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menu.5 心癒やすコンソメスープ(3)
一ヶ月前、一回だけ訪れた奏太のアパート。カーテンも壁紙も家具も、全てあのときと変わりなかった。
だが心持ち次第で変わったように見えるものなのか、と修一は思う。
ちょっと準備するものがあるから、とテレビの前にあるリビングソファーに座らされ、時間を持て余していた。
奏太の家に入って次にしたことといえば、洗面台に連れて行かれての手洗いうがいだった。
その後ソファーに案内され、時間潰し用にと数冊のグルメ雑誌をテーブルに置かれ今に至る。
たが、今はとても読む気になれなかった。ただぼんやりと表紙を眺め続ける。すると、キッチンからいい香りが漂ってきた。
準備と奏太は言っていたが、何か作っているのだろうか。
背後を振り返ると、奏太はコンロに乗せたミルクパンに小さく切り分けたミルキーイエローの物体を入れていた。
しゅわ……と物体が溶ける音に、換気扇から逃げて部屋に漂うかぐわしい香り。
(あれはバターか!)
修一は瞬時に思う。そしてぐう、と控えめになる腹の虫。
ふと顔を上げた奏太と目が合った。彼は笑ってから、視線を手元に戻す。
「もうちょっとだから待っててねー」
言いつつ、タマネギを8分の1に切り、薄くスライスしている。淀みない包丁捌きの音に、修一はふらりと立ち上がる。
ひょこひょことキッチンに向かい、カウンターの向かいから覗き込む。
急に出来た影に奏太は笑みを浮かべる。だが、特に何も言わず、ベーコンを一枚細切りにしていく。
それが終わったところで、暖め終わったミルクパンにタマネギとベーコンを投入。次いで火をとろ火から弱火に上げる。バターと食材がじゅわり、という音を立てた。
「……ぁ」
美味しそうな音とバターの香りに、修一は無意識に呟く。ぐうう、と腹の虫が盛大に主張し始めた。
じゅっ、じゃっ、と木べらで材料を動かすたびに立つ音。換気扇に吸われていく蒸気から離れていく香り。それらを操るように料理を続ける奏太。
(奏太が……、料理をしている……!)
じわり、と熱くなる目頭。
もう見ることが出来ないのだと諦めた光景が、確かにあった。
ぐ、と胸が詰まる。これ以上は見ていると、年甲斐もなく大泣きしてしまいそうだと思い、修一は視線を外してソファーに戻った。
置かれた雑誌を適当に取り、適当にページをめくる。内容なんか全く頭に入らない。
その間にも奏太の調理は進んでいる。タマネギに火が通ったのか、鍋に何かが投下される。
一瞬、じゅっ、と強い音が立ったあとは静かになり、計量カップや木べらをシンクの洗い桶に移す音、包丁とまな板も含めて洗う音がする。
やがて洗い物が終わると、鍋の中から微かに沸騰している気配がする。
何かを棚から取り出す音がし、ぽちゃり、という小さな音が鳴った。すると、コンソメの香りが漂ってくる。
奏太は動画上で和食ばかり作っていたわけではないが、どうしても和食や日本食のイメージがついていた。
修一は雑誌から顔を上げずに訊く。
「……和食専門、という訳ではなかったんだな」
それに奏太は何でもないように答える。
「え? うん、まあね。確かに専門学校での専攻は和食だったんだけど、ほら、若い連中が腹ぺこの状態で集まったら食べたくなるのはがっつりしたものじゃん? 和食に比べて洋食の方ががっつり割合が高いからさ」
フライドチキンとかエビフライとかハンバーグとかポテトフライとか。
当時の食生活を思い出しているのか、苦笑しながら数えるように羅列する奏太。思わず修一は分かる……と頷いてしまった。
奏太は塩とこしょうをミルで砕き振り入れ、味を調えたミルクパンの中身を小皿に少量取り、味を見る。うん、と頷いたのは納得する味になったのだろう。
IHコンロの電源を切る音が聞こえた。奏太は食器棚からスープマグとスープスプーンを2セット取り出し、調理台に並べる。
マグに半分ずつコンソメスープを流し、マグにスプーンを入れて片手に一つずつ持つ。
キッチンからソファーに向かう。座る前に片方のマグを修一の前に置いた。
「どーぞ」
奏太は促すように言い、隣に座る。
修一は、自分の分を息で冷ましている彼を見て、それから自分の前に置かれたマグに目を移す。
湯気の立つ琥珀色のコンソメで泳ぐ、美しく透き通るタマネギとほどよく色づいたベーコン、胡椒の粒。
ぐう、とまた腹の虫が鳴った。
(……残したとはいえ、スパゲッティ食っただろう、俺の胃……!)
じわじわと沸き起こる羞恥心になんとか蓋をしつつ、マグを手に取る。
顔面に集まる熱といい、くふふという笑い声が聞こえてくるあたりといい、あまり隠せていないような気もするが。
「……いただき、ます……」
「どーぞー」
スプーンでスープを掬ってから、一回息を吹きかけ冷ましゆっくりと口に流し込む。
ちょうどいい塩気の暖かいスープだ。芯から冷え切っていたような体が温まっていく気がする。
思わず、修一は呟いていた。
「……美味い」
ほう……と息をつきながら言う修一に、奏太は微笑みを向ける。
「なんだか中途半端にお残しさせちゃったからね……。申し訳ないなぁ、と思って。修一くんにも作った人にも」
その言葉は、料理人としての顔を持つ奏太ならではの観点だった。
確かにそうだ、と修一は思う。あのペペロンチーノとキッチンスタッフに罪はない。
「……そうか。……そうだな」
「うん」
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