており、ひどい臭いがする。正当な労働の対価ではないことはたしかだ。仕方なしに、握らされた紙幣の枚数を数える。  藍豪は紙幣を数え終えると、手のひらを男の上着の比較的綺麗な場所で拭った。 「二回分だ」  男の目が驚きにますます見開かれ、眼球がこぼれ落ちそうになる。 「二回分なわけないだろ! これだけ集めるのに、五日もかかったんだぞ……!」 「文句があるなら売らない」  男の唇の端が、ぷるぷると震えている。  きっと男は、これ以上我慢できないだろう。こうして藍豪と話している間にも、男の躰は離脱症状に蝕まれているはずだ。関節という関節が悲鳴を上げ、その痛みは耐え難いものだと聞く。  藍豪はすこしだけ身をかがめると、男の耳元に顔を寄せていくらか優しい口調で男に囁いた。 「よく考えてみろよ。こんなドブさらいのきったねぇ金で、お前みたいな末期中毒の奴に阿片(あへん)を売ってくれる場所が、他にいくつある?」  男の喉が、息を呑み込めなかったようにぐうと鳴る。  藍豪も、男も、よくわかっている。阿片中毒でろくに働けなくなった人間に対してなおも阿片を売ってくれるような場所は、そうそうない。藍豪は末期中毒者の最後の砦なのだ。金さえあれば――それがどんな金だったとしても、藍豪は金額に見合った分の阿片を売る。金額を吊り上げたりはしない。そのほうが儲かることを、藍豪は身をもって知っているからだ。 「に、二回分、くれ」  差し出した男の手は情けないほどぶるぶると震えている。二回分など、この男にとっては一日ともたない量だろう。阿片はやればやるほど効きにくくなり、一度に使用する量が増える。  藍豪が薄い紙に包まれた阿片を男の手に載せると、男は涙目になりながら何度も頭を下げ、廊下に座り込んだ。 「おい、そこでやるなよ」  今にも紙を開こうとしている男に声をかける。自宅前が阿片窟(あへんくつ)になるなんてごめんだ。いくら無法地帯の九龍(クーロン)街区でも、自警団はそれなりに阿片中毒者に目を光らせている。それに煙が藍豪の部屋に入って来ないとも限らない。藍豪は阿片を売って生計を立ててはいるが、自分で阿片を使うことは決してなかった。  藍豪に睨まれて、男がよろよろと立ち上がる。まるで左右の脚の長さが違ってしまったような歪な歩き方で去っていく男を見て、藍豪はもう二度と会うことはないだろうと思った。次に会うとしたら、それは男が九龍街区の路地で野垂れ死んだ時だ。  藍豪は男が押しつけてきた紙幣をもう一度触る気にもならず、コンクリートが打ちっぱなしの部屋の床に捨て置くことにした。放っておいても月末に集金に来る(ウー)星宇(シンユー)が嫌々ながら回収していくだろう。  藍豪は雇われの阿片売買業者である。香港を拠点として阿片売買や人身売買などを行っている組織「瑞蜜会(ルイミーフイ)」に雇われる形で、瑞蜜会が各地で栽培し、製造した阿片を個人へ売りつける仕事をしている。いわば、瑞蜜会と阿片中毒者の間に立つ窓口である。  瑞蜜会は決して自分たちの名前では阿片を売らない。藍豪のように瑞蜜会から卸した阿片を(さば)く売人を何人か抱えているだけだ。月末に売人を取り仕切る(ウー)星宇(シンユー)という男が来て売上金を回収し、阿片の在庫を補充していく。藍豪は売上金の二割をもらう。二割が多いか少ないかは、気にしたことがない。少なくとも、呉星宇のように西洋風の馬鹿でかい屋敷に住めるほど稼いではいない。  藍豪は絨毯(じゅうたん)のように薄っぺらくなった布団に腰を下ろした。床はコンクリート打ちっぱなし、その上にマットレスもなしに敷き布団を敷くはめになっているため、ほとんど床に寝ているのと変わらない。冬に多少、冷たさが軽減されるというだけの万年床だ。この狭い部屋では、敷きっぱなしの布団の上で生活するしかない。  天井にぶら下がる裸電球がチカチカと明滅し、命の終わりを告げている。藍豪の部屋にも窓はあるが、ほとんど日は差さない。向かいに建つアパートとの距離が近すぎて、完全に日光を遮られているからだ。昼間でも真っ暗闇同然の九龍街区のアパートでは、日中も電気をつけていなければ紙幣を数えることすら不可能だった。  一度布団に戻ったはいいものの、到底二度寝をする気分ではない。それに、久しぶりに肉団子以外のものが食べたかった。十二月に入って部屋の気温もぐっと下がった。鶏の出汁で煮込まれた熱々のビーフンか、甘辛く煮込まれた豚肉を炊きたての白飯と一緒にかき込むのもいいだろう。  そうと決まれば外へ出て屋台まで行くしかない。九龍街区の三階に、藍豪が今食べたいものは売っていない。  藍豪は身を縮めて部屋の扉をくぐると、しっかりと施錠した。売り物である阿片を保管している金庫にも鍵はかけているが、末期中毒の人間はなにをするかわかったものではない。  藍豪はふと思い立ち、隣室の扉を一度強く叩いた。 「米粉(ビーフン)か、把子肉(バーズロウ)」  どうせ屋台に行くなら、隣人の分も買ってきてやろうと思ったのだ。藍豪が問うと、隣室から「いらない」とくぐもった若い男の声が返ってきた。ぶっきらぼうなやり取りだが、二人の間ではちゃんと意味が通じている。  藍豪は男の答えを聞いてから、回れ右をして階段を下っていった。部屋にいる時はわからなかったが、外では冷たい霧雨が降っていた。
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