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「というわけだ。他をあたれ」
にべもなくカナタに言い放ち、うっすら結露し始めたグラスを持とうとした。
その節だった右手に、カナタがそっと自身の左手を重ねてくる。
「そう言わずにさぁ……。それに僕が、」
不穏に切られた言葉に、シュウは訝しげに彼を睨む。内心、ほんの少しだけ後悔した。
カナタの目が、妖しく光った気がしたのだ。
これまでに何回も見てきた、一夜の相手を口説こうとする男の目。
一段と強い不快感を覚え、手を振り払おうとしたときだった。
「そーたを知ってる、って言ったらどうする?」
「……は?」
「ついでに言えば、撮影スタジオ兼自宅にも行ける、って言ったら?」
流石に、この発言は看過できなかった。
芸能人や著名人と知り合いだと言って、性的対象をホテルや自宅に連れ込む手口はままあるが、そーたがそれに使われるのはシュウの神経を逆なでした。
推定ファン……と信じたいどこぞの青年から、そーたのプライベートに関わる発言が飛び出したのだ。
騙りであろうが真実であろうが、ナンパに用いる発言としては到底許せるものではない。
眉間の皺をより濃くし、シュウは掴まれた手を振りほどこうとした。
「そう言って、俺をどこぞに連れ込もうとする気か? その手には」
乗らんと言いかけた瞬間、不意にカナタの左手がシュウの視界に入った。目一杯に瞠目し硬直する。
中途半端に上がったシュウの手につられて、自分の左手も浮き上がらされたまま、カナタが訊く。
「……ど、どうしたの?」
「……この爪の形は……!!」
ガシッと、それはもう加減を忘れて、シュウは空いている左手でカナタの左手首からやや下を掴んだ。
そのままじっと、カナタの左手中指の爪を凝視する。
軽い恐怖すら覚えるくらいにじっと見つめられ、彼は困惑した声を上げることしか出来なかった。
「えっ、な、なに?」
はぁ……、という、草臥れたため息をシュウはついてしまった。
カナタの左手を解放しながら、眉間を揉む。
毎日そーたの配信や動画を見ているのだ。やることがなくて毎日何時間も彼のチャンネルのコンテンツばかり見ているから、ちょっとしたことも記憶してしまった。
そう、動画にはっきりと映るか映らないかも分からないような、手指の爪の形であっても。
もう一度ため息を吐いて、男は初めて無表情以外の表情……困惑と驚きがない交ぜになったような、微妙な顔でカナタを直視した。
一見すれば男性か女性か分からないほどの、中性的な美貌。まるで子猫のようにぱっちりとした目に、すっと筋の通った鼻梁、やや薄めなものの血色のいい唇。寝起きの櫛どおりが悪いと配信で嘆いていた猫っ毛の髪。小ぶりに見えるのに意外と男性らしい手。スラリとした四肢と細身の体。
ぼんやりとしか認識していなかった相手が、今、はっきりとした像を伴ってシュウを見ている。
……認めざるを得ない。今、シュウの前にいる顔はこの数ヶ月、彼がほぼ毎日画面越しに見てきた顔だった。
「……貴様、もしや……、……本当に……そーた本人……、なのか……?」
確認のために訊ねた声が震えていた。こんなこと、もう何年ぶりだろうか。
カナタは驚いたような顔をしていた。
シュウに訊ねられ、次いで自らの左手の爪に視線を落とし、それから……。
「……はぁ……。えーなに、お兄さんこっわぁ……」
カナタは観念したとばかりに両手を挙げた。だが、シュウは見逃さなかった。
ほんの一瞬だけ、彼の口の端が上がったのを。
「左手見ただけで見抜いた人とか、今までいなかったんだけどぉ」
カラカラと笑いながらカナタは言う。
「それにしても、さっきのオタクトーク凄かったなあ。こんなに熱烈な感想、動画のコメント欄ぐらいでしか目の当たりにしてないから、面食らっちゃった」
その言い方に、シュウはまたため息をつく。
「……では、やはり」
「そ、俺が料理系動画クリエイター、そーただよ。よろしく、俺のファンさん。……ところで、」
すい、とカナタが男に顔を近づけてきた。甘い声で囁いてくる。
「これも何かの縁だし、お近づきになった印に一緒に飲もうよ? 大丈夫、何もしないから」
……そうは言っても、と、シュウはママに視線をやる。
ママは小さく、だが厳しい顔で首を振った。自分の立場が分かってるのか、と言いたげな渋面だ。
「あ、せっかくだし俺の家に招待してあげるよ。俺の手料理で飲まない?」
(そーたの家だと!?)
思わずカナタを勢いよく見てしまった。他の事情を知っている常連客も。きょろきょろと客席を見渡しているスタッフもいる。
(……本気か?)
シュウは真意を探るように、彼を鋭く見据える。にこやかな笑顔が返ってきた。
口元を軽く覆いながら姿勢をテーブルカウンターに戻し、思案する。
(……こいつは、俺がどんな立場にあるか知っていて声をかけてきたのか?)
いつからこのバーに来ているのか知らないが、歌舞伎町に出入りしているならシュウの噂の一つや二つは聞いたことぐらいあるだろうに。
……だが、シュウは正直言ってしまえば、そーたの料理は一度でいいから食べてみたいと思っているのも本当のことだった。
動画を見て作り方を知ったとしても、それは「そーたのレシピで自分が作った料理」であり、決して「そーた本人が自分のレシピで作ったそーたの料理」ではないのだ。
そう思った瞬間、天秤がカナタ――そーたについて行くに傾きかける。
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