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menu.1 憧れのだし巻き卵(1)
夜も更けてくる頃合いの秋。新宿・歌舞伎町にある、バー【prism-butterfly】。一人の男がカウンターでウィスキーのグラスを傾けていた。
そのバーは、いわゆるゲイバーだ。が、カウンターの中で忙しくしているオーナーママの意向により、異性愛者も女性も事前予約さえしていれば入店が出来るというオープンな店である。
その為、男性以外にも女性がちらほらと混ざっていて、中にはママや従業員であるゲイ男性たちに人生相談をしにくる女性もいる。
今日は花の金曜日。チェーンの居酒屋のような騒がしさはなく、かといって沈黙が支配しているかというとそうではない。インストゥルメンタルの洋楽がBGMとして、耳障りのない音量で流れている。
ボックス席では客の楽しげな会話が聞こえるが、カウンターはウィスキーを片手にスマートフォンを注視している男以外、誰もいなかった。
それは、この男が店に来たときの暗黙の了解である。
〝この男には手を出してはならない。もしそれが発覚した場合、命は無い〟
これが常識としてまかり通っているのが、ここ歌舞伎町だ。そのため男の周りには、いつも人がいない。男も人を寄せ付けない。
それを知らないだろう二人連れの女性客が、座っているボックス席から男に秋波を送る。
男はため息をついた。意識的に、ボックス席方面の気配を遮断するように、カナルイヤホンを押しつけ直す。
「ねえねえお兄さん」
「はぁ~い~?」
カウンターから離れたボックス席に座っている一見客の女性グループが、注文の品を配膳しにきたバイトのボーイに話しかける。
「あのお兄さん、」
言いながら、ジェルネイルに彩られた指先で男を指す。バイトは苦笑した。
「ずっとあそこにいるけど、誰か探してるの?」
「あらヤダお姉さんったら。あの人に目を止めるなんて、お目が高いったらぁ~」
「だってクールそうだし、すっごいかっこいいじゃない! 体格も良さそうで!」
もう一人の女性が小声ながらも興奮しているように上擦った声で答える。
男の体格はよく、180センチという身長に美しく鍛えられた肉体を持つ。それをスマートなシルエットに見せるジャケットにスラックス姿。
顔の造作はどこから見ても麗しく、髪も夜天の色を映したような綺麗な黒髪だ。変な癖がついていることもなく、まるでそれが当たり前かのようにセミロングの髪が襟足から肩口を気品よく飾っている。
「まあ、確かにねぇ~」
しかし、このボーイは知っている。
彼は確かに、多くの人目を引くほどの美形と呼ばれる容姿を持っている。
『全日本人2、30代男性美形ランキング』というモノがあるとするなら、相当の上位に君臨するだろうことは間違いない。
だが、深く眉間に刻まれた皺と吊り上がった目つき。むっつりと結ばれた口元。瞳は曇りきっている。これらは何者をも受け付けないとばかりに、拒絶しか示さない。
声音も深い響きを持ってはいるが、それは凍り付いたように冷たい。普段は知人にすら、無愛想に見える態度を崩さないほどだ。
結果、とてつもなく近寄りがたい印象を与え、彼のようなタイプが好みという人間ですら近寄るのを躊躇う。
少し考え、ボーイは女性グループにこう答えた。
「う~ん、あの人、単純にここに飲みに来てるだけだから、誰の誘いにも乗らないと思うよ~」
すると、女性たちは「えぇ~」と不満の声を上げた。
「なんだぁ~。あわよくばを狙ってたのにぃ~」
そう言った女性が、ばふりとソファーの背もたれにもたれ掛かる。
「バッカ、あんだけカッコイイんだからきっともう相手がいるのよ」
「そっかぁ~」
ボーイは女性たちの会話に苦笑を深めつつ、仕事に戻っていった。
彼がほっと胸を撫で下ろしていることに、女性客たちは気付いていない。自分たちが一瞬、一方通行の奈落への道に入りかけていたことも。
ここはゲイバーである。ここで一夜の相手を見つけ、ラブホテルに赴く人物たちもいないわけではない。
ママも、客同士のナンパ行動を特段咎めたことはない。
もちろん問題行為を働いた人物は、カウンター裏奥の厨房にて黙々とおつまみを作っている、ママ愛しのダーリンによって強制退店の刑に処される。
望まぬお持ち帰り、ダメ、ゼッタイ。これはオーナーママの確固たるモットーの一つである。
だがそれとは別に、自身の命と引き換えのワンナイトラブなど、誰も謳歌したくなどないだろう。
(……)
カウンターを陣取る男性はちらり、と女性客たちの方を一瞬見やり、次いで嘲笑にも似た短いため息を吐く。
女性客たちとボーイの会話は、イヤホンから流れくる音に遮られて聞こえてはいない。だが、向けられていた視線がどのような種類かは分かってしまう。
彼は、自分が置かれている状況を考えれば、誰かと一夜の過ちを犯す気になど到底なれない。
進退窮まるほどの事態に陥るくらいなら、この現状……孤独を強いられても構わないと本気で思うくらいには。
そうして彼は今日も一人、カウンター席の孤高なる高嶺の花として存在している。
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