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額の汗を手の甲で拭うと、翡翠は校舎のちょうど中程にある2階の窓を見上げた。
あの窓際に蒼玉の席があり、ここから見ることが出来ると気付いてから、体育の時間はその横顔に何度となく視線を向けるようになった。
「翡翠っ!」
突然肩に腕を回され、意図せず爪と牙が鋭く変化しそうになるのを何とか堪えると
「なんだよッ!暑苦しいなぁ!」
一番親しい友人の三上の身体を押し離した。
「まぁた“弟”気にしてんの?」
それでも懲りずに伸ばされた手を翡翠は面白く無さそうに軽く払いのけた。
「別に見てねぇし……」
「見てんだろ……本当、お前っちゃぁ過保護な」
「だから見てねぇっつってんだろッ」
「まぁた、そんな強がり言っちゃってッ!心配すんなよッ。お前の弟、“見た目と違って優しくて可愛い〜!”って女子に大人気だから」
ニヤニヤしながら顔を覗き込む三上から目を逸らすと
───そんなん知ってるわッ!……
胸の中で悪態を吐いた。
まだ来たばかりの頃、どこか冷たそうに見られる外見のお陰で、蒼玉が苦労していたのを散々見ている。
帰ってくると寂しそうに耳を垂らした姿を何度も抱きしめた。そして少しづつ友人が出来たと話をする蒼玉を、翡翠も一緒になって喜んでいた。
───最初は俺だって……嬉しかったハズなのに……
それがいつからか、友達の話を聞く度に胸に靄が掛かったように重くなるのだ。
「昨日だって3年の女子に呼び出されてたらしいじゃん。あれぜってー告白だろ!?」
「は!?」
───そんなん聞いてないんだけど……
「あ……知らなかった?……まぁ兄弟なんてそんな話しねぇか」
その後もくだらない話を続ける三上の声が、一切入らなくなっていた。
蒼玉が女の子達に人気があるのは知っている。
教室でも蒼玉の話をしているのを何度も耳にしたし、直接聞いてくる女の子もいる……。
そしてその度になぜかイラつく。
子供の頃はいつでも自分の背中に隠れて、家族以外となんて喋ることすらしなかった。
───振り返ると必ず俺だけの蒼玉がいたのに───。
翡翠は苦しくなる胸に、無意識に体操着の裾を握りしめた。
この想いの正体が解らない。
それがまたイラつく。
「──翡翠!集まれってさ」
三上の声に我に返ると、もう一度蒼玉の横顔を見つめ
「ん……」
短い返事を返し、集まり始めた群れの中へ翡翠も走り出した。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「翡翠っ!」
夕方になっても余り変わらない暑さに吹き出す汗がイヤにイラつかせ、それをタオルで拭う翡翠の耳に聞きなれた声が届いた。
「お前スゲーじゃん!!またタイム縮んだぞ」
ひとつ年上の窪塚が、地面に腰をおろした翡翠の側までやってくるなり柔らかい髪をクシャッと撫でた。
「……また来てたんですか」
溜息を吐きながら見上げると
「先輩受験生ですよね」
呆れたように口にした。
「いいんだよ。たまには息抜きしなきゃ受かるもんも受かんねぇの!」
そう言って翡翠の肩に腕を回しストップウォッチを目の前に差し出した。
目の端には嬉しそうに笑う窪塚の笑顔が映っている。
「お前これ!インハイも狙えるレベルだぞッ」
興奮気味に捲し立てる窪塚の手に持たれたストップウォッチに目を移し、翡翠は初めてギョッとした。
本気で走った訳では無いが、イライラするあまりいつもより“手を抜く”事を忘れていた。
「───イラついてたからッ!……たまたまです」
狼の自分が本気で走ったら人間が叶う訳が無い。
誘われるままに『陸上部』なるものに入ってみたが、目立たない為に“本気ではやってはいけない”と琥珀と約束していた。
翡翠も勝ち負けに興味は無いし、ただこの狭い世界で持て余した体力を発散出来ればそれで良いと思っていた。
「なんだそれ」
もう一度柔らかな茶色の髪を撫でると
「なら大会の前はお前を怒らせなきゃな」
窪塚がニヤリと翡翠の顔を覗き込んだ。
陸上部に翡翠を誘ったのも他ならぬこの男だった。
入学してそうそう、1回目の体育の授業で走る翡翠に目を付け声を掛けてきた。
当時まだ蒼玉は中学生で寂しかったこともあり、窪塚に言われるままに陸上部に席を置いた。
それからと言うもの、陸上の事を驚く程知らない翡翠に、窪塚が常に側に置き全てを教えたのだ。
翡翠も初めて1人置かれた慣れない世界で、窪塚の存在は相当大きな助けとなった。
「……やめてくださいよ……。本当にたまたまなんだから……」
何故か不貞腐れる翡翠に、僅かに首に傾げると
「何不貞ててんだよ?……帰りにアイス奢ってやるから、機嫌なおせ……な?」
そう言ってまた髪を撫でる手に、翡翠は目を閉じた。
何故かこの男に“毛皮”を撫でられるのは、心地よく感じる。
───笑顔が少し……幸成に似てるからかな……
夕方の風が優しく翡翠の髪を揺らし、額に残った汗を乾かしていく。
「───もう一度走ります」
翡翠は立ち上がると
「アイス!絶対忘れないで下さいね!」
もう一度スタート地点へと歩き出した。
傾き掛けた太陽が走る翡翠を照らすように見せ、蒼玉はフェンス越しにその姿を見つめた。
お互いに違う時間を過ごし、あの美しい翠色の瞳に自分を映さない時間があることに、どうしてもまだ慣れない。
───相変わらず窪塚先輩と仲良いんだな……
蒼玉より近くで翡翠を見つめる背中に、胸の中が騒つく。
ここに来て、恐らく翡翠の口から一番聞いた名前が『窪塚』だ。その名前を初めて聞いた時から胸の奥が小さく騒いだ。そして今は、翡翠の口からその名前が音になる度にイラついている自分に気付き、それが自己嫌悪へと姿を変えるのだ。
ゴール地点でスピードを緩めた翡翠に駆け寄る姿から、蒼玉は目を逸らした。
───俺だけの翡翠だったのに…………
校庭から聞こえる、翡翠と窪塚のふざけ合う声から逃げるように、蒼玉は足早に歩き始めた。
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