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胸ポケットのアルミケースを開けた植 健介は、取引先の担当者をチェックしていた。
「㈱イングレース商事 油脂・カカオ部長 斎木 周」とある。
会社の所在地やメールアドレス、ロゴマークを配しただけの、ほとんど白い名刺をつまみ上げた。
大企業だから、商品を細分化してエキスパートを育てているのだが、手広く投資商品を扱う自分とは違う気がする。
そして「一樹一河の一皿に出逢うレストラン」を会食の場に指定してきた。
ヨーロッパの家庭料理をテーマにしている、とのことであらゆる料理を食べ尽くしてきた商社マンにとっては、魅力的なチョイスである。
せわしなく歩く通行人に混ざって歩いていると、自分自身も同じリズムで足を運ぶようになる。
横目に立ち飲みカフェを一瞬捉えた。
コーヒーの香りが漂い、暖かい光が漏れている。
歩道が広くなり、レストランの控えめな看板が目につくようになる。
荒い敷石を踏みしめ、夜風に肩をすぼめて歩いていると、広いテラスが見えてきた。
いかにもヨーロッパ風な佇まいに、小さな木製の看板が辛うじて見えた。
「ここか」
店の前には、意外にも長蛇の列ができていた。
予約をしなくても入れるようだし、かなり広くて流行っているのが見て取れた。
小振りで庶民的な店なのかと思っていたが、少々勝手が違うようである。
「斎木さんの予約で参りました。
名月院商事の植です」
手元の名簿で確認した店員は高級感のある、くるみボタンがついた、襟付きの白いコックコートを着こなして、心なしか反り返った姿勢がフランスを思わせた。
皺ひとつなく整った制服が、店内を忙しそうに歩き、食器の高い音が店の外まで響いていた。
浅いお辞儀と手で店内へと促され、ついて歩くと誰もいない席に案内された。
オークのような木目調のメニューが開かれ、コップをトンと音を立てて置いた。
白いテーブルクロスも皺ひとつなく広げられ、中央に一輪挿しがアクセントを利かせていた。
一息ついて、メニューに目を落とそうとしたとき、1メートル以上も上から水を垂らしたのには驚いた。
フランス料理のレストランではダイナミックに水を注いでいるものだが、やり過ぎではないだろうか。
思わず身を躱したが、水は一滴もこぼれなかった。
ウエイターは澄ました顔で斜め上を見たまま、手でメニューを指し示すと踵を返して行ってしまった。
周りには、夕食を囲んで談笑する人の、幸せそうな顔があふれていた。
真っ白なクロスと、真っ白なウエイター。
そして暗い木の床。
あまり詳しくないが、耐久性があり歪みにくいウォールナットがよく使われると聞いたことがある。
コントラストが効いた店内を、忙しそうに歩く店員たちは何を考えて毎日仕事をしているのだろうか。
慣れた手つきで皿を集め盆に乗せ、乗せきらない物は腕に乗せて器用に運ぶ。
汁物も、淀みなく運ぶ姿は徹底したプロ意識を感じさせる。
高度な足さばきを、単純な作業を繰り返す中で身につけたのであろう。
ぼんやり考えていたが、メニューを手に取って端から読み始めた。
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