“あの日だけは春風の香りがしました”

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“あの日だけは春風の香りがしました”

 古いホルマリン液の匂いを想像していたから、それとは異なる刺激臭に違和感を覚えた。新しいガーゼの匂い。ヨード液の匂い。様々な遺骸を収める棺ではなく、清潔な―生きるための匂いがする部屋だった。  嗅覚がとらえた刺激を文章に残すのは、視覚や聴覚に比べ困難だ。抑、文字に固定された記憶は、過去の事実と果たして等価になりうるか。  彼と過ごした時間をしるす意味は。  私が私の視点から語り直す意義は。  これらの問いに対する答えの一つとして、私は他ならぬ私の利己心を挙げてみよう。  あの実験室に再び向かう準備をしているのだ、と。
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