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それから会話が途切れる。だが決して嫌な沈黙ではなかった。
スープを食する音やマグとスプーンが触れる音がリビングを支配する。
穏やかな時間だ。修一にとっては心地いい沈黙だった。
コンソメとベーコンの旨味、タマネギの甘さが、彼の緊張を和らげていく。
2人で黙々とスープを食べ進め、やがて同時にコトン、とマグがローテーブルに置く音がする。
「ごちそうさま」
「おそまつさま」
一応の礼儀として謝意を述べる。奏太が反応を返す。
片付けるね、と奏太が持ってきたときのように2セットのカップとスプーンを持っていった。少ししてから水音とカチャカチャという食器を重ねる音が聞こえてくる。
音が止み、奏太がソファに戻ってきた。修一の隣に座る。左隣から、とすん、という軽い衝撃がきた。
胃に少しでも物が入ったことで体が落ち着いた修一は、ぽつりぽつりと、これまで許されなかった行為であった心情の吐露を始める。
「……俺の父も元々警察官でな。自然と俺も、幼児の頃から憧れのようなものを持つようになった。だから警官になると決めてからはその進路に向けて邁進した。警察学校に合格したときと、卒業後正式に配属先が任命された時は本当に嬉しかったんだ……。……だからこそ、俺は自分がヤクザ者に拉致監禁され慰み者にされたことが理解出来なかったししたくもなかった。何故俺なんだ、何故、何故……とな」
「……ん」
「そもそも、男にレイプされるということが当時の俺には未知の出来事すぎて、理解を拒んだというものある」
「……そっか」
「……散々怒鳴ったし、懇願したし、最終的には泣き喚きもした。家に帰せ、解放しろ、と何度も何度も……。だが、奴はその度に俺に薬を盛り、拘束を増やし、朦朧とした俺を……っ」
ニヤニヤと笑う青木から語られたそれらの頃の記憶は曖昧になっていて、修一はもう覚えていない。
ただ、望まない快楽の末に心が壊れたのは事実だった。
それを物語るような事態もあった。
「……閉じ込められ、ベッドに繋がれ、何日たったか分からなくなった。絶望に焼かれた俺は、意識を失っていたらしい。次に気がついたとき俺は、連中の息のかかった精神科病棟に入院していた」
「精神科?!」
そこで奏太は目を剥いた。
まあ、一見普通に見える受け答えはしているし、言わなければ分からないよな……と修一は苦笑する。
「だ、大丈夫なの!?」
「ああ。……どうやら俺は薬と過度の快楽で、何かしらの精神疾患を患っていたらしい。他院後もその病院にカウンセリングに行っていたが、最初の数ヶ月で面倒だの行ったら殺されるだのと適当な理由をつけてサボった。連中の息のかかった病院なんぞ、逆に殺されに行くようなものだと喚いて、本気で自分に包丁を向けたりしてな。そこの職員連中全員、医療従事者の皮を被った殺人鬼の集まりだと、そう本気で思っていたし」
「……それ、悪化してない?」
冷や汗混じりの奏太の疑問に、修一はクク、という笑いを返した。
宥めすかしても脅してもベッドの中からテコでも動かず、それどころか自死を楯にしてきた当時の修一に困り果てた青木の姿を思い出したからだ。
「ダメだったんだろうさ。そのうち、当時俺が監禁されていた屋敷に精神科の医師が往診に来るようになったぐらいだ。大方、奴が頭を下げたか脅したかのどちらかだったんだろう」
「へ、へぇ……」
「でもな」
そこで、修一はソファに座ってから初めて奏太の方を向いた。その顔には、穏やかな笑顔が浮かんでいる。
修一が意図してのものではない。完全に無意識だった。
「奏太の動画を見始めた頃から、いい方向に気持ちが上向きになりましたねと医者から言われたんだ」
「えっ」
「俺にとって、【そーた】の動画はそれほどの価値があるものなんだ。消されれば、この世に価値など無いと本気で思うくらいにはな」
修一はそこで一旦言葉を切ると、俯き加減になる。その表情は曇った。
「……本来俺は、あの日以降、もうお前に関わるつもりはなかったんだ」
「えっ」
「お前のためだと思ってだ。帰ってから自分の選択ミスを何度後悔したか分からん。……青木は、俺をナンパした人間を許すような奴ではないと、分かっていたはずなのに」
「……それは、俺もぐいぐい行ったから」
「青木は、既に俺の使っていたスマホのアクセス履歴から、お前が何者か調べあげていた。……それを以て、いつでもこいつを消せるんだと、そう俺を脅してきた」
「……」
「だから俺は、一ヶ月奴に全力で媚を売っていたんだ。……お前の動画さえあれば、俺は生きていける」
つまりそれは、その時点で修一の拠り所は『そーたのcookin'チャンネル』以上のものがなかったということだ。
紫苑や両親の身の安全を握られていたことは確かだ。だが、優先順位の最上位が【そーた】の存在とその動画になっていた。
だから修一は耐えた。ひたすら耐え続けることを選んでしまった。
それは一体何故だったのか。
躊躇いがちに、彼は口を開く。
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